3-7 天使の緊箍児
『おめでとう、たまーっ』
二人に一斉に震い付かれる。なんとか腕一本ずつでそれに応えようとしてみる。
「たまなら、きっと合格して帰ってくるって信じてた!」
「そうかな。統計的には最大20%の確率で落ちるらしいけど」
「だから信じてたんだって」
「代々木八幡でたっくさんお願いした甲斐あったわー」
だとすると、もし落ちていたら神様すらも裏切ることになっていた。余計に心臓に悪い。
沈丁花の香る春、力いっぱい満開に花を咲かせる白木蓮に見守られながら、ここを卒業して新天地へと羽ばたく。もうそんな季節である。今日は都立高校の合格発表があって、みんなの期待通り無事に合格できたので、入学手続きを済ませて登校してきたところだった。
「もう卒業だよー。寂しくなるなぁ」
「卒業式泣いちゃうかもー。……たまは泣かないよねぇ」
「たまー、少しは悲しそうな顔してよぉー」
なんかほっぺたを両手でにょーんと伸ばされた。「や、止めてよ」どう反応すればいいか分からないから。今回はすぐ手を離してくれた。
「たまはいいよね。不安とか寂寞とか全然感じなさそうで」
「ねー、なんだかんだ上手くやっちゃうんだろうなぁー」
それを私に伝えて、いったい何の意味があるんだろうか。まあ実際、卒業を迎えてせいせいしている部分はある。別にこの人たちを憎んでいて、早く離れたいと言うわけではない。もう期待されなくて済むから。都立高校の中では十指に入るぐらい、偏差値の高い高校に入学できたんだ。きっと、周りはとっても優秀で、私なんか井の中の蛙だってすぐに思い知らせてくれる。
そう期待していたのに。
「やっぱり沓掛さん凄いねー!」
「うちのクラスの誇りだよ!」
中学の成績が良くて上位の高校に入れたからと言って、入学時のレベルを落とさないでいられるとは限らない。自分の視野の狭さを知った者の多くは、努力するより棄権することを選ぶだろう。自由が増えて誘惑も増えて勉強しなくなる人もいる。そういうわけで、気付けば高校でも成績上位層にいた。ここまで来れば逃れられると思ったのに。そんな甘い話はなかった。
「んー、地理で80点下回るって、何があったの?」
「えーっと、発展的な内容の問題が多くて。前回、平均点が高かったから、今回は問題を難しくしたんだと思うっ。ほらその証拠に、平均点もだいぶ低い」
「でも、玉樹よりできてる人もいるじゃない」
「だから何」
「もっと頑張んなさいよ。ちょっと、最近弛んでるんじゃないの?スマホばっか見て」
そもそも、高校に進学して交友関係が変わろうと、家族は変わらない。相変わらずホーン効果に引きずり回されている。何かが変わることを期待する方が間違っていたんだろう。
1年生が終わる頃には、すっかり私のキャラが学年中に定着していた。勉強は当然のようにできて、スポーツもかなりやれる優等生。何事も、嫌な顔をせず反抗せず真面目に取り組んで、偶像かな、でもだからって、泥臭いわけでもないんだよね。
「ねぇ沓掛さん」
次の体育の授業のために、体操服を持って更衣室へ向かおうとした矢先、クラスのリーダー的な女子に話しかけられた。
「今日のバレーボールのチーム、もう決まってる?」
「特には……」
「じゃあうちのチーム来てよっ。一人足んなくてさー」
「他にあてがあるわけじゃないから、いいけど」
「やったー!沓掛さんがいれば百人力ー」
そう言いながら軽快にステップして、友達と合流して更衣室へ向かっていった。どこかには所属しないといけなかったので、断る理由もないし承諾したけど。百人力って、私はしがない天文部員なのに……。
言われた通り忠実な形で両手を組んで、ボールを仰ぎながら、適当にコートの中を動き回る。基本的には経験者たちが上手いこと回してくれているので、あんまりボールが飛んでくることはないけど。それでもサーブの機会は定期的に回ってくるし、経験者が取り損ねた時は命懸けでボールを拾い上げないといけないし、心が休まる瞬間なんてない。
「ドンマイドンマイ、まー、しゃあない」
リーダー的な女子が手を叩きながら、励ましの言葉と共にこっちへ近付いてくる。また盛大にボールをあらぬ方向へ飛ばしてしまった。まあ、このチームで一番できないのは私なので、狙うだけの能力があるなら、私に集中砲火を浴びせるのが合理的ではある。
「ちゃんとボールを見て、正面から受け止める。逃げないで。大丈夫大丈夫、むしろ変に逃げると危ないよ」
「は、はぁ」
優しそうな言葉を選んでいるけど、目が笑ってない。いやいや、笑うような局面じゃないんだから当然だけど。なんでちゃんとやらないの?とでも責め立ててくるようだった。何度こんな視線を浴びせられてきたことか。前日に階段で転んで足を捻ったからタイムが伸びなかった100 m走、盛大にラケットを空振ったテニス、数え切れないほどの失敗を思い出す。そしていつだって失敗した時は、大人にもクラスメイトにも同じような視線を向けられてきた。直接的な言葉を投げかけられたこともあった。「どうして手を抜いてるの?」と。
