2-2 惰性の炭酸
私たちは、窓際の一番後ろに横並びで置かれた、特等席に座るよう言われた。それで、ホームルームが終わるとすぐに、玉樹に吃驚していた人が、痩身高身長美人の腕を引っ張りながら、誰よりも早くこちらにやってきた。
「たまっちゃん久しぶり~!元気してたー?」
「あ、シーサー。元気だよ。病気になったりもしてない」
「まさかこんな所で再会するなんてっ。同じ学校に通うことになるとか、夢にも思わなかった~」
そして自然な流れで玉樹の机に座っていった。凄くなれなれしいけど、玉樹はそれをあまり気にしていないようだ。私に対する態度とは異なるような、まあ、いいか。
「その制服は前の学校の?」
玉樹のリボンを持ち上げて、そう聞いてくる。確かに他の人の制服は、セーラー服ではあるけど、私たちよりも濃い、紺色に近い青色のリボンをしている。自分の胸元と見比べてみると、デザインも少し違うことに気付いた。今の気分は、浮くより沈みたい気分なんだけどなぁ。
「いや、多分ここの制服だと思う。お母さんのおさがりだから、昔の制服なんじゃないかな。あれ?なんで二人分あるんだろう?」
「こういうのって、いくつか持っておくものだからじゃない?」
「でも莉央奈さん、スカートも2着あるんだよ」
「まっ、どうでもいっか!あ、やーはじめまして。あたしは戌亥志佐、だからほぼほぼシーサーってわけっ。で、こっちの無愛想で感じの悪い人が、洲鎌淑乃。よろしくぅっ」
志佐が私に手を振ってくる。適当に「よろしくー」と言って、愛想笑いでもしておいた。
「えっと、シーサーは私の幼馴染。と言っても、親の帰省でこっちに来るお盆の時期ぐらいしか会うことないけどね」
「めーっちゃ親友なんだよぉーっ」
そう言って、志佐は玉樹の肩に手を回して抱き寄せた。
「そう友達。色んな所に行ったよね……」
「なんで友達って訂正したの!?いいじゃん親友でっ」
「他人に紹介する時に、親友の○○って普通は言わないよね。普通から逸脱するなら、それ相応の意味がないと」
「んがぁーっ、そうかもしれないけど!でもいいじゃん親友で!」
「んー、莉央奈さん、シーサーってこんな感じの人。まあ、悪い人じゃないよ」
「悪い人だとは思ってないけど……」
「やたぁーっ。これからよろしくねっ。……なんて呼ぼうかな。莉央奈、りおな、りおなっち、いや、なっちで行こう。なっち!」
志佐は私の机に跳び移って、両腕を大きく広げた。うおぉ抱きつかれる、と思ったら、スレンダー八頭身佳人こと淑乃が水を差してくれた。まあ、私が勝手にそうキャラ付けしているだけで、本当に八頭身なのかは知らない。たぶん違う。
「ねぇ戌亥、私はいつまで居ればいいの?そろそろ席に戻りたいんだけど。再会を喜ぶのも転校生を茶化すのも、一人で勝手にやってくれない?」
「もぉー、よっしーはいつも冷たいなぁ」
「私がこの場にいて、何か意味があった?」
「場が和むっ」
「私がいない場合と比較してないんだから、そう言い切れないでしょ。そろそろ授業はじまるし、先に席に戻ってるから」
「じゃっ、また後で。お昼ごはん一緒に食べよーっ!もちろんよっしーもね」
こうして志佐は、淑乃の腕を後ろから掴みかかりながら、自分の席に戻っていった。なんとなく二人の後ろ姿を見ていると、玉樹からの視線を感じる。
「どうかした?」
「え?特に用はないけど……」
「にしては頬杖まで突いて、しっかりこっちを向いてるけど」
「それはお互い様。莉央奈さんだって、家でよく見てくるよね」
「なんとなく見ちゃう」
「私は、莉央奈さんを信用しきれてないから見てしまう。約束したはずなのにね」
