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理屈っぽい天使と堕天使のクリームダウン  作者: Ehrenfest Chan
第3話:最速降下曲線上の天使
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3-9 Ringing Noise

 ほとんど全てが元通りになった。玉樹はその後体調が急変することなく、翌朝には退院して、2限から授業にも出ていた。で、放課後に志佐たちと、近くのカフェでかき氷を食べて、二人で家に帰ってきた。そこそこ気怠くて、ぼちぼち笑った凡庸な夏の一日が帰ってきた。


 ただ、私の心だけは変わり果ててしまった。まあ、元から抱いていた感情を自覚しただけとも解釈できるし、恋をすることは平常運転だし、恋をしている部分以外はやっぱり今まで通りだし、結局何も変わってないのかもしれない。


 なんとなくいつも使っている赤い座布団を壁際に置いて、立てた膝に頬杖を突きながらスマホをいじる。かき氷と一緒に映る玉樹、勉強の息抜きとして散歩に行った時に撮った玉樹、これは志佐の誕生日ケーキを切る玉樹、意外と色々撮っているんだなぁと、沖縄に来てからの写真を見返しながら思う。写真の玉樹は見つめ返してこないから、ゆっくり鑑賞できる。……我ながら少し気持ち悪い。


「莉央奈さんっ、これどう?よく撮れてる?」

「ひゃあっ!?」


 玉樹がさっき食べたかき氷の写真を見せながら、隣に滑り込んできた。特に意識はしていないんだろうが、私のスマホの画面をさらりと覗き込んでくるので、慌てて伏せる。別に友達の写真を見てようと不審ではないのだけど、制御不能に空回りしている。


「どうしたの?そんなびっくりして」

「いやー、うん、割とビビりなんで」

「それは知ってるけど……」

「で、写真?よく撮れてると思うよ」


 なんかちょっと暗くて、せっかくの色鮮やかなマンゴーが残念な感じになっていないこともないけど。


「一時期、こういうのをインスタに上げてたけど。またやろうかなー」

「あっ、うん、いいと思うよ」

「莉央奈さんはそういうのやってないの?」

「んー……、やってはいたんだけどねぇ。東京にいた時の友人から、物凄い量の生存確認が飛んでてきてて……。新しいアカウントを作るにしても、見せる相手が居ないんじゃあね」

「私は見るよ、多分」

「玉樹ちゃんが見てもなー」


 だって、ずっと同じ景色を見ているわけで。夢まで同じになりつつあるんじゃないかな。さすがにそこまでではないか、夢とはその人の記憶の地層なんだから。


「というか、私も生存確認送られてきてた。うわぁ、全然喋ったことない人からも……。やっぱり投稿するのは辞めとこう」

「それが賢明だと思うよー」


 ついつい隣にいる玉樹の方をまじまじと見つめてしまう。境界線はすっかり曖昧になって、最近は部屋のどこかに二人で固まっていることが増えた。わざわざ音波に部屋の対角線を往復してもらう意味はないのでね。


 ただ、物理的な距離がほぼゼロになってしまったせいで、私の感情ははちゃめちゃに脈動させられることになった。どれだけ見回しても玉樹しかいなくて、私と玉樹の声だけが響いて、咳をしても二人、玉樹が息を吸う音だって聞こえてくる。視界に玉樹が映っていなくたって、玉樹のにおいと気配と雰囲気が、この部屋には充満している、ような気がする。玉樹が、小さく縮こまって体育座りしながらスマホをいじっているのを、こちらも立てた膝の上に頭を横にして、まあ、あえて気持ち悪く形容するなら、じっくりと眺めていた。やっぱり、本物の方がいい。時々、玉樹が堪えきれずに吹き出しているのを見てしまったりもしたら、それに呼応するように自分の顔が歪んでいくのが分かった。


 ……耐えかねて屋上に出てきてしまった。まだ日は落ちてなくて眩しく、冷静さを取り戻すにはどだい無理な蒸し暑さだけど。玉樹と同じ空間にいるよりは100倍落ち着く。外に出て数分で、汗だくだくだくになった。何をしてんだ私は、帰ってきたばかりだから日焼け止めがまだ有効だろうけど、それでも肌に悪いことに変わりはない。


 今度は見渡す限り玉樹はいない。時々、車が狭い路地を通り抜けていくばかりで、あとは風が通り抜ける微かな音が響くだけ。玉樹を感じることはない。……本当にそうかなぁ。この場所もこの空も、玉樹が連れてきてくれなかったら受け取れなかったわけで。まあ、そんなことを言ったら、息をしているだけで玉樹を感じる羽目になるんだけど。


 私は玉樹が好きだ、同性だろうと恋愛的な意味で好きなんだ。夏が終わる頃には変わっているかもしれないけど、今の私にとって一番大切な存在が玉樹であることは間違いない。


 なんて、どうしてすぐ誰かを好きになってしまうんだろう。玉樹は私の最大の望みを叶えられたわけじゃない。ただちょっと、同じ空間で生活しただけ。何より玉樹が私のことを好きになっていない時点で、独りよがりの早合点な恋心なことに間違いはない。いっつもこうだ。中1の秋から恋人を絶やしたことがない。ずーっと、誰かしらを好きでいる。まあ、自殺は阻止されたわけで、生まれ変わったわけじゃないから、このまま生きていたら、今までと同じように誰かを好きになって、相手に散々負担をかけて、何かの拍子で勝手に幻滅して、気付いたら別の人を好きになろうとしていて、そんなループをまた繰り返すのだろう。


 ……一連の連鎖も、死んでしまえば強制的に断ち切れる。屋上の縁に足をかけて、下を覗き込む。やっぱりあんまり高くない。しかも庭の大部分が芝だし。そもそも、本気で飛び降りる気なんてなかったけど。約束は約束だから。そんな約束、破ってしまえばいいとも思ったけど、できそうもない。好きな人と交わした約束だから。


