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理屈っぽい天使と堕天使のクリームダウン  作者: Ehrenfest Chan
第3話:最速降下曲線上の天使
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20/27

3-4 Straight A

「やっぱり、待たなくていいや……」


 そんな、心許なくて届くはずも届く必要もない音吐が零れ落ちた。


「あ、たまっちゃん!待ってよ!」


 志佐が私を追い越して駆け抜けていった。どうやら後ろを歩いていたらしい。志佐のようにする気概は、自分には湧いてこない。そして、このことに一安心する自分がいた。でも本当は、そもそも玉樹を落ち込ませたくなかったのかもしれない。今回の作戦とやらは、今まで以上に理屈っぽくて、その分ショックも大きかったのかなーと、その場に立ちすくんだまま、玉樹の強がる相貌を思い出しながら、後悔みたいな自己嫌悪をした。


 いくら志佐の力を借りたとは言え、自分の理屈っぽさをクラスの人との軋轢に使って、その善後策をさせて自己肯定感を高めさせようなんて、よく思い付くものだ。


 ふと顔を上げると、斜め前に淑乃がいて、目が合った。向こうが止まっているので、こちらも立ち止まる。相変わらずお淑やかで美人で、高嶺の花って感じだなぁ。淑乃もまた、後ろにいたのだろう。だからと言って、何か話すことなんてあったっけ。


「シーサーを追いかけないの?」

「どうでもいいわ。はぁ、あんなに忠告したのに」

「は、はぁ」


 とりあえず、二人が向かった先を指している手を下ろした。


「気付いてること、言わなきゃ良かったのに」

「だって、嘘を抱えて過ごすのって苦しいから。私は誰かを打算なしに助けるほど優等生じゃない。玉樹ちゃんを助けたってことにしながら生きるなんて、無理そうだなーって思っただけ。まあ結局、自分のことしか考えてないんだよ。二人は私たちの会話、全部聞いてたの?」

「えぇ、戌亥が引っ張るから仕方なく。私がこの二人の会話を聞いて、どうしろって言うのかしらね」

「さあ……」


 淑乃の言い方や志佐に向ける眼差しは、冷酷でありながらどこか小馬鹿にしているようだった。でも、なんだかんだ言っていつも一緒にいるんだから、本心は違うのだろう。というか、玉樹もまあまあ演技うまかったな。昨日、志佐と話しているのを盗み聞きしていなかったら、気付かなかったかもしれない。本当に運がないね、私たち。


「洲鎌さんだったら、嘘に付き合う?」

「まあ、嘘でもなんでも知らないふりをするでしょうね。相手が望んでることが明確なのに、それに従わない理由がない」

「望んでること……」


 天寿を全うしろっていうのも、玉樹の望みか。分かっていながら、私はずっと玉樹の意に反することばかりしている。


「縁を切りたいからって相手に背けば、相応の代償を支払うことになる」

「それは違っ……うかな……」


 私は、玉樹と縁を切りたいのか?……淑乃の言葉を遮るように、とっさに否定してしまったんだから、そんなことは思ってないんだろう。軽く噛んだ舌を口蓋に押し当てながら、何度か思い直してみても、生きている内に縁を切ってやろうという気にはならなかった。私の中で、死ぬことの結果として縁を切ることと、縁を切ってから死ぬことでは、差があるみたいだ。家族や東京の友人たちとだって、縁を切ってから飛び降りようとしたわけではない。玉樹なら、きっと尚更。


 私が考えこんでいると、淑乃は容赦なく恐喝紛いの視線を浴びせてきていた。私より身長が高いから、なんだか威圧感がある。


「じゃあなぜ嘘を吐かなかったの?」

「それは……分かんないや」

「まあ、深入りするつもりはないけど。望まれてることをするのが、一番トラブルを避けられるんだから。特に理由がないなら抵抗しないでおいたら」

「んんー……、一理、あるのかなぁ……」



 嘘を吐いておけば、今回の出来事はなあなあに済ませることができた。でも、私はそうすることを拒んだ。結果として玉樹を傷付けた。ただ落ち込ませただけじゃなくて、プライドを傷付けたかもしれない。