玉樹には見透かされているのだろう。自転車で坂を下っている時だって、もしブレーキから手を放して、そのままコンクリートの壁に激突したら、とか想像しては、これじゃあ確実に死ねないと棄却するような思考回路を。それ故に、信用しきられていない。
死んでほしくない、あなたの命だって尊いって言ってもらえたのに、命運さえも委ねられたのに、それでも気持ちを改められないから、私って生きるのに向いてない。はーあ、挙句の果てに玉樹を軽く怒らせてしまうし。
まあ、玉樹は玉樹で、何を考えているのか全く分からない。さっき不快指数の針が微かに触れたのは、私の見間違いだったのだろうか。でも今、横にいる玉樹は、ごくニュートラルな感じで。不機嫌になっている場合でもないだろうけど、安閑としている場合でもないんじゃないのかな。こんな約束、志佐が聞いたらどう思うんだろうか。ふと、そんなことが脳裏をよぎった。
実は優等生なのでうたた寝することなく授業を受けて、もちろんそれは嘘で、こっちに来てから生活習慣が健康的になり過ぎて昼間に全く眠気を感じなくなっただけなんだけど、ともかく昼休みになった。宣言通り、志佐と彼女に強引に連れられた淑乃が襲来した。
「はい。転校記念大歓迎としてあたしの奢りです。味わって少しずつ飲んでよー」
「ちまちま飲んでたら炭酸抜けると思うけど」
どん、どん、と私と玉樹の机にファンタの沖縄限定シークヮーサー味が置かれた。横を見ると、玉樹が見るからに嬉しそうに手に取って、早速キャップを開けていた。
「そう言えば、飲むの忘れてたな。これを飲まなきゃ、沖縄に来たって実感が湧かない。というか、これからは飲み放題なのか……」
なんか、玉樹がにやにやしている。好物を把握しているなんて、曲がりなりにも志佐って玉樹の友達なんだなーと。
「え、たまっちゃん、これそんなに好きだったの?」
「好きだよ?確かに、シーサーの前で飲むのは3回目ぐらいだけど、その時に好きって明言したと思う」
「うぅーん……んぐぐぐぐ、ああああああ、ぜんっぜん思い出せないけど、なんかそんな気がしてきた!」
やっぱり二人は友達じゃないのかもしれない。おかしいと思った。性格とかノリとか、どちらが上か下かではなく、人間性が違いすぎるもん。
でもそんなことは重要じゃないと言わんばかりに、玉樹が恍惚した表情で微笑みかけてきた。
「莉央奈さんも飲んでよ。絶対、幸せになるからっ」
「怪しい薬みたいな誘い文句だね……。ありがたく飲むけどさ」
爽やかなだけど独特なシークヮーサーの香りが広がり、それでいてしっかり濃密に甘くて、炭酸が刺激的で。癖になるのはまずい。際限なく求めてしまうような人だから。
「どう?幸せになった?」
私が口の中のファンタを飲み込んだのを確認すると、彼氏が初めて自分の手料理を食べるのを見届けるかのような表情で、そう聞いてきた。確かに今の私の舌を包む感覚は、幸せに近いものなのだろう。でも、炭酸のようにすぐに弾けてしまう、簡単に砕けたり潰されたりするような、刹那的で単発的な幸せなんて、いくらあっても満たされない。炭酸で一時の満腹感は得られても、それは血肉にはならない。炭酸なんてしょせん空気でしかない。
もっと本質的で持続可能で、容易に手に入れられなくて、他人とは形が違って、快楽だけじゃなくて、言葉で説明するのが難しくて、そういうきちんとした幸せが人間を生かすし、私と玉樹の約束はそれを目指すものに決まっている。それを手に入れられるのなら、自殺しようだなんて考えに至るはずがない。でも私は、堅実な幸せを手に入れるスタートラインにすら立てない性格なんだから、仕方ない。
「んでー?なんでたまっちゃんは沖縄に来たの?親の転勤?」
