3-8 ヘイローのない君
「うぅ、うわああああ、たまっちゃああああん、お別れなんてやだよおおおお」
「またか。いちいち大声出して、オーバーなリアクションを取って楽しいの?」
「よっしーひどいーっ、人でなし!」
地べたに座って手足をばたばたさせる志佐の後ろ襟を、淑乃が摘まんで引っ張り上げようとしている。確かに、もうすっかり見慣れた光景になってきたかもしれない。とは言え、いつまでも帰らないと家の人が心配するだろうし、椅子から立ち上がって志佐に手を差し伸べる。
「ほら、遅くならないうちに帰るよー」
「暗くなったら帰る」
「あーもう、病院の外まで送るから」
「んー……、なっちが来てくれるならぁ、しょうがないなぁ……」
ようやく、差し伸べた手を掴んで、渋々立ち上がる志佐なのであった。振り返って玉樹に一言ほほえみかけてから、病院の外まで志佐と淑乃を見送りに行って、それで玉樹の病室に戻ってきた。
「シーサーにはあんなことを言っておいて、自分は戻ってくるんだね……」
「だってさぁーあー?今、家に帰っても誰もいないじゃん。おばあちゃんたち、法事で出かけてるし」
「寂しいってこと?」
「そ、そうだよっ。わざわざ確認しないでよっ」
「……というか、そうじゃん、ハンバーガーを食べに行く約束!」
自分の頬を人差し指で軽く叩きながら、頭に上った血が引いていくのを待っていると、影が差し込んできた。玉樹がベッドから降りて、私の目の前に立っている。上の空気味になっている場合じゃないっ。慌てて立ち上がって、玉樹の肩に手を置いて宥める。
「た、玉樹ちゃんっ、ダメだよ寝てなきゃ」
「でも、莉央奈さん楽しみにしてた。もうおばあちゃんたち家を出ちゃったかな、どうしよう」
「いいから、いいから寝てて、お願い」
「楽しみじゃないの……?本当は嫌だったのに、気遣って何も言わなかったの?」
「ち、違うよ。楽しみにはしてたけど、してたけどさっ。玉樹ちゃんの身体の方が大切だから……」
「もう大丈夫」
「大丈夫じゃないよ。倒れて意識を失って、救急車で搬送されたばかりなんだから」
「でも、ちゃんと動けるよ。確かに医師は大事を取るだろうけど。東京での息の詰まる生活から抜け出して沖縄まで来たように、病院からだって逃げ出しちゃおうよ」
どんなに必死でも、頼りがいがあっても、真心がこもっていても、その手を取れるわけがない。向こうから迫ってきても、腕を急いで引っ込める。無気力になされるがままにされてなるものか。玉樹の命が懸かっているんだから。
「私の身体が……そんなに大切?なんの為に?」
玉樹は絶対の自信を帯びながら、もう一度手を差し伸べてきた。
「大切に決まってるじゃん」
「そんなことない。むしろ、私がいない方が素直に願いを叶えられて、得をするぐらいなのに」
「は、はぁ?た、玉樹ちゃんの馬鹿ッ!」
自分で面食らうほどの大きな声で、私はそう叫んでいた。いない方が得をするとか、玉樹自身にも言ってほしくない。玉樹は私にとって大切で特別な存在なんだから。ありふれた陳腐な感情が横溢している。眼の下がずきずき痛む。私がどんな思いで救急車を呼んだと思っているの?嫌な想像もたくさんしたけど、それでも引き裂かれそうな心を必死に繋ぎ止めたのに。玉樹はほんと、人の気持ちを全然考えてくれない。
「ば、馬鹿って……。でも、事実だよね。莉央奈さんは、私のおかげで幸せになれたの?夏が終わっても生きててくれるの?」
「それは違う話だよ……。私はただ、玉樹ちゃんにも幸せになってほしくて……」
「なんでそう思う必要があるの?私には責任があるけど、莉央奈さんにはない。私がどうなるかは莉央奈さんが気にすることじゃない。気にせず、幸せになるために利用してほしい」