 とは言え、別に今までと違うことをしたわけでもない。玉樹と何をしようと、夏のその先になっても、やぶれかぶれに前を向いて生きることを拒み続けている。嫌なことは、玉樹がなんと揺さぶりをかけてこようと、ずっと嫌がり続けている。玉樹が落ち込もうと、玉樹のプライドが傷付こうと、関係なく一貫している。なーんだ、懊悩することなかった。私は良い意味でも悪い意味でも変わってない。


 ただ、自分の首尾一貫に安堵したところで、まだ心はひずんだままだった。いやまあ、生きていることに意味を見出せないんだから、壊れていて当然なんだけど。玉樹の頑張りが報われた方がいいのかなとか、でもやっぱり嘘を吐かずに誠実にあるべきだよなとか、自分の選択への評価が後から揺れまくっている。だって、玉樹には幸せでいてほしいから。うーん……それだけじゃないことは確かで。だって、志佐も淑乃も弟妹も東京の友人も、全員幸せであってほしいから。その中でも、玉樹だけは何かが特別だった。単純に幸せであること、それを上回る何かを求めている。



 それはそうと、玉樹が私の目の前から逃げるなんて、初めての出来事だった。仮に私の判断が一貫してようと、玉樹が不可逆的な傷を負った可能性は捨てきれない。だから、教室に戻るのもかなり勇気が必要だった。教室に戻っても、自分の机に突っ伏して、授業が始まるまで決して顔を上げないでいた。もし玉樹が元に戻らなかったら。その時は約束なんて関係なく死のう。そう心に決めた。


 心の渦の回転力に負けて、授業中は逆に、何度も先生の目を盗んで振り返っては、玉樹の一挙一動を観察していた。って、私の心配をよそに、ふっつーに集中して授業を受けている。なんなら時々、目が合う。瞼に力を入れて目を大きく開いたり、にっこりしたり、白目を剥いたりしてみると、微々たる表情の変化が返ってくる。執拗にやっていたら、ついに小首を傾げてくれた。


「莉央奈さん、何か話したいことあった?」


 例の4人で昼食を食べていると、ふいに玉樹にそう尋ねられた。どう考えても授業中に顔芸をしたからだね……。


「実はあれ、モールス信号だったんだよ」

「明らかに3種類以上の信号があったけど……」

「あたしも見たよ、顔芸!」

「顔芸いうな」


 志佐は食べかけの明太パスタ入りコッペパンを、笏のようにこちらへ向けて、高らかに報告してくれる。まったく、志佐という奴は。思わず玉樹の表情が明るくなった。ちょっとお行儀が悪いけど。あの時だって、玉樹のことを志佐が追いかけていたわけで、もしかしたら特効薬みたいな慰みをしてもらえたのかもしれない。私が神経を尖らせる必要は、最初からなかったのかもしれない。


「本当に、私のことは擁護しなくていいからね。嘘が発覚するなんて、一番起きちゃいけないことだから。擁護できる点なんてないんだから」

「嘘、ねぇ」


 お弁当のそぼろを、こまごまと箸で掬い上げながら、いかにも玉樹らしい玉樹の言葉に適当な相槌を打つ。


「次は嘘がばれないようにしないとな!」


 それを当人の前で言うなよ……。って、何うなずいてるんだ玉樹。玉樹なら、気付かれない完璧な嘘なら吐いてもいいって、絶対そう本気で思っているよね……。だって玉樹だよ?失敗してもめげないのはいいところだと思うけど。


「嘘は……辞めよう」

「辞めようって取り決めて辞められるものじゃないと思う。例えば、誤解は嘘になるの?自分をよく見せようと思ったり、これは言わないでおこうって思ったりすること、莉央奈さんはないの?嘘を縛るって、そういうことだから」