玉樹の質問に答えるのを躊躇っていると、何か追加で言われる前に、椅子の上で片足だけあぐらをかいて、随分とリラックスしている志佐が、前のめりになりながら別の話題を始めた。どういう設定にするんだろう。とりあえず横を向いて、玉樹の顔をうかがった。
「えっと、そりゃあ、えぇ」
「んんー??」
「まあ、少し言いにくい事情が」
「えっ、言いにくい事情?」
「アブノーマルでアンリアルな事情が」
玉樹は志佐の顔を見た後に、一人メロンパンの味に集中している淑乃に目線をずらして、それから何かを訴えかけるように私の方まで見て、でも結局、本当のことを言わなかった。やっぱり志佐はそこまで大事な友達じゃないのか、心配をかけたくないとか考えているのか。私には関係のない話だけど、意外だとは思った。
「なんだろう、めっちゃ気になる。ねぇよっしーっ」
淑乃は肩を激震させられているのに、まるで表情を変えずに。
「人のプライバシーをまさぐって、責任とれるの?私を巻き込まないで」
「あーもうつれないなぁ。んじゃ、隣のなっちとの関係は?なんか友達みたいだけど」
「友達?定期的に話す機会があり、積極的に雑談や協働を行う意思を持てる相手ってこと?」
「そう友達」
志佐は対角線上の私にも視線を送ってきた。なぜ「総理、ご決断を」みたいな神妙な空気が漂っているのか分からないが、とにかく首を縦に振りつつ、パスを玉樹に繋ぐ。
「まあ、そうだね」
「だね、友達」
「どこで知り合ったの?というか、友達同士で一緒に転校って?」
というか、志佐の視線が一瞬下を向いて気付いたけど、容器は違うとは言え中身が同じお弁当を食べている時点で、ただの友達で押し通せるのか?親族ということにしておいた方が、都合が良かったかもしれない。 とても血が繋がっている顔立ちではないんだけどね。
「東京で、普通に」
「おぉ、かっこいい」
「シーサー、東京行きたいってずっと言ってるよね」
「もう言わないよっ。行ったから、修学旅行で。……って、その時にたまっちゃんの家に遊びに行けば良かった!あたしとしたことが……。あでも、今日から毎日遊びに行けるじゃん」
「いいよー」
私の心配をよそに、普通に幼馴染二人で盛り上がっている。なんだか、こちら側の机と温度差があるが、それでいい。このまま玉樹は、そう遠くないうちに色んなものに絡め取られて、難癖の末に約束を反故にするだろう。そして、この逃避行を記憶から抹消する。何も、焦って玉樹から自殺の許可を貰おうとする必要はなかった。いつまでもこんなことを続けていられるわけないのだから。仲良さそうな二人を見て、安堵したような感じが舌の上で一瞬ざらついた。
「てか、たまっちゃんのお弁当おいしそ~。なっちのも美味しそうっ。ねぇ、卵焼き一つちょうだいっ」
何も掴んでいない箸を密かにかちかちさせていると、志佐が私の前に首を突っ込んできた。って、えぇ、気付かないの、何も疑問に感じないの?そしてなぜ私からねだる。願ったり叶ったりだけど、何だか色々釈然としない。んんー……、釈然とする人ばかりと関わっていた今までが、むしろ異常だったのだろうか。
休み時間の度に志佐は節操と落ち着きなくやってきていたのだけど、予想に反して放課後は来なかった。どうせ来るだろうなーと、特に示し合わせてはいなかったけど、二人して自分の席で身構えていたのに。
教室を二つの雁首が見回して、志佐が居ないことを確認して、怪訝な表情で顔を合わせる。そして隣の席の玉樹が、カバンを抱えたまま尋ねてきた。
「どうする?どこか寄る?」
「んー、帰ろっかー」
今の私がどこかに行きたいなんて自発的に思うはずがなく、玉樹の誘いを半分無意識で、それも相手を傷付けそうな軽い感じで断っていた。それでも、と志佐が淑乃にするように、あるいは橋の上で玉樹がしたように、強引に引っ張ってくることは、どうやらしないらしい。「そっか」とだけ溢して、ゆっくりと立ち上がる。時々、変なことをするからよく分からなくなるけど、玉樹って割と普通だ。その変な思い切りが時々爆発する時点で普通じゃないのかもしれないけど。