でも、皆の方が正しい。高速で自分に向かってくる飛翔体を避けようとする本能は、他の人には関係ない。それに、体育の授業である以上、達成されることが国にさえ求められている。
敵も味方もそれぞれのポジションに移動して、相手の陣地からサーブが放たれる。ボールが空中を優雅に飛んでいるのを目で追いかける。割合は色々言われているけど、いずれにせよ人間の脳は基本的に身体の出力に制限をかけているらしい。だから意識を眇めて、この制限を本能を消し去る。そうすると、手首が痛いのも余裕で忘れられる。コート内を縦横無尽に全力で走って、膝の関節がずれるんじゃないかってほど激しく地面を蹴って、スパイクにも挑戦、いや得点を取る。相手のいない場所に、綺麗にボールが飛び込んでいった。もう一回、次も気張らなきゃ。
「ナイスナイス!」
「いいじゃん、流れきてるよ!」
如実にチームの空気が良くなったのを感じる。やっぱり、私も何か成果を出すことが前提のチームなんだ。体育の授業とは言え、何人かは経験者だし、残りもみんな運動部所属、手を抜いちゃダメだ、違う、手を抜いているかどうかは他人が決めることだから。死んでも食らいつく。どうせ身体が自壊することなんてない。仮に壊れてしまっても、何か問題があるわけではない。
ボールがネット際に降ってくる。こっち側には人がいない。私が取りに行くしかない。でも微妙に手が届かない。だったらと、自然と身体が床に倒れていった。
ただボールを打つだけでは決して鳴りようのない衝撃が、自分の鼓膜も震わせた。眇めていた意識が途切れる。正気に戻るほどの猛烈な激痛が、膝と肘を中心に広がった。上手く息を吸えていなくて酸欠になる。でも今の私は、酸欠で立っていられるほど、痛みを堪えていられるほど正気を失っていない。今までの無茶に呆れられて反旗を翻されたように、身体が動かない。目は開いていても、その信号を脳が処理できていなくて真っ暗だった。
どうして、どうしていつもこうなんだろう。私にだけ杓子定規なんだろう。ただ少し記憶力が良くて、テストで点数を取りやすいだけなのに。冗談を言ったり、おちゃらけたりするのが不得手なだけなのに。応用は利かないし、答えがなかったり未解決な問いに挑めるわけでもないし、黙々と勉強すること以外は何もできない。優等生なんかじゃない。……暗闇の中で、主張したいことだけが虚しく反響している。求められていることに応えなくていい理由なんて、どこにもないのに。
プロテクターを着けていたので外傷は免れたが、右の膝蓋骨にひびが入った。しばらく松葉杖生活である。例えば授業で指名されて立ち上がる時とか、ふとした瞬間で痛む度に、体育の時間に味わったあの、ぎりぎり気を失わないぐらいの痛みを思い出す。こんなのがいつまで続くんだろう。
じゃあ、優等生を辞める?でも、自分の価値を自らの手で目減りさせる人間に、今と同じような不自由のない生活が許されるだろうか。私が優等生を辞して、親が先生が、誰か得をするのだろうか。自分自身でさえ長期的に見れば損をするかもしれないのに。優等生を辞める、合理的で論理的で倫理的で、誰もが納得する理由なんてない。誰も説得できないんじゃ、実行するわけにもいかない。
「駅まで送ってくれてありがとう。でもほんとに大丈夫?」
「まあ、もう普通に歩けるし。医者が言うからまだ松葉杖を使ってるけど」
「そっか。勉強するのも一苦労かと思ったけど、今度のテストも心配なさそうだね」
「そもそも勉強するのに、脚は使わないからね……」
「んじゃ、気を付けて」
「ばいばーい」
友人が原宿駅の人混みに吸われていくのを確認してから、西日の方向へ歩き出す。ふと、逃げてしまいたくなる。この西日に向かって思いっきり走ってみたい。誰も私のことを知らない場所に行きたい。そんなことは今までに何度も何度も考えた。だけど、この場所から、この学校から、この家から逃げる正当な理由はない。それが分かっているから、今まで誰とも対話をしてこなかった。対話から逃げて、理屈も見つけられなくて、なのに、一人前に全てを投げ出すことをシミュレーションしたりして、やっぱり逃げ出したいって感情を強く補強する。
結局その日も、人混みに逆らった方向にぎこちなく、いつもより慎重に歩いて帰宅した。
もし誰かがここから逃げる理由をくれるのなら、今すぐにでもここを発つだろう。だけど、そんなことは起こり得ない。親が急死したとか、学校でひどくいじめられているとか、そんな程度の理由じゃ、足りないのだから。
でも、そんな息の詰まる日々の中、高校最後の夏のはじめに、私は一筋の光芒を見た。天使が舞い降りた。そうだったんでしょう?
