3-6 Conscience
あれからどれだけの時間が経過しただろう。気が付くと点滴の袋はだいぶ萎んでいた。ずっと玉樹の顔を見ていたけど、そんなに時間が経った気はしない。同じ家の、同じ部屋で寝ているとは言え、寝ている間は照明を消してしまうわけで、寝顔を見る機会は少ないから、意外と飽きない。そういう問題ではないんだけど。
「ん、ん……」
「た、たまっちゃんっ!」
がしゃごんと凄い音が病室に響く。目が乾燥したなーって屡叩いている場合じゃない。
「うぐぅ……あ、苦し……」
「うわああああ、たまっちゃん、生きてるーっ、良かったぁーっ!心配したんだよぉーっ!うわああああ」
志佐に後れを取りながらも、反対側から玉樹をぎゅっと、筋肉痛になるぐらい抱き締める。
「焦った……。ほんとに死んじゃったかと思ったんだよ。目を覚ましてくれて良かった……」
「莉央奈さんまで……ごめんって……」
そこに玉樹がいる。私の腕が頬が身体が、玉樹に触れている。玉樹の声が聞こえる。瞼の奥に珠のような瞳が見え隠れする。私と同じ洗剤の香りがする。玉樹にもっと近付きたい、はしゃいで泣きじゃくってじゃれ合って、もっと玉樹の存在を感じていたい。ただ下がったものが元に戻っただけなのに、まるで本物の幸せを手に入れられたように嬉しくてたまらない。もしかしたら、本当に、玉樹だからそう思えるのかな。だったら、なんなのだろう。今は、本能の赴くままに玉樹を手繰り寄せていたいから。細かいことは一旦全部、吹き飛ばしておいた。
真面目な玉樹は、自分の意識が戻ったことを伝えるために、私たちの腕の隙間からナースコールに指を伸ばして、看護師と医師を呼んでいた。ちぃっ、もう少し玉樹に震い付いてたかったのに。診察した医師曰く、順調に回復しているから、明日の朝に検査して問題なければ帰っていいという。
「とりあえず、差し入れいっぱい買ってきちゃったから食べてよ。お腹すいてるでしょ。……って、ゼリー半分ないじゃん」
「い、いっぱいあるからいいかなーって……」
「しかも、パイナップル味とか期間限定のだけ食べてるし」
「じゃあなっちも食べれば良かったじゃんっ」
「良くないよっ」
「あはは……。じゃあ、一個もらおうかな」
「みかんがぶどうしかないけど、どっちがいい?」
「ぶどう」
「分かったー」
汁を溢さないように慎重に蓋を開けて、スプーンと共に玉樹に渡す。
「ありがとう……」
「あれ、あんまり食べたくない?」
「そ、そんなことない。食べるよっ」
まあ、大喜びしてくれるとも思ってなかったけど、ここまで気鬱に沈まれるのも想定外だった。何かにっていうか私に急かされるように、玉樹はゼリーを無機質にぱくぱく食べ進めている。
「それより二人とも、学校は?」
「そんなもんより、たまっちゃんの方が大事に決まってるでしょ!」
「そうかな。するべきことをすることの方が重要だと思うけど」
「さっきから照れてる?」
「照れてないっ」
毅然と否定された志佐が、びくってなって瞼をばたつかせている。
「も、もー、た、大変だったんだからねっ。すーごい、超と書いてスーパー」
「何が……?」
「あぁ、気を失ってたんだから、覚えてないよね」
「急に気分が悪くなったの?」
「急、ってほどじゃないけど。水を飲もうと思ったら足が絡まって、前後不覚になって、そのまま倒れて起き上がれなくなった。しばらくしたら莉央奈さんが来て、何度も何度も名前を呼ばれて、揺さぶられて……そこまでしか覚えてない」
私の名前を呟いたところまで覚えていたのか。意識がなくなる直前まではっきり知覚しているなんて、さすがの記憶力……なのかな、関係ないかも。
「その後は、なっちが救急車を呼んで搬送されたんだよー。あ、そうそう、担任ったらひどいよね。あたしがたまっちゃんの一番の友人なのに、救急車に乗せてくれないんだよー」
「手間をかけさせて、ごめん莉央奈さん……」
「あーもう、水臭いなぁ。いいんだよ、何事もなかったんだから」
玉樹の表情には影が差し込んでいて、こっちを見てくれなくて、ゼリーを掬う手も早速止まっていた。
「そうだよ。謝る必要なんてない」
「そんなことない、私が悪いんだ、私のミスなんだ、避けられたはずなのに……。だって、ただの熱中症だよ?こまめに水分補給をして、体調に気を付けていれば、倒れることはなかった。体育の先生だって水分補給するよう何度も呼びかけてた。水分補給が許されない環境だったわけじゃない。だから、これはただの自己責任だよ。私のせいで、みんなに迷惑をかけてしまった。ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「だ、誰が悪いって話じゃなくない?」