放課後らしい開放的な雰囲気の廊下を、玉樹と並んで進む。ギャルの爆笑や野太い野郎の馴れ合いなど、多様な音色が賑やかに響き渡っていて、まるでベースの音のように、さりげなく吹奏楽部の演奏と、野球部の掛け声が聞こえてくる。そのハーモニーの中に、ひときわ目立つ、いわばボーカルみたいな声が飛び込んできた。つまるところ、前から志佐が迫ってきた。
「たまっちゃんっ!なっち!」
「あっ、シーサー。どうしたの?教室にいないから、部活にでも行ってるのかと」
「きっ、聞いてくれよぉー、ピンチなんだよぉーっ」
「聞いてるよ」
「担任に追われてるっ!」
「なんで」
「補習さぼったから。かっ、匿ってくれ!」
「え、どうやって?そもそも、さすがに補習は行っといた方がいいと思うよ。やる気を見せておけば、大目に扱ってもらえる確率が上がるから」
玉樹に正論?を言われた志佐は、私たちを交互に見てから、突如として玉樹に抱きつき、振り返ってこちらを睨んできた。
「あたしのたまっちゃんを取らないで!あたしをハブって遊びに行くつもりなんでしょ!」
「ただ一緒に帰るだけだよ……?」
「むしろシーサーが誘ってくると思って、教室で待ってたぐらいだから、除け者にしようだなんて微塵も考えてないよ」
「いいないいなぁー、あたしもたまっちゃんと、かーえーりーたーいーっ」
志佐は玉樹に抱きついたまま、くるくる回り始めた。私が死ぬことは擁護できる玉樹でも、志佐のこの行動には当惑させられているようだった。
「おい戌亥、早く3年6組の教室に行け」
「前回のテスト学年シタカラ10位だっただけなのに血も涙もねえー」
担任が追い付いてきて、志佐に彼女の成績が想起される視線を向ける。
「それなら、終わるまで待ってようか?あぁでも、莉央奈さんを待たせるのは申し訳ないから……。莉央奈さんを一回送ってから戻ってくるよ」
「いやいやっ、そこまではしなくていいよ。仲良く帰りな帰りな、帰ればいいじゃんっ」
口を少しとがらせて拗ね始めた。気持ちは分からなくもないけど……。
「じゃあ……戻ってこないからね?」
「えっ」
「えぇ、どうしてほしいの……」
「んー、明日!明日、必ず遊ぼっ。明日は補習ないんでしょっ?」
「家帰って勉強しろよ……」
担任は分かりやすく嘆息をして、頭を掻きながらそう言った。
「分かった。今日、一緒に帰れない代わりに、明日遊ぶのね」
「うし、頑張ってくるぜ。じゃ、また明日!」
なんか私にまでグータッチが回ってきたが、ともかくモチベと起源を取り戻した志佐は、担任連れられて、奥の教室へ向かっていった。横を一瞥すると「暑苦しかった」と、玉樹がすくめた肩を手で払っている。志佐は……、うん、頑張れー。
帰りは行きとは逆に、玉樹がぼろい方に乗ることになった。新しい方は電動アシストが付いていて革命的に乗りやすい。上り坂の帰りで新しい自転車なんて、これはフェアなのだろうか。まあ、その優越感で幸せになれってことなのかもしれない。
まだまだ陽は落ちる気配すらなく、オーブンの中のように逃げ場なく満遍なく暑い。死にたいというか死ぬ。自転車を漕いでいるはずなのに、まるで時が止まったかのように無風なせいで、余計に暑く感じる。こんなのが毎日続くなんて地獄だ。なんで私たちは地獄に逃避行したんだろう。
「ねぇ莉央奈さん」
「ど、どうかした……?暑すぎ死んだほうがマシ……」
「だったら、コンビニに寄る?」
「何か用事があるの?」
「暑いから涼みたいかと思って。今日の最高気温、33度らしいし」
