2-1 空色の転校生
真っ新で真っ白な朝日に照らされながら、玉樹は律儀に箸で海苔を巻いたご飯を口に運んでいく。ゆったりとしていて清々しくて、退屈で間延びしていて、まるで朝ではないようだ。
「莉央奈さん……?」
視線に気付いた玉樹が、味噌汁のお椀を持ったまま、首を微かに左に揺らし目を合わせてくる。本当に何にもないので、細く息を吸ってから「何でもない」とだけ言って、自分の茶碗に目線を落とす。そして未だに山盛りのご飯に軽く絶望する。まあ、健闘したほうか。手を付けてすらいない小鉢は見なかったことにして箸を置いた。
「じゃあ、先に部屋に戻って準備してるので」
「り、莉央奈さん」
「なに?」
「学校、行ってくれるよね。昨日は納得してくれたもんね」
「まー、行くよ、行くから」
この家で、玉樹のおばあちゃんと二人きりは気まずいし。
なら良しと言わんばかりに、玉樹は再び味噌汁のお椀を口に付けて傾けた。それを横目に、私はお盆を持って居間を出た。
歯を磨いて、髪型を整えてから2階の和室に戻る。正面にはセーラー服が2着、長押に吊るされたハンガーにかけられて並んでいる。まるで青が色褪せたような空色の襟とリボン、ほつれている部分に応急処置が施された紺色のスカート、今日から私の制服はこれに塗り替えられるらしい。まさか、こんな事になるなんて。
先日、水族館から帰ってきた後、玉樹のおばあちゃんは「おかえり」の次に、近所の高校への編入手続きを済ませたと告げてきた。いや、そんな簡単に編入できるなんておかしい!住民票を移したり、大前提として保護者の承諾を得たり……なんか色々あるでしょ!?玉樹なら分かってくれるかと思いきや「高校で英語の教師をやってたから、コネがあるんでしょ」と早々に納得して、私は学校に行くことの素晴らしさを説かれた。いつも通りの弁舌ぶりに、分かりましたと全面降伏するしかなかった。
こうして、どうせ2か月ぐらいの命なのに、夏休みを除けば1か月か、ともかく女子高生ブランドが延長されることになった。ほんとに、学費とか一体どこから支払われているんだろう。玉樹やおばあちゃんに感謝の一言すら出ないのに、子供は目を瞑っておけばいい裏事情にだけは思考が及んだ。
で、セーラー服に着替えたら、またする事がなくなって、適当にスマホで時間を潰す。何もかも落ち着かない。そもそも私にとって朝は落ち着く時間じゃないし、着慣れない服装だし、微妙に距離感がわからない玉樹が同じ空間にいるし。景色も音も匂いも、全てが薄氷を履むような非日常だ。
「玉樹ちゃんは高校の場所、知ってるの?」
「それは大丈夫。高校近くの砂浜でよく遊んでたから。去年の夏も行ったっけ。だから覚えてると思うけど、最悪スマホで調べればいいよね」
対角線上の玉樹が顔を上げて、そう長々と答える。数日この部屋で暮らして、私が部屋の奥、玉樹が入口側と、何となくお互いの領域が固まってきた。起きている時は基本的に、自分の勢力圏でうずくまっている。だから、物理的にも常に距離があって、それが壊される気配もない。
いやまあ、別にそうなることを願っているわけではないけど、無論フリではないんだけど、もし本当に私を幸せにするんなら、まず私と仲良しこよし唯一無二の絶対的ベストフレンドになる必要があると思うんだけどなぁ。それとも、飲み物にこっそり、幸せホルモンを大放出させる薬を混ぜる作戦でも立案しているんだろうか。……玉樹って、不思議ちゃんというか、不自然ちゃんだよなぁ。それで片付けることにした。思索なんて、最も生者らしい行動は辞めよう。
「遠い?」
「それなりにね。遠いと感じたことはないんだけど、昔お母さんに、そこら辺まで遊びに行ってきたって話したら驚かれたことがあるから、客観的には遠いんだと思う」
「ふーん。嫌だなぁ」
「歩いて行ったら、の話だけどね。あぁ、ぎりぎりを攻めてもしょうがないし、もう行こうよ」
玉樹の言うように、庭ではおばあちゃんが自転車を用意していた。
「あれ、1台だけなの、おばあちゃん」
「ほら、これに乗りなー。ちょっとらすてぃだけど、平気平気」
おばあちゃんが物置の裏から、自転車を押して出てきた。カラカラと不穏な音を立てながら。それはもう、ポストアポカリプスの世界に迷い込んだのかと思うぐらい、錆び付いてぼろぼろだった。