「えぇー、んー……、わ、分かった。いいよ、嘘ついていいよっ」


 どうせ玉樹は、私を救うためにしか嘘を吐かないだろうし、そもそも言われてみれば、自分だって全てを玉樹に開陳しているわけではない。最近、玉樹といる時に感じた気持ちを、わざわざ言語化しないでおいたりするし。そういうのも、相手が恋人でもない限り咎められないけど、嘘と言えば嘘である。何より、玉樹は自分のために頑張ってくれたわけで、そのことが嬉しいって思えて、またこんな出来事があっても良い気がしてしまった。頬に触れて、人知れず自分の表情が緩んでいることを察する。躍起になって嘘を肯定する玉樹が面白いからか、あるいは。


 一方、分かればよろしいと言わんばかりに、玉樹はスプーンでそぼろを掬って、ばくばく食べ始めた。もしかして、と思って探してみると、私の方にもスプーンが入っていた。箸で頑張って食べようとしていた努力が徒労に終わった。



 夏までに幸せにできなければ心中する、なんてどうかしている約束を私と交わした玉樹は、れっきとした優等生である。定期テストだけでなく、授業中の小テストは当たり前のように満点だし、難しい問題で指名されてもそつなく答えてしまう。英語の授業で、会話をしなければならなくなった時だって。


「If you had been born in Okinawa Prefecture, do you think the food culture there would have changed your taste?」

「え?あっ、あー、いえすいえす」

「I’m not so sure my taste would have changed that much because my mother and grandmother don’t really cook the kind of food that most people associate with Okinawa」

「おー、玉樹ちゃん、英語も喋れるのかー……」

「そ、そんなに喋れないよっ。英語で言えることを言ってるだけ。言いたいことを英語で言うのは無理。だから、大したことない」


 玉樹は真剣な表情で説得するように謙遜してくる。でも私からしてみれば、帰国子女の英語と大差なく聞こえるわけで。どんな表情で、どんなに言葉を尽くして謙遜しようとも、滲み出てくる、優等生が。そりゃあ、学校中で噂になるに決まっている。私だって噂の担い手の片棒を担ぎたくもなる。まるで自分が凄くなった気分になれるから。


「莉央奈さん、莉央奈さんっ」


 授業が終わると、他の誰よりも先に、まっすぐ玉樹が迷わず突進してきて、スマホの画面を見せつけてきた。


「色々考えたんだけど、このお店とかどうかな。看板メニューは、アボカドベーコンチーズバーガー。輪切りのアボカドとワカモレ両方が入ってて、お眼鏡にかなうと思うんだけど」

「んー、場所は大丈夫?地図を見た感じ、駐車場からちょっと離れてるんじゃない?」

「そう思ったんだけど、近くにバス停があって、おあつらえ向きな時間にバスが来るんだよ。お店は首里城の近くだから、ついでに寄ってってもいいかも。ライトアップされて綺麗だと思う」

「私なんかが気付くことぐらい、考えを及ばせてるに決まってるか。にしても、授業中にうつむいて、スマホをいじってるから何かと思えば、晩ご飯のお店を探してたの?」

「せっかくの機会だし、莉央奈さんに美味しい物を食べてほしいから。……あっ、おばあちゃんの手料理が不味いって言ってるわけじゃないよっ」


 そんなに必死に手をぶんぶん横に振って否定しなくても、別にチクらないよ……。だいたい、不味そうに食べているのは、私の方なんだから。


「じゃあ、ここでいい?行きたいって思ってくれた?」

「うん、まあ、写真を見る限りは美味しそうだね」

「本当?……そんな風に莉央奈さんが思うようになるなんて、その、少しは良い方向に進んでるのかな」


 玉樹の表情が、スポットライトが当たったかのように如実に明るくなる。少し良い方向に傾いたぐらいでは、玉樹の望むような理想的エンドには辿り着けないから、頷くことはできなかったけど。それでも……自分の顔が綻ぶのを肌で感じる。嬉しいって思っている自分がいる。そりゃあ、私のために、食の好みまで勘案してくれたんだもん。そんなことをされたら、また心が無責任に揺らぎ出してしまいそうになる。変な汗が吹き出して、言葉に詰まったりする。自分は何も変わらなくて、玉樹を見る目だけが変わっていく。慣れた特別な感覚、私から自律を取り上げる麻薬、さすがに、沖縄にまで持ってくるつもりはなかったんだけどな。