「んー、どっちでもいいかなぁ」
涼しくなるまで待っていたら日が暮れてしまうし。そう思って、惰性と慣性で走行しているうちに、赤と緑と白の看板を通り過ぎた。
「やっぱり、行こう。熱中症で莉央奈さんに倒れられたら、運べないからっ」
少し進むと、今度は緑と白と青の看板が見えてきて、そこで玉樹は忽然と宣言してから右に曲がった。玉樹が望むのなら一休みするかー。まだ学校を出て3分ぐらいしか経っていないことに萎えつつ、コンビニの軒先に自転車を並べて止めた。
こんなに暑い日には、さすがにアイス以外を買う気にはならない。自然とアイス売り場に吸い寄せられて、軒先の日陰で、横並びに壁に寄りかかりながらそれを食べた。冷たい液体が喉を通る度に、雪のように儚い清涼感を覚える。口の中に濃厚な甘い味わいが広がって、味蕾から伝達される信号が、薄い膜となって感情を覆うから、ここにいる理由さえも霞んでしまうような気がする。でも前を向くとそこには、青空があって真っ白な巻雲がそれを彩って、もうしばらくは何もしなくていい明日があって、それら全てが敵のようにさえ思えた。
「一口もらってもいい?」
「あぁ、いいけど」
玉樹の要請に応じて、表面をスプーンで気持ち多めにすくい、玉樹の方に向けた。何となく、自分の見たことがある玉樹とは違う表情をしている感じがした。丸くなった、とでも言うべきだろうか。別にこの一瞬で歳を取ったというわけではなく。んー……要は、そんなことを言ってくること自体が意外だったのかもしれない。友達だろうとべたべたするのではなく、一定の距離を保って付き合うような人だと勝手に思っていたから、というか今までの振る舞いがそうだったから、他人が使ったスプーンに口を付けることに抵抗を覚えそうなのに。
「美味しいー」
「だってハーゲンダッツだし」
「やっぱり、値段に気圧されずに、同じのにしておけば良かったかな」
「おばあちゃんに貰ったお小遣い、大切に使いなよ」
「そうだよね、何か恩を返せるようにならないとね。とりあえず、私からも一口……いや値段を考えると約二口か。どうぞ?」
「気にしないのに」
「私も気にしないけど」
「でも二口?」
「フェアトレードってやつ。気にせず二口かぶりついて」
ここで押し問答を長々としていると、アイスがあっという間に溶けてしまいそうなので、オレンジ色の棒アイスにかじりつく。ここ数年で一番大きく口を開けた気がするな。鼻に付いたアイスをハンカチで拭いながら、フルーティーな味のする氷を噛み砕く。暑い夏を一瞬だけ忘れるような、氷が溶けるまでの喜悦。でもそれでは満たされない。もしかしたら玉樹は、今までのしがらみを全て取り払って、新天地で日常をすれば、気が変わるとでも期待しているのかもしれないけど、それは私にとっては罰でしかない。どうしたら玉樹にそのことが伝わるだろうか。曖昧なままにすることは、新しい罪な気がする。冷たい輝きを放つアイスを食べながら、時々横を向いて視線を交差させて、新生活に対する温度差を感じてみたりするのだった。
せっかくアイスと日陰で下げた体温は、自転車を漕ぎ出して数分で元に戻ってしまった。それでも無心で進み続けると、高校のある海辺とおばあちゃんの家がある町を結ぶ上り坂に差し掛かる。道の両側の茂みが増えて、少し体感温度が下がった。目に入りそうな額の汗を手の甲で拭おうとしたその時、防火扉にタライが投げつけられたかのような音が周囲に響く。玉樹が乗っているオンボロの自転車がぶっ壊れた音に他ならなかった。玉樹は半ば自転車から投げ出されるような格好で、道路にぶっ倒れる。さすがの私も、慌てて自転車から降りて、玉樹の方に駆け寄った。
「た、玉樹ちゃん大丈夫?」