「じゃんけんで公正公平に決めよう。負けた方がこっちの錆びてるのに乗るってことで」
「おぉ、いいけど」
朝ご飯を食べている時は八分咲きだった目を今は大きく開いて、やる気満々で提案してきた。変に譲り合いになってもしかたないので、ここは穏便に受けて立った。と言っても、面倒なので適当に脳筋のグーを出しておいた。で、玉樹は普通に勝ちに来ていたらしく、パーを出されて負けた。玉樹は賢そうだからチョキを出すと思ったのに。パーは馬鹿の手である。こめじるし、故人の偏見です。
「まあーまあー、そんな気を落とさんといて。多分、すらいとぷろぶれむ」
おばあちゃんはサドルの砂埃をタオルで拭ってから、背中を叩いてそう励ましてきた。そんなことで一喜一憂できたら、どれだけ豊かな人生だったか。
「別にどっちでもいいですよ……」
「そうかい。学校楽しんでくるんだよ。転校生だからって気負わず、肩の力を抜いて」
「そもそも、なんで学校に……」
おばあちゃんは私の言葉を遮るように、にっこり無数のしわを作って笑った。
「なんでって、高校生は高校に通うもんだから」
「はぁ」
「まあ、ばあちゃんは教師だったからねぇ。学校に期待してしまうのさ」
それはつまり、新しい高校に通って心機一転しろってことなんだろうけど、私にはとても想像できない。玉樹に手を引かれる前から今に至るまで、悪い意味でずっと私は私だ。非日常にまみれても、何も変わらない。
とは言え、変におばあちゃん相手にムキになるのもどうかと思うし、何より教師をやっていたということは、私と似たような心境の生徒を何人も言いくるめてきた可能性があるわけで、そんなことを考えて言葉に詰まっていたら。
「不登校になると、学力だけじゃなくて体力も対人スキルも落ちるし、将来への不安が膨らむだけだから、人間関係に悩んでいたり、健康上の問題があったりしない限り、行っておいて損はないと思う、って昨日説明したよね。何か納得できない部分がある……?」
「あぁもう、分かってるよっ。行かないなんて言ってない。でもなんとなく、行きたくない時ってあるじゃんっ」
「それじゃあおばあちゃん、いってきます」
「はい、いってらっしゃい。莉央奈ちゃんも気を付けてねぇ」
玉樹は別に寄り添ってくれることもなく、さっさと自転車を漕ぎ始めていた。軽く腰を浮かせて、重たいペダルを慌てて踏みしめる。小学校に玉樹みたいな先生がいたらハズレだ。
空は私を皮肉るように青々として、とことん晴れ晴れして、眩しさで見上げることも叶わない。朝日が照り付けてきて、出発してすぐに暑さで汗が滲む。時々、夏風がセーラー服の中にまで流れてきて、それはそれでこそばゆさを覚える。夏に押し潰されそうだ。小説の世界にでも潜りたい。天候が心情を反映してくれるから。
「次の交差点で左に曲がるよ。チャリの調子はどう?」
「なんか、ぐぎぎぎぎって、歯を食いしばってるみたいな音がするー」
「大丈夫……?」
玉樹が後ろを振り返ってそう心配してきたので、雑に首を傾げておいた。
「莉央奈さんは、学校って好き?」
さて、その質問にはなんと答えるべきだろうか。聞き取れなかったというていを装おうかな。それとも嘘を吐くか。いや、玉樹だって、あんなに学校の素晴らしさを語っていたけど、本当は行きたくないのかもしれない。玉樹のことはほとんど知らないけど、私に悪影響のある本音は隠すだろうし、第一、状況的にはあり得る話だ。一方私は、嘘を吐くために本当の気持ちを掘り起こしてみて、直感に反して学校という場が嫌いではないということに気付く。自分の醜い欲望を満たす手段の一つなんだから、当然だった。つまるところ回答は。
「そこそこ、かな……」
「そこそこかぁー」
「意外?」
「私も、そこそこ。授業は眠いし、定期的にプレッシャーを強いてくるから。でも、行かないと退屈。それに、大人になってから懐かしむことができないと、周囲とのコミュニケーションに問題が生まれそうで、行かざるを得ない」
さすがだなーと、玉樹の意見に浅い感想を抱きつつ、帰りが思いやられる坂を、ブレーキ音をきしませながら下っていく。奥には真っ青な海が覗いていた。まあ別に、顔を上げてみたり、背筋を伸ばしてみたりするほど興味は湧かなかった。