 でも、確定したわけじゃないし。曖昧だし曖昧にしておくことも可能なんだから。そんなことを一人でぐるぐる思索していると、背中と肩に重荷を背負わされる。志佐が座っている私に、後ろから抱きついて首に手を巻き付けてきた。馬鹿みたいに活気のある声で、考えていたことが全部吹き飛ばされた。


「なーんの話してんのっ。おぉ!美味しそう!あたしも行くーっ!」

「今日の夜、おばあちゃんが親戚の法事で那覇に行くらしいから。同行して夕飯を食べに行こうって話してたの」


 結局、那覇に滞在したのは、沖縄に来てから最初の8時間かそこらで、当然まともに観光をしている余裕なんてなかった。そのことに玉樹が問題意識?を抱かないはずもなく、この機会に那覇へ行こうという話になり……。私としてはどっちでも良かったんだけど、ここまで手筈を整えられてしまったら、逆らうコストの方が大きくなる。いつも通りのやつである。それに加えて最近は、慣れたからか玉樹と出かけることのハードルが下がったような気もする。いくら一貫しているとは言え、いつまでもすげない態度なのも良くないなーと感じたりもする。


 で、志佐は私の肩でゆっさゆっさ動きながら。


「あたしも行きたいー」

「軽自動車だから4人までしか乗れないんだよ、ごめんね」


 玉樹がそう謝ると、ぷっくり膨らんだ志佐の頬が私の顔に触れる。「夏休みが始まったら皆で行こう」と玉樹に提案されると、志佐は満足してようやく離れてくれたと思ったら、去り際に耳に息を吹きかけてきた。「ひゃっ」と声を上げるのを見て、げらげら大笑いされた。耳介が熱い。今なら耳を変幻自在に動かせる気さえする。


「というか、次の次って体育だよね。水泳だよー?うぅーだるいぃー。たまっちゃん、一緒にさぼんない?」


 志佐は玉樹に標的を変えて、肩に腕を置き、悪魔の如く振る舞い始めた。まあ、玉樹が誘惑に負けるはずもなく。


「確かにだるいけど、さぼんないよ」

「えぇーっ、たまっちゃんは真面目だなぁ」

「ただ言われたことをやってるだけだから、真面目って形容するのはおかしいと思う。東京では不真面目だって頻繁に注意されてきたし」

「よっしーもよく同じようなこと言ってる。二人そろって真面目だね」


 玉樹はもう一度、真面目であることを否定しようとする。でも、珍しくその言葉には説得力がない。玉樹はほんっとに真面目だよ。最近まで赤の他人だった私のために、ここまで思い詰めてくれるんだから。確かに、ここで見えている姿が全てではないのかもしれないけど。でも、事実としてこんな私に、不釣り合いなほどの気遣いをしてくれる玉樹が存在するわけで。もし玉樹を、不真面目だと断定するような人間がいるのなら、私が食らった彼女をぶつけて、それでも同じことが言えるのか問いただしてやりたい。


「莉央奈さんもさぼるの?」

「え、あぁ、玉樹ちゃんにはお見通しか」

「だって、水着を部屋に置きっぱなしにしてたし」

「ま、いっかなーって。お肌にも髪にも良くないから」

「そうだよね、その通りだと思う」

「お、おぉ、どうも」


 玉樹のような、他人の意思を尊重できる人が体育の先生だったらいいのに。



 空を見るまでもなくプールサイドが既にまばゆくて、揺れる水面が金属光沢のような光を、あっちこっちに飛び散らせる。ちゃんと目を開けてられない。シャワー横の庇が作る日陰から出たら即死する。吸血鬼伝説って実は、日本の夏に着想を受けて作られたのだ、そうも思いたくなる。


 もちろん気温も容赦なく、熱波が押し寄せるだけ押し寄せてくる。プールサイドに撒かれた水が、鼻をつく塩素の臭いだけを残して、あっという間に消失していく。長袖長ズボンのジャージを着てきたことを後悔した。とりあえず、ジャージの上を腰に巻いた。


