鍋から飛び出たゆで蛙、己を知る 2
「さて、どうするか……」
安岡はシャワーを浴び終え椅子に腰かけ思案する。その前のデスクには備え付けの小型冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターの500mlのペットボトルが二本並んでいる。
一本は空、もう一本は残り半分ほど。室内を最大風量に設定したエアコンが冷気を勢いよく吐き出す音が響いている。タオルで拭っては黄色く染まっていないことを確認する。そんなことを繰り返していた。
「よし…… ちょっと考えるべ。」
指折り声に出していく。
「黄色い汗はローション、赤い唾は接着剤。腹の傷跡をなぞると発動、鏡を見ると停止。理屈は分からん」
しばらく想いに沈むと言い切った。
「発動させなきゃいいだけか」
肩の力が抜けた。
(他に考えなきゃいけないことがあったような……)
はっ…… と思い至る。
「ドア、ちゃんと開くんだろうな?」
脳裏にはマンションの一部屋に何年にもわたり軟禁された男の物語を描いた漫画があった。
全裸の股間を左手で抑え、ドアに小走り、チェ―ンを外し、鍵を捻る。ドアノブを静かに抑え、前かがみ。恐る恐るドアを押してみる。
引っ張られた。全開のドア、つんのめって前に倒れこむ安岡。下敷きになる女。
黒いゴシックロリータと呼ばれる服を着ている。髪型は縦ロールのツインテール。黒目が不自然に大きく、まつげもまた不自然に長く上に向かってカールしていた。病みメイクというのか、黒いマスクとの対比で両目周辺の赤みが目を引いた。
「「え?」」
二人の言葉が重なる。
「すいませんっ。すいませんっ。すいませんっ」
飛びのくように立ち上がる安岡。眉をしかめる女。恐れをなして股間に手をやり腰を引く安岡。傍から見ると全裸で若い女に前のめりの中年男だ。
(とにかく早く身を隠したいってのに)
ドアを閉めることはできない。閉まるドアにはさまれれば女や女の服や持ち物に損傷を与えかねない。そう判断して片手でドアを押さえておく。改めて女を見る。
(なんで、こんなところにゴスロリさんが?)
「大丈夫ですか?」
安岡の問いに棘の含まれた声が返る。
「あなたはどう思います?」
(おっ怖、身元を知られたら訴えられたてケツの毛まで抜かれちまうっ…… って、今更取られるもんもねえか)
「まずは一旦。そう、一旦でいいから立ちましょ?」
安岡は女に片手を差し出そうかと逡巡する。
(やべ、ドアもアソコも押さえておかなきゃ……)
女は安岡の様子を確認するとため息をひとつつき立ち上がった。
「だ、大丈夫そうですね……」
「なんで?」
「と、と、と、とくに血とか出てないし、お召し物も汚れてないですし…… 自分でお立ちになられましたし」
(くそっ。どうしてもめんどくさそうな若い女には緊張しちまう)
うつむく。足元をが目に入る。かかとの厚い膝までのブーツを履いていた。
「こんな靴、履いてるウチが悪いって?」
「ち、ち、違います」
顔の前で手を振る安岡。
「顔見せて」
「え?」
「それ、やめて」
ゴスロリ女は目の前で安岡を真似て顔の前で手を振る。安岡は手を振るのをやめて股間に戻した。
「安岡さん?」
(おっ怖、身元がバレたらめんどくさそうだ。ごまかしちまえ)
「いえ、オールドボーイと申します。」
「は?」
(馬鹿か、俺。とっさだからって偽名として通じねえだろっ。くそ、このメスガキ俺の名前知ってるし)
「あ、じゃなかった、えっと、安岡です。おっしゃる通り安岡という、かつては少年と呼ばれたおじさんです」
(我ながら無茶な辻褄合わせだな)
安岡を見る女。一瞬の沈黙。手を叩いて笑った。微笑むその瞳に目を奪われる。
「大丈夫です。あなたが安岡さんなら」
「え?」
「これ、あなたに差し入れです。ぐちゃぐちゃになっちゃったかもだけど。ちょっと、中に入ってもいいですか?」
「あ、はい」
ゴスロリ女はドアを抑える安岡の腕を見て状況を理解したのか自ら一歩前に入る、安岡がドア抑えていた手を放すとドアは静かに閉ざされた。
安岡がレジ袋を受け取り覗き込むと持ち帰り用の発泡スチロールの容器に入った牛丼が横倒しになり中身がこぼれているのが見えた。
「頼んでませんけど……」
「ああ、スマホ見てないんですね。川島さんです。私、川島さんに頼まれて」
「あ、そうですか。すいません、さっきまで寝てて。それからもずっと夢見てるみたいで……」
ゴスロリ女は首を傾げ心配げに安岡の顔を覗き込む。
「安岡さんこそ大丈夫ですか? すごい大怪我してたって聞いてますけど……」
「あ、もう大丈夫です。復活しました。川島さんには回復したと、あともう私とは関わらないほうがいいとお伝えしてください。じゃあ」
安岡は女に退出を促すためにドアのほうに目くばせした。顔を戻す。目の前になにか現れた。ピントが合わなくぼやけてる。突如目と鼻を刺すような激痛。
「うわっ! 痛てぇ」
倒れこみ身を丸めて両手で顔を覆う。肘の関節を含めて胸のあたりが締め付けられる徐々に顔を覆ていた両手が下方に滑っていく。両手はすでに鳩尾あたりまで下げられた。
頭を覆われる。半透明なビニール袋。背中に服の感触と装飾品の感触。首にまとわりつくゴスロリ女の腕。
「怯えろ、竦め。超人の力を活かせぬまま死んでいけ」
怒りと緊張の混じる声。
(ああ、なにかを演じて生きてるの、俺だけじゃないんだな)
薄れゆく意識の中。安岡は静かに腹の横一文字の黄色に手を伸ばす。