 数歩、身体の向きを変えずに後退する。でも、部屋に戻ろうという気にはならなかった。玉樹と付き合って、最後の恋愛ループを満喫するなんて、これもできない。そもそも、自分から告白の祝詞を述べたことは一度もないわけで。まあ、今まで飽きるほど情けない一面を見せてきたので、今さら失敗するところを見られたくないとは思ってないけど。もっと根本的な問題があった。


 自分なんかが玉樹に近付いたら、穢してしまうという事実。私は一体、何人に好意を向けてきた?何人と喧嘩別れしてきた?何人に身体を売ってきた?何人に嘘を吐いてきた?私は数えきれないほどの悪行を欲望の赴くままに重ねて、その度に他人の人生を狂わせてきた。無辜で純粋な玉樹がその一人に加わるなんて、絶対に嫌だ。玉樹のことが好きだし、大切で大切でたまらない。だからこそ、私のような薄汚れた人間には近付かないでほしい。同じところまで落ちてきてほしくない。まして、向こうが沼に興味を示しているわけでもないのに、こちらから招こうとするなど論外である。


「り、莉央奈さん!何してるのっ?」

「あっあぁ、えーっと、なんか、そういう気分なんだよ」


 後ろでやっていた手遊びを隠すように身体の向きを180°変えて、離した両手をぱっと前に持ってくる。


「あ、暑くない?やけくそになって死のうとしてるの?」

「違う違う。そんな回りくどい方法で自殺したりしないよ。んー、気分、気分だから」

「よく分かんないけど……、私もそうしようかな」

「え、いや、玉樹ちゃんは家の中にいなよ。この間、熱中症になったばっかでしょ?」


 玉樹が隣にいたら暑さに耐える意味がない。というか余計に体温が上がってしまう。私も家の中に戻るからと、こっちに向かってくる玉樹を手で追い払って回れ右させる。そういうところなんだよなぁ。当人はなんか色々言っていたけど、あんなの世間的に見たら大した邪念じゃない。十分、清廉潔白で崇高な感情で生きている。インストールされている世界が違うんだろう。


 玉樹の無防備な背中に付いていって、階段の方へ歩く。抱き着きたいとか脳裏をよぎる。もし急にそんなことをしたら、玉樹はどう反応するだろうか。今までの傾向を考えると、別に拒絶しないような気もする。私が望むことなら、疑うことなく喜んで叶えようとする、それが今の玉樹である。ダメだダメだ、分かっているなら自分の理性で律するしかないだろっ。玉樹だけには、穢れることなく幸せに生きていてほしいから。


 しかし、暑さと眩しさで煮立った脳に、理性による理性への暴力はさすがに限界だったようで、階段に差しかかったところで、一段の高さを見誤って足を踏み外した。そしてそのまま玉樹に抱き着いていた。


 た、玉樹に、だき、抱き着いちゃった。えっあっ、身体が動こうとしない。さっきまで散々あこがれていた背中に密着していて、目を開くとそこには玉樹の目の端があって、吃驚して乱れる呼吸が感じられて、髪からは自分のシャンプーと同じ香りがして。そう言えばこの間、気にせず使っていいよって勧めたんだっけ。玉樹のことだからお金払ってないという理由で、返事だけして使わないかと思ったけど、ちゃんと使ってくれたんだ。


 心臓が激しく跳ねている。多分、玉樹にもばれてる。でも離れたくない。汗がどんなに滲み出ようと、腕をちりちりと日光に焦がされようと関係ない。もっと抱き締めたい、体重を委ねたい、強く玉樹を感じていたい。ここにいるのは、歯止めが利かないいつもの自分だった。


 貪欲で無責任で軽薄で薄汚れた好意を、少し優しくしてくれた相手に誰彼かまわず抱いて、すぐに忘却の彼方に送ってしまう。どうせこの恋も長くは続かない。約束は予防線であり甘えでしかなかった。玉樹と一緒に一生幸せになろうなんて気持ちは、微塵もない。どうせ惰性で生きていても、すぐに玉樹を捨てて新しい人を好きになる。受け取った温もりを返しやしない。恩知らずの恥知らず。玉樹をそんな奴の嗜欲に巻き込むわけにはいかない、そうなんでしょ、なのに……。


「莉央奈……さん?」

「こっ、これはねっ。た、ただコケただけだからっ!」


 その証拠と言わんばかりに、階段の先に落ちたスリッパを見た。そんなことより早く玉樹から離れないと。いっそ玉樹の方から手で払って、拒絶してくれれば良かったのに。……ってあっつ!存分に熱されたコンクリートに素足で触れたらそうなるに決まっていた。軽く飛び跳ねてしまって、バランスを崩さないよういっそう腕に力がこもってしまう。


「だ、大丈夫?火傷してない?」

「一瞬だったから平気だけど……」

「まー、ゆっくり下りようか。焦っても仕方ないし。あ、冷凍庫に保冷剤がたくさんあったから、タオルと一緒に持ってくるよ」

「そこまでしなくていいのに……」

「莉央奈さんだって、病院に色々持ってきてくれたし、自転車で転んだ時に手当てしてくれた。それと同じ」


 そう言って、玉樹は私の束縛を解こうとすることなく、慎重に階段を下り始める。合法的に抱き着いたまま階段を下りられることになった。利己的でまやかしの甘さが、理性を溶かし尽くす。私をどこまで甘やかすつもりなの?玉樹は優しすぎる。論理的に正しいことをし続ければ、ハッピーエンドに辿り着けると思っている。少しは私を疑ってよ……。

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