「玉樹ちゃんのこと、そんな風に見られないよ。私は、嫌だ……もう見たくない。玉樹ちゃんが倒れてるの、ほんとに、心臓が止まるかと思うぐらい怖かったんだよ。涙も出てなかったと思う。頭が真っ白だか真っ黒だかもう分かんなくて。ねぇ、この気持ちはどうなるの。無視しないでよ」
自分の感情を自分で処理しきれなくて、とにかく玉樹にぶつけていた。吐き出すごとに自分の言葉が反響しなくなる。どう思われるかは知らないけど、玉樹に確実に届いている。
「私を幸せにするって約束したの、誰だと思ってるの、玉樹ちゃんなんだから……」
「約束は双方の合意だから、莉央奈さんも含まれ……うわっ」
もっと玉樹を感じていたい。確かなものが欲しい。自然とかかとが持ち上がって、玉樹の方に吸い寄せられる。押された玉樹は、ぽふっという音と共にベッドの縁に座り込む。そして私は彼女の膝に滑り込む。まあ、なんでもいいよ。玉樹が元気に生きているのなら。あぁ、優しいな玉樹は。全てが善で、私のことを大切にしてくれて、拒絶しないでいてくれて。真っ白で穢れてなくて、私にこの世界に不釣り合いなほど悪意も欲望もない。最期に出会えたのが玉樹で良かった。
「また泣いてる……。シーサーも莉央奈さんも大げさだよ。冷静に考えてみてよ。もしまだ心配に値するような容態なら、今頃ICUにいるはずだよね。でも医師はそう判断しなかった」
「大げさなんかじゃない。どんなに泣いたって、泣き切れないぐらい大切だって思ってる」
「どうして?私の何がそんなに惜しいの……?」
玉樹は拙く覚束ない口ぶりでそう呟いた。理由なんて……玉樹の中で嘆息のような一息を吐いて、確信を得る。ずっとそこにある感情を手に取る。それは、ひとたび開くと、小説のように無限の幽邃が広がっている。私はとっくに、どこまでも底が抜けていて複雑で、重大で圧巻で玉樹だけを見つめる熱情を抱えていた。
強引だし、嘘もつくし、不器用だし。親に絶対怒られるって分かっているのに実家を飛び出して、私の手を引っ張りもするし。自分の命だって簡単に賭けちゃう。
でも、そんな少し歪んだ動機でも、ずっと傍にいてくれる。私のことばかり見てくれる。そんな彼女に、惹かれないはずがなかった。この感情は恋心だ。疑う余地なんてない。恋の波形が心電図に出ている。恋しているかどうかぐらい、さすがに自分で分かる。まあ、同性に対してもこんな感情を抱けるとは、吃驚というか新しい発見だったけど。
玉樹のことを失いたくない。一欠片も消えてほしくない。玉樹にとっては、全部が不可解かもしれないけど。好きになってしまったんだから、当然でしょ?ただの友達だったら、ここまで懊悩していない。玉樹のことが本当に好きで好きでたまらないから、かけがえがないから、ここまで思い詰めてしまう。別にどんな玉樹でもいい。私のことを嫌っていても構わない。でも、自分を蔑ろにだけはしてほしくない。
とはまあ、口に出せない。上がり切ったBPMに合わせて、心の中で早口に唱えるだけ。いくら玉樹でも気持ち悪がるだろうし。今まで一緒に同居してきた経験から、これ以上は進まない方がいいと自制する。
「……莉央奈さん、耳赤い」
「ひゃう!?」
突如として耳を触られる。身体中を電撃が這いずり回る。思わず顔をばっと上げて、普段通り冷静沈着な玉樹を睨み付けようと頑張りながら、触られた部分を自分の手の熱で上書きしていた。何かわーわー言ってやろうとするも、びっくりし過ぎて声が出ない。
あ、熱い、気付けば全身が発熱している。身体の中で薪がくべられているかのようだった。いやまあ、その比喩はあながち間違いでもない。じゃなくて、やばいやばい、今度は私が熱中症で倒れちゃうよ。慌てて机の上に置かれているお茶に手を伸ばす。玉樹に熱中して倒れたなんて、シャレにならない。てか、なんで玉樹は耳触ってきたんだよぅ……。私の気持ち、実は勘付かれている……? な、ないない、玉樹に限って、ないよ。だいたい、気付いてたとして、なんで耳触ってくるんだよ。