そんなこんなで大人しく玉樹に付いて行くこと15分、目的地に到着した。銘板には沖縄県立島袋高等学校と刻まれている。後ろを振り返ってみれば、道路を挟んですぐに砂浜、そして大海原がある。潮の香りがそれとなく校内にも漂っていて、廊下や教室の窓から海を見飽きることだってできる。逆にそれ以外に特筆すべき点はなく、ごくありふれたぼろい高校って感じだ。私が元々通っていた常磐松高校は、数年前に校舎と体育館が建て替えられたから、トイレとかもっと綺麗だったんだけどなー。というかどうせなら、めちゃめちゃ美味しい学食を備えた私立高校にしてほしかった。
そんな戯言は心の中にしまっておくとして、職員室に寄り担任の先生と顔を合わせて、それから教室まで案内してもらった。
「じゃ、ホームルームの最初に自己紹介してもらうから。少しそこで待っててなー」
そう言って、担任は教室に入っていった。なんとなく玉樹の方を向いてみる。
「ねぇ莉央奈さん、リボン、曲がってない?」
「ん、大丈夫だと思うけど」
「そう。……なんかさ」
「はい」
「セーラー服って、なんかすーすーするね」
「ねー」
玉樹は不器用に笑みを浮かべてみたりして。
「どう?セーラー服を着るのだって、あそこで命を投げ出さなかったからこそできる体験だけど」
「どうって聞かれても……」
「新鮮な服装のおかげで、少しは前向きな気持ちになれない?」
と聞かれても、そんなにセーラー服に憧れがないんだよなー。今朝、鏡の前に立って、その直感が正しいことが分かった。正直、あんまり似合わない。さもしく病んでいる人だと、狼が衣を着ているように見える。
「質問に質問で返すけど、私がセーラー服を着てるのって、玉樹ちゃんはどう思う?かわいい?」
「かわい、い、よ……?」
「なんでそこで首を傾けるの。かわいいって言ってくれてもいいじゃん~」
「だ、だってっ、根拠もなく無責任にそういうことって言うべきじゃないからっ」
「えっあっ、そういうつもりじゃ……」
玉樹はぐっと腕を組んで、身体を90度回して扉の方を向いた。お、怒らせてしまったのか……?嘘でも、かわいいって自信満々に言ってくれて良かったのに。そうしたら私は、少しだけ長生きできたかもしれないのに。でも、そこで安直に走らず、確かな日々を積み上げていこうとする姿勢が、玉樹の長所なんだろうとも思った。って、人を軽く不機嫌にさせておいて、何を呑気な分析をしているのやら。
「はい全員席につけー。今日は最初に転校生を紹介するぞー。よーし、入ってこーい」
そうこうしていると、お決まりのフレーズが教室内から聞こえてきて、すかさず玉樹が教室の扉を開く。こんな、いつ消えるか分からない人間を紹介して、なんになるんだろうとか思いながら、玉樹に続いて教壇に上がった。
「た、た、たたっ、たまっちゃんっ!?」
私たちが壇上に上がるや否や、椅子がすっころぶ音と共に、そんな驚愕が飛んできた。その女子は玉樹を指さして、驚きのあまり大きく開口したまま、直立不動している。そして担任に「戌亥ー席に着けー」と言われ、皆に笑われながらすごすごと座っていった。
「知り合い……?」
「うん。友達。だけど、まさか同じクラスになるなんて、予想してなかった」
「とりあえず、軽く自己紹介しろー」
「あっ、はい。……沓掛玉樹です。短い間ですが、よろしくお願いします」
「よろしくねーたまっちゃん!」
「戌亥ー黙れー」
「黙れって、酷いなぁっ。ねぇ、酷いよねぇ、うちの担任」
「今日のシーサー、いつになくテンション高いね」
「つ、つめたっ、たまっちゃんつめたっ」
友達なだけあって、上手く転がす術を心得ているらしい。なんか教室全体が盛り上がったところで、水を差すように私の自己紹介を挟む。
「渡辺莉央奈です。東京から来ました。趣味は美味しい物を食べることと、映画やドラマ鑑賞です。よろしく……」
「え、そうなの」
ただの当たり障りのないありふれた自己紹介なんだから、そんな驚かないでよ。
「さあ疑義が入りましたー」
そしてこの子はずっとテンション高いなぁ……。まるで玉樹とは真逆だもん。しかしそういうペアの方が、凹凸を埋められて逆に馬が合うのかもしれない、とか思った。