「じゃあ、他に何が原因なの?まだ水を飲まなくていいって判断したのは、他でもなく私自身だから。それに、なんの前兆もなく倒れたわけじゃない。立ち眩みや頭痛を、いつものことだからって軽視して、対処しなくていいと思い込んだ。今まで上手くいってたから、油断してたんだ。何から何まで自分が悪い。きちんと改めるから、気を付けるからっ……」
明らかに様子がおかしい。ゼリーを持っている手が極度に震えている。過呼吸が入り混じっている。一点を見つめて、独り言にしても早口に捲し立てる。
「ごめんなさいっ。次はちゃんと水を飲むようにする。一本泳いだら飲む、そうしよう、それで大丈夫……。だから、こんなことはもう二度とないようにするから、今後は決して迷惑かけないからっ」
「玉樹ちゃんっ、もう辞めて!」
とっさに身を乗り出して、玉樹の手を掴む。ゼリーがベッドに渡された机に落ちる。どれだけ強く握っても、玉樹の手の震えは収まらない。本当に熱中症が治ったのか疑わしくなる。手だけじゃなくて唇も震えていて、極端にまばたきが減っている。こんなに追い詰められているなんて気付かなかった。そして少し怖かった。すぐそこに玉樹の瞳があるのに直視できない。
「玉樹ちゃんは思い詰めすぎだよ。もう十分、頑張ってるのに」
「頑張ってなんかないッ!私が頑張ってるように見えてるのは、莉央奈さんとシーサーだけ。こんな風に失敗して、何を頑張ってるというの?もっと真面目にやらないと。本気でやらないと。人間の構造上無理じゃないんだから。できるから、言われてるんだ……」
「私のこともそうだけど、結果が出ないと頑張ったことにならないの?」
「結果を出さなくていい頑張りを求められる年齢じゃない」
「いや……その、玉樹ちゃんが頑張ってるところ、私はずっと見てるよっ」
まあ、これは事実だし。そう自分に案ずることで気分を鎮めようと思ったけど、効果は薄い。でも代わりに、玉樹の瞳を一瞥できた。そうしないと嘘になってしまうから。
「……だから?」
「だ、だから?だからも何もないよっ」
「えぇ?意味わかんない……」
「あーもうっ。……頑張ってる玉樹ちゃんは、加点対象ってことっ」
「なんの加点……?」
「な、なんでもいいでしょ。ん、口開けて、ゼリー食べて」
倒れている容器を起こして、溢れていない分のゼリーを掬った。怪訝な顔つきの玉樹の口の中にゼリーを流し込む。すると横にもう一人、口を開けて待機している人間が現れた。
「私にも食べさせてー」
「なんで?シーサーは机でも拭いて」
「一口だけでいいからっ」
「はぁ、しょうがないなぁ」
「あの、私は別に食べさせてもらう必要ないんだけど。五体満足なんだし」
「玉樹ちゃんはいいの」
玉樹が自分の両手を広げて見せる。発作みたいな自己嫌悪が収まったようで何より。私の心臓は収まりそうにないけど。玉樹が落ち着いて、ほっとする場面なのにね。空気読んでほしい。
そんなこんなで時刻は16時を回った。がらがらと扉が開く。また検査かな。
「あ!ようやく来たか。もう、遅いよよっしー」
「いや、学校が終わって、用事を済ませてから来たんだから、これくらいの時間になるに決まってるでしょ。むしろあなたたちが異常なのよ」
「無事にたまっちゃんは復活しました」
「良かったわね」
「ごめんね、わざわざお見舞いに来てもらっちゃって。こんなことはもう二度とないように気を付けるから……」
「まあ、そもそも私のお見舞い自体、沓掛さんに求められてないというか、気にされてないだろうから、行く道理は全くなかったんだけど。回収しないと戌亥がいつまでも居座って迷惑をかけることに気付いてね」
「迷惑?迷惑じゃないよねぇっ、むしろ嬉しいよねぇっ、たまっちゃん」
「う、うん」
志佐がベッドに載って、玉樹と肩をくっつける。玉樹は残り2、3口だけ残っていたペットボトルのお茶を飲み干して、お茶を濁した。
「あ、そこの自販機で飲み物を買ってくるよ。何か飲みたいものある?」
「いらないかな……」
「ちゃんと水を飲むんじゃなかったの?玉樹ちゃん」
「あぁ……、じゃあ同じお茶で」
「りょーかーい」
「え!あたしも行くー」
別に付いてこなくていいのに。
しかも志佐は、私がお茶を買おうとすると、その自販機に先にお金を入れてきた。その上で、どっちにしようか迷っている。お金入れてから迷うなよ、迷惑至極……。仕方ないので隣の自販機で、ちょっと割高な方の緑茶を買った。