半分ぐらい残っていたぬるいお茶を一気に飲み干して、病室の扉の方に視線を逃がし続ける。自分の顔を手で触って、火照っているのを何度も痛感したり、スマホのカメラで自分の顔を映して、真っ赤に染まった目と耳をわざわざ確認したりもする。目じりまで真っ赤。好きな人の前では凛としていたいと思うけど、最後はいつも何も感じなくなるまで泣いている。情けないよね。
ふと玉樹の方を一瞥すると、相変わらずこちらをガン見してきていた。目が合うだけでも、変な表情じゃないか考えたり、自分の感情を意識してしまったりして、ドキドキしてしまう。
「本当に行かないの?今からなら、まだ間に合うんじゃない?」
「はあぁー……、行かない。また今度」
ちょっと呆れかけた。でも、いつも通りだから安心感があるのも事実で。
「悠長なことを言ってられるほど、夏が終わるまで時間ないのに」
「別に、遊び尽くしたからって、幸せになれるわけじゃないし」
「遊ばなかったらもっと幸せになれない」
「……幸せってなんだろうね」
「莉央奈さんの場合は、死にたくなくなったら」
「だったら、お前は現世の悪行により、地獄に落ちるって刷り込みまくれば」
「それは……確かに」
「え、辞めてよ」
「莉央奈さんが嫌ならやらないよ?」
適当に言い返したら、割と本気に受け止められてしまった。ちょっと、いつもみたいに言い返してよ。
とりあえず椅子に座り直して、背筋を背骨が歪むほど伸ばして気を取り直す。私のすぐ正面には、変わらず玉樹がお行儀よくベッドの縁に座っている。何この空気……。
「ねぇ、前から気になってたんだけど」
「な、何か不満が……?」
「不満は……あんまりないよ?そうじゃなくて、私のこともそうだし、勉強も授業も、玉樹ちゃんってなんでも全力でやるじゃん?それこそ今日だって、熱中症で倒れるまで泳いだわけでしょ。どうしてそこまで頑張るのかなーって。そういう性格だって言われたら、納得するしかないけどさ」
特に何かを祈っているわけでもないのに、膝の上で手を固く組んで気まずさを紛らわせる。この感情を自覚してから玉樹のことを聞くのって緊張する。もっと早く聞いておけば良かった。勇気を出して玉樹の方を一瞥すると、ほんのり朗らかな表情をしていた。
「同じこと、洲鎌さんにも聞かれたよ。もっと賢く生きられるって。そうだなぁ、自分で言うのもあれだけど、莉央奈さんは私のこと、優等生だって思わない?」
「あれ、もしかして、優等生であることを求められてると思いこんで、あんな感じで自分の体調も顧みずに頑張ってるってこと?」
「私が勝手に思ってるわけじゃない。本当にそうなんだよ」
「求められてるって感じるの、だいたい勘違いなんだよねー。かく言う私もそうだったから……」
「ち、違う。私は違う。根拠もある。……話すよ。莉央奈さんに出会う前のこと」
普段とは違って、息継ぎをする迷いがあった。一音一音に重さがあった。玉樹の目線がゆらゆら左右に振れている。多分、部活とか志佐とかとは、レベルが違うほど核心めいた話なんだろう。こんなに重要な秘密を私なんかが聞いてしまって良いのか?玉樹についてもっと知りたいような、知らないで付き合い続ける方が幸せなような。私は後者を選んでいた。今までだってずっとそうしてきたから。でも、そう思って止めようとした時にはもう、玉樹は話し始めていた。