私ではない誰かが脳内で代弁する。まあ、誰かの声というのは、私の記憶の中にある声だ。現物よりも少し美化された、綺麗で玉虫色の感情に化ける声。思い出したくない声。
「で、特に問題はなかったんだって?」
「あ、うん。ただの熱中症」
「ただのって、結構深刻じゃない。十分に死に得るし、後遺症が残ることだってある」
「説明の難しい病気じゃないって意味だよ」
莉央奈と志佐は、自販機で飲み物を買いに病室を出て行ったので、この病室にいるのはさっき来たばかりの淑乃と私だけである。淑乃はベッドのフットボードに寄りかかって、軽く腕を組んでこちらを見てきている。
「よく平然としていられるわね」
「必要なのは、もう一度同じことを繰り返さないことだから。今日のことは教訓として分析して、対策を考えないと。身体が限界を迎えている感覚も掴めた。それに炎天下にいる時は、たぶん今日のことを思い出すようになって、積極的に水分補給をするはず。これで、次に熱中症で倒れる確率はだいぶ低くなった」
「あくまでも、飄々と達観するのね」
「何か問題でも?自分がかわいそうな人間だとか、みんなに心配されて元気出たとか思う方が、よっぽど問題だよ」
「今のあなたがどれだけ自分を達観しようとも、気付いた頃にはそんな自分を見捨てて、普通の存在に収束してるわ。あなたにとっての理屈は絆創膏でしかない。でも、絆創膏はたくさん張っても意味はないし、傷がなくなれば不要になる。問題と言えばまあ、後悔する材料を増やすってことかしら」
耳にすっと馴染む、落ち着いた焦燥のない声で将来を占われる。
「普通には戻らないし戻れないよ。誰もそれを許してくれない。仕方ないよ。でも、別に苦しくもないし無理もない。完全に持続可能。だから何も変わらない。変えようって圧力がどこにも発生しない」
「もっと賢く済ませる方法はいくらでもある。それこそ私みたいに、一回泳いでおしまいにしても単位は来る。もっと言えば、高校の成績は今後の進路にさほど影響しない。全力を出さなければならなかった意味なんて存在しない。あなたはそうやって、いちいち常に全力を出し続けるの?」
「全力を出さなければ非難、忠告される。ただそれだけのこと。非難や忠告を無視することが正しいなんてことはないよね」
「いいえ、相手が求めてることを正確に理解し実行することが肝要なのであって、全力を出すことが本質ではない。本当はあなただって気付いてるんでしょ、その矛盾に。過去にどんな出来事があったかは知らないけど、矛盾を抱えている状態を持続可能とは言えないんじゃないかしら」
でも、私と淑乃は違う。違う個体で、声とか容姿とかが違って、結果的に人に与える印象も違う。能力面で見ても、私は変に記憶力がいい。淑乃は私の正解なんかじゃない。まあ淑乃は私について、志佐から得た凸レンズで集光したような故意に明るい情報しか持っていないわけで。聞き入れはしないけど反論もしないでおいた。
しかし、空気が重たい。楽しげに華やいでいる病室は、それはそれで問題だけど。まるでいがみ合っているように、因縁があるように、お互い相手を視界の中央に捉え続けている。……もっと相手を知りたいのかもしれない。自分にとって近しいようで、割と遠い存在を。これは私の思いつきでしかないけど。