 準備体操が終わってシャワーも浴びて、笛の合図と同時に皆が次々に泳ぎ始める。


「頑張れたまっちゃん!あとついでによっしーも」

「3回さぼったら単位もらえないらしいけど、大丈夫なんでしょうね」

「まだツーアウトだから」


 志佐は、勝利のVポーズと共にそう言った。


「程々に頑張れー」

「あ、ありがとう。じゃあ、行ってくる。ちゃんと、頑張るから」


 直射日光の当たらないベンチから、列に並ぶ玉樹に志佐と一緒に手を振る。さぞ、むかつくだろうな。しかしそんな感情をおくびにも出さず、玉樹はプールに入っていった。


「ところでシーサー、玉樹ちゃんって泳げるの?」

「ばりばり泳げるよ」

「速い?」

「市民プールで遊び半分に泳いでたのを見ただけだから、分かんないなー。でも、運動神経は悪くないと思うよ」


 志佐ははっきりとそう言い切った。なんでも毎回言い切るから、手放しに信用できないけど。……とは言え、これは完全なイメージだけど、確かに、泳げないって感じはしてこない。むしろ、テストや英語の授業の時みたいに、如才なくこなしてしまう気がする。そう言えば、壊れかけのチャリで坂を駆け上がっていたし、もっと遡れば、私が自殺しようとした橋から駅まで走った時だって、私より息が上がってなかったし。やる気のない運動部員よりはスポーツができそう。


 そんな印象を勝手に真に受けていると、玉樹の番が回ってきた。笛の合図と同時に、数人が一斉にクロールで泳ぎ出す。ばしゃばしゃと水をかき分ける音と、水飛沫の刹那の輝きは、あっという間に遠ざかっていった。少し離れた場所から座って眺めているのでよく分からないけど、だからと言って玉樹の雄姿のために肌を焼こうとは思わないけど、どうやら同時にスタートした人の中では玉樹が一番速かったらしい。やっぱり、優秀なんだなぁ。


 25 mを泳ぎきった玉樹と淑乃が、水を存分に滴らせながら、こちらの日陰に凱旋してきた。


「16秒台?速っ。凄いね」

「んー……、テストと違って一番ではないから、そんなにじゃない?」

「やっぱたまっちゃんはたまっちゃんだ。えっへん」

「なぜシーサーが誇る……」


 志佐は腰に手を当てて胸を張った。その腕をぐいぐい引っ張ってみる。


「沓掛さん、水泳やってたの?」

「スポーツは、部活でも習い事でも、ほとんどやってないよ」

「……まあいいわ。疲れたから、しばらく休憩しよ」


 淑乃は意味ありげに玉樹の瞳を覗き込んでから、隣に座ってきた。体操服とは言え、濡れるのは嫌なのでこっちに来ないでほしいなー。


「たまっちゃんも休憩しようよ〜」

「いや、私はもう一本泳いでくるよ。さぼってると思われたら嫌だし」

「もっとさぼってる人がいるんだし、大丈夫じゃないかな」


 そう言ってみたけど、玉樹は凛々しい顔で一度私を見遣ってから、また列に並んでいった。


 順番が回ってきてプールに入ったと思ったら、あっという間に向こうに行ってしまって、玉樹の泳いだ後にできるひときわ大きな波だけがこちらで揺曳している。あんなに白くて細い華奢な腕で、ここまで迫力が伝わるほどの水を掻き分けられるなんて。まともに泳いだことないから普通なのかもしれないけど、私には信じられない。どこにそんなパワーが、あとは私を幸せにしようだなんて高すぎる理想が、秘められているんだろう。んー、そろそろ玉樹が凄いのが当たり前になってきた。


 それに比べて私は何をしてるんだろう。玉樹の波がプールの縁に当たっては砕けていくさまを見ていると、私たちの非対称さが浮き彫りになってくる。今、プールの授業をさぼっているという事実から目を背けるように、乱反射する水面から視線を逃がして俯く。さっきまで玉樹が立っていた場所の水たまりに、自分の顔が映る。あー、毎朝見てるんだから、こんな時まで見ていたくない。足を少し伸ばして、小さな水たまりを潰した。