「私って、まあ知っての通り、記憶力だけは人より優れてるから、テストで点が取れる。だけど、ただ教科書と問題集を覚えてるだけで、テストに出ないことには詳しくないし、問題の解き方をその場で思いつける創造力もない。言語化能力が高いわけでも、器用なわけでも、ましてスポーツ万能なわけがない。でも、比較的落ち着いてて、素行が悪くなくて、ふざけてる姿が想像しにくいのも相まって、大人も友達も変わらず、私のことをなんでもできる優等生だと勘違いする。いわゆるハロー効果だよね。長所に引っ張られて、全てが良いと誤認する心理学で言われてる効果。少しでも優等生から外れた成績を残したら、私らしくないって決めつける。珍しく反抗してると思われて、人より簡単に怒られる。だから、手を抜くわけにはいかなかった。洲鎌さんみたいに、賢く生きるわけにはいかないんだよ」
「でー、倒れるまで泳いだの?……なかなか苦労してたんだね」
「だから……ごめん、ごめんなさいっ」
玉樹はそのまま頭を深々と下げた。身を乗り出して夢中で顔を上げさせる。間違ってない、謝る必要はないって、玉樹みたいに説得できたら、どんなに良かったことか。
「どうして謝るのっ。これ以上、自分を責めないで……」
「莉央奈さんを助けたいなんて言ってるけど、本当はただのお為ごかしなんだ」
「どういう意味……?」
「私は、逃げ出したかった。自分を過大評価する学校から、家族から。でも、全てを投げ出していい理由なんかなくて、ずっと期待されながら過ごしてた。そんな時に、莉央奈さんが現れた。要は、都合のいい口実だったんだよ。これは、莉央奈さんを利用してまで逃げた報いなんだろうね。結局、沖縄に来ても、優等生のレッテルからは逃れられなかった」
「私を利用したことに罪悪感を覚えてるの?」
玉樹はこくっと頷いた。なんて優しいんだろう。つくづくそう思う。自殺しようとしている人を助けるという名目で、かねてよりの夢だった家出をした、なんて単純な動機じゃない癖に。極端な方向に突っ走る要因の一つにはなったのかもしれないけど、私を幸せにしたいって言葉が嘘なわけがない。玉樹はきちんと私を見てくれているんだから。そう思うことぐらいは、いいよね……?
「むしろ、謝らないといけないのは私の方だよ。私も玉樹ちゃんのこと、なんでもできる優等生だって思い込んでた側だから」
「仕方ないよ。心理学には抗えない」
「でも、今この瞬間に知ることができた。これからは……程々に優等生だと思うことにする」
「程々には思うんだ」
「だって、ちゃんとプール入ったんだし、私よりは真面目じゃん?」
「普段の莉央奈さん自身の言動が、私がなんでもできる優等生であることを否定してるのに」
強張っていた玉樹の顔に一筋だけ光が差し込んだような気がする。知らず知らずのうちに、玉樹の負担にならない選択肢を選べていたなら、なんでもいいや。私が玉樹の足枷になってはいけない。好きな気持ちも、決して伝わってはならない。それだけは守らないと。
「にしても、玉樹ちゃんも相当たまってたんだねー」
「こんなこと、人に初めて話したけど、どうなんだろう。説得力あったかなぁ」
「説得力というか……玉樹ちゃんも人間なんだなーって。安心したよ」
「んー、安心感を与えられてるなら、話して良かったのかな」
指先と心臓がむずむずする。右手で作った拳を左手で覆って、みぞおちに強く押し当てる。だって愛しすぎるんだもん。あーもう、完全に恋愛脳になっちゃってる。胸襟を開いた初めての相手が自分で、隙もあって。そんなまざまざとギャップを見せられたら、正直簡単に好きになってしまう。場違いなほどに交感神経が騒めいていて、どんなに座り直しても、指を握ってみても落ち着けそうにない。心静かに首を傾げる玉樹の目の前で、興奮を抑えようと馬鹿みたいに必死だった。
さりとて、それは幸せではない。まあこの時の、玉樹への想いに気付いた瞬間の私は、確かに幸せだったんだろうけど。結局、運命がその目的のために、恋をさせてきただけなんだ。死ぬという運命に。