「いったた……。大丈夫、ではある、よ」
身体を無理に動かそうとしながら、そんな風に言ってきた。どう見ても100%満身創痍。膝とか肘とかから大量に流血していて、地面には血痕ができている。私はしゃがんで、自分のハンカチを玉樹の膝に当てた。
「うわ、痛そう……。これはまた、盛大に転んだね……」
「あっ、ダメだよ、汚れちゃうよ。他人の血を触るのは衛生的に良くないし」
「だからって、このままにしておく訳にはいかないじゃん」
「血友病でもないんだから、ほっとけば勝手に止まると思うけど」
「いいからいいから」
「ご、ごめん、迷惑かけちゃって」
「絆創膏って持ってる?」
「持ってない」
「じゃあ、血が止まるのを待つしかないかー」
道路の端に寄り、私が膝に、玉樹が自分の肘にそれぞれハンカチを添えて、血が止まるのをゆっくり待った。こっちに逃げてきてから、時間というものがただそこにあるだけの、雲や風、雑草のようなものだと錯覚する。特別な意味を持たないし、意思を持って追いかけてくることもない。時間という鎖から解き放たれたということはつまり、死んでいるようなものなのかもしれない。と、都合よく解釈してみても、今の私が息をしていて意識が明瞭で、玉樹の止血をしているという事実は変わらないし、特に幸せになれるわけでもない。
「なかなか血とまらないね」
何となく何度もハンカチを持ち上げて、傷口を見ては、背筋がぞわっとして自分の心に傷を刻み込まれたような気持ちになる。ある種の自傷行為だけど、気になって見てしまう。
「まだ3分も経ってないと思うけど。10分しても止まらなかったら、考えよう」
「なんか、余裕そうだね。痛くなかったの?」
「え?とーっても痛かったけど、普通に涙目になったけど。だって冷静に考えてみてよ。自転車を15 kg、私の体重を40 kg、ちょっと上り坂だったから速度を10 km/hとして、運動エネルギーは(1/2)×(15+40)×(10×10^3)/3600、大体……えっと……とにかくこれだけのエネルギーが一瞬にして別のものに変わったと考えると、相当な負荷が私にかかったわけで」
「冷静に計算できてる時点でさ、凄いよ」
「だって、この痛みを莉央奈さんに信じてほしいから」
逆効果な気もするけど……。ただ一つ言えるのは、普段の長台詞は私のために、意図的にやっているということだった。いつも聞き流してて悪かったと、思ってるよ、うん。
私たちが座っている藪の影にも、熱気が徐々に押し寄せてくる。冷や汗が普通の汗に変わりつつあるのを感じる。ただ、あんな会話をしてから割とすぐに、玉樹の傷口の血は止まった。
「あの壊れた自転車、どうしよう」
「私が責任をもって押して帰るよ」
玉樹はそう言って、何かに追い立てられるように急いで立ち上がって、すぐによろめいて私に抱きついてきた。これまでの玉樹なら長々と理屈を並びてて謝ってきそうなものだけど、いま私の目の前にいる玉樹は、力なく寄りかかって、私に色々なものを委ねていて、ただの不慮の事故だけど、心理的な距離が昨日までより、今朝よりも縮まっているような気がした。
「ほんとに大丈夫?」
「……実は頭打ったから、ちょっとふらふらする」
「え、結構、大事じゃん。と、とりあえず早く帰ろう。あの自転車は私が回収しとくから」
どうするか深く思索するまでもなく、玉樹を自転車の後ろに乗せて先に帰ることを決めて、おばあちゃんの家に向け一心不乱に漕ぎ出していた。もしここで悪意を見せたりすれば、約束どころの話じゃなくなるのに。結局、私は約束を信じていない。夏が終わるまでという期間があれば、それまでになんやかんや、ごたごたが起こって有耶無耶になって、私だけがこの世から消えられる……という淡く都合のいい期待だけを信じている。だから、普通っぽいことを選んでいた。