「やっぱりいちごみるくにしよー」
「よく飲んでるよね。好きなの?」
「んー?……ぷはー。甘くて美味しいよね」
自販機から取り出すと、すぐに開けてその場でごくごく飲んだ。もう少し味わって飲めよとは思ったけど。喉ごしを味わう飲み物じゃないでしょ。でも、そんな満足げな表情は長続きしなかった。そしてなんとなく察した。
「何か言いたいことでもあるの?」
「うあっ、さすがだね、なっちは」
「どうも。で、どうしたの?」
「んー……たまっちゃんのこと、なんだけど……。なっちはどう思う?今日のたまっちゃん」
「あぁ、まあ気になるというか、ちょっと心配になるよね。あんなに内罰的だとさ」
「同じ失敗を繰り返さないように気を付けるって、気を付けてくれるのはいいけど、それだけじゃないじゃん」
「んんー、多分、私たちに心配をかけたくないからなんだろうけど……。でも、まずは私たちの心配を受け止めてほしいとは思うかな」
「うん。なんだか自分の身体を物みたいに扱って、感情をしがらみにしているみたいで、……少し怖いんだよ。たまっちゃんにこんなこと思いたくないけどさ」
志佐の言っていることは、骨の髄まで沁みている話だった。出会った時からずっと一貫して、自分で自分に宿命を課して、それに隷属して生きる。それが玉樹だと出会った時から思っているから違和感はなかったけど、確かに怖いと言えば怖い。少なくとも最初は、玉樹が大切云々以前に、何を考えているのか分からなくて怖くて、心中したくないって思っていた。
話している内に、玉樹の病室の前まで戻ってきてしまった。だけど、こんな所で話を切り上げるわけにはいかないので、そこで足を止めた。
「昔はあんな子じゃなかったのに」
「そうなの?」
「あんな理屈っぽくなかった。もっと、なんというか、自由で、ノリが良くて、楽しそうで……そう、やりたいことに正直で、とっても素直だった。やりたいことをはっきりと言うし、いっぱい心から楽しそうに笑ってくれたんだよ」
志佐は財布の中からミサンガを取り出した。シンプルに青紫一色だけど、どこか赤っぽくもある不思議な色をしている。
「これ、昔たまっちゃんが作ってプレゼントしてくれたの。一生大事にしてねって」
「ミサンガなら、身に着けてないと願いが叶わないんじゃないの?」
「そうなの?」
「普通に使ってて、切れたら願いが叶うみたいな」
「えぇー、これからはちゃんと着けよー」
そう言って志佐は、さっそく腕にはめた。胸の端がちりちりと痛んでいるような気がする。妬いている、のかな。あー、しょうもない。
「それでね、元々、このミサンガには白い綺麗な花が付いてたの」
「おー、おしゃれー」
「でも、天然の花は当然すぐ枯れる。今のたまっちゃんなら絶対造花を使うだろうね。だけど、当時のたまっちゃんはそうしなかった。一生大切にしてほしいのに、矛盾してるよね、非合理的だよね」
「そんな玉樹ちゃんが、いつの日か変わってしまった、と」
「そ、そりゃあね、大人になっただけなのかもしれないけど……。でも、今日のたまっちゃんを見てると、大人になったと言うより、人が変わったんじゃないかって思えちゃう」
「大人っぽくはないもんね。だいぶ歪んでる」
「東京で何か嫌なことでもあったのかなぁ……」
志佐は呟くようにそう問いかけてきた。でも、私にはその期待に応えられない。橋の上で出会った時にはもう、理屈っぽかったから。そして何より、私はその理屈に導かれて、今ここにいる。
「あたしね、今、毎日がすっごく楽しいんだ。だって、今までお盆の時期に数回しか会えなかったたまっちゃんと、毎日会えるんだから。でも、贅沢を言うなら、昔の、理屈っぽくないたまっちゃんと一緒になりたかったな……」
「私は……今の玉樹ちゃんでも、いいと思う。確かに危なっかしいし、奇怪な部分もあるけど、ここに至るまでたくさん葛藤して、その上で決めたことだろうから。まあ、私はあの玉樹ちゃんしか知らないんだけどね。でも、今のところは、どんな玉樹ちゃんでも肯定したいかな」
「もっともーっと理屈っぽくなっても?」
「変わらないよ」
「なっちと一緒に死にたいとか言っても?」
「それは……ち、違うじゃんっ」
「えぇー、それはずるいー」
どんな玉樹でも肯定する。夏が終わる直前に、約束を破棄してきても肯定する。まあ、死ぬのはダメだよ。自分を苦しめない範囲で、どんな玉樹でもいいってことで。