「莉央奈さん……」
風を切る音に紛れて、か細く耳元で私の名前が囁かれる。
「なに?」
「その、失礼なことを言うんだけど」
「あー、どっどうぞ?」
「莉央奈さんが、こんなに優しくしてくれるなんて、予想外だった。別に喧嘩を売ってるわけじゃなくて、私のことなんてどうでもいいのかなーと思ってたから」
「人として、変に思われないぐらいの事はするよ……」
しかし、心中する約束を口先だけとは言え受け入れている時点で、相手のことがどうでもいいと捉えられても仕方ないし、やっぱりどうせ近々死ぬんだから、自分がどう思われても構わないという思想が、根本にはある気がする。
「友達を気遣わないのは変、だから……?」
玉樹は、私の腰に回している手に力をこめながら、再び耳元で囁く。
「友達じゃなかったら、ここまでしないかも」
「ここまでって、どこまで?」
「え、あぁ、二人乗りとか?」
「私と莉央奈さんは、友達?」
背中に暑い感触がじんわりと広がり、反対に腰を締め付けていた力が少し緩む。
「そりゃあ、友達ではあるんじゃない。……どうしたの?」
「曖昧だったから、据わりが悪くて落ち着かなくて、とてももどかしくて。まだ出会って数日だから、お互いの事ほとんど知らないし、そもそも出会い方が特殊すぎるし……」
ふーむ、今日の昼休みに志佐から友達かどうか聞かれて、少しだけ頬を緩めていたのも、三日三晩を共に過ごす中でどこかよそよそしかったのも、なかなか踏み込んでこないのも、玉樹には曖昧さの壁が見えていたから、という事なのだろう。私たちはずっと、置かれている状況もお互いの事情も、全部曖昧なままここまで来てしまった。そしてその曖昧さは、必要のない契約を生み出した。私も恐らく、自分がいかに自殺を選ぶに値する存在なのか、玉樹を説得しないといけないんだろうなぁ。
「ちなみにさ、シーサーは友達なの?」
「うん、当たり前にまごうことなく友達。だって、小学生の頃からの長い付き合いだし。時間をかけて話したり遊んだりしないと、踏み込んでいいラインとか、その人がどこまで自分と仲良くする意志があるのかとか見えてこなくて、気さくに接せない。気さくに接せないってつまり、友達じゃないってことだから。友達になるにはある程度、時間が必要だと思う」
「……玉樹ちゃんって、東京に友達いる?」
「急にそんなことを聞くなんて、どうしたの?」
「何となく気になって」
「普通にいたけど。だって、学校という閉鎖環境にとらわれてたんだから、仲良くなれるだけのコミュニケーションの機会を持てた人ぐらい、いるに決まってる」
まあ、こんなところで嘘を吐くような人じゃないだろうし、それは本当なんだろうなーと。でも、友達という関係性をすこぶる重要視しているというわけでもなさそう。事実だけを客観的に見たら、東京の友達をあっさり捨てて、私と沖縄暮らしを満喫しようと画策しているようなものだし。別に普通にSNSを通じてやり取りが続いていたり、あるいはあっさりではなく苦渋の決断なのかもしれないけど。……玉樹の本心は見通せそうにない。でも、私の浅慮で分からないだけなのに、それを不思議だと名状するのは、いささか間違っている気もする。
というか、猛烈に暑い、せいろの中で蒸し布に包まれた焼売のような気分。玉樹が私のことを友達だって確信したみたいで、すーごいしっかり腰を据えて抱きついている。接触面で汗が混ざるような感触があって、あんまりいい気はしない。それに、肩に顎を載せられて、鼻息が耳の後ろにかかってこそばゆい。ただ、それでも良いのかなと、首を露骨に動かしたりはしないでおく。この1か月間、運命は玉樹の手にあるのだから。