「よっしーはもう泳がないの?」

「疲れたからもういい」

「えぇ〜、たまっちゃんがあんなに頑張ってるのに~」

「私と沓掛さんの間に、なんの因果があると言うのよ……。一番いいタイムで成績をつけるらしいから、1回測っただけで十分なの。あんな風に、見せつけるように何度も泳ぐ必要はない。だいたい、一番最初が一番疲れてないんだから、一番結果が良くなりやすい。少し考えたら分かることでしょ」

「ん-、正論だけど」

「まして、16秒台を出せたんだし、これ以上を目指しても、成績は上がらないでしょう。そもそも、成績が5でも4でも3でも、今後の人生になんの影響も及ぼさない。泳ぎたいなら別だけど、ただ授業を乗り切るという観点では、合理性のない行動なのよ」


 淑乃は呆れたような表情で、反対側のプールサイドにいる玉樹を睨んだ。これは偏見なのかもしれないけど、一心不乱に泳ぎ続けるのは確かに理屈っぽくない。淑乃の言うように、ここで肩肘張った真面目な成績を残す必要もあんまりない。でも、玉樹には頑張っていてほしいし、正しいと思うことを説得してほしい。私と一緒に墜ちてほしくない。純度100%のエゴなんだけどね。



 プールの授業が終わって教室に戻る。塩素の残り香と制汗剤と汗臭さと、なんか色んなものが入り混じっている。プールで人がいない間、冷房を止めて換気していたのもあって、外気と変わらない暑さで、教科書でぱたぱたするのが辞められないー。プールに入ってないのに、髪がびしゃびしゃに濡れてしまう。いやー青春だね、とか口が裂けても言えない。私には風情が微塵も感じられなかった。細菌たちが夏を刺激する、あぁ不愉快な季節。


 しかし不思議なことに、そのような雰囲気にあてられて、自分もプールに入って疲れたような気分になり、うとうとしてくる。……別にプール関係なく、授業が始まると睡眠欲に襲われているような。


「なっちなっち!」

「ん……んー?ん!?」

「やばい、やばいよっ」


 クロスさせた腕に顎をのせて、元気いっぱいあくびをしていると、凄い険相で志佐が揺すってきた。休み時間だとままあることなので、最初はいつも通りだなぁと誤解していたが、熟考するまでもなく今は授業中である。授業中に立ち歩いて何をしてるんだ。先生の説明が止まる。教室にいる人たちの耳目を一手に引き受ける羽目に。


「何が何が、今、授業中だよ!?」


 せっかく囁き声で答えたのに、志佐は普段以上の声量で話し続ける。


「たまっちゃんは?たまっちゃんがいない!」


 志佐にばんばん叩かれて、丸まった背中を伸ばし、振り返って玉樹の席の方を見た。確かに玉樹はいない。


「トイレに籠ってるか、保健室かの二択じゃないかな」


 とは言え、玉樹がそんなに長い時間、トイレに籠っているのを見たことはないけど。


「わ、わっかんないじゃんっ。えぇーっと、先生!さ、探してくる!なっちも、探して!」


 志佐は、他人の机にぶつかったり、横に吊るしてあるカバンに足を引っ掛けたりしながら、慌ただしく教室を出て行った。あまりに突拍子もないというか、融通無碍を極めすぎていたせいか、先生も注意しない。そして依然として、無数の視線が私を監視している。


 まず思ったのが、プールの直後ということで、何か事故に巻き込まれているという可能性だけど。それはないよなぁ、確かにこの目で、更衣室に戻ってきた玉樹を見た。私は見学していたからシャワーを浴びる必要がなくて、みんなが戻ってくる前にジャージから制服に着替えようと先に更衣室に戻って、ちょうど着替え終わった辺りで、玉樹も戻ってきたのである。更衣室は衛生的に気分的に居心地が良くないので、先に教室に帰ったから、その後のことは知らない。この間みたいに、やっぱり何か企んでいる……のかな。


 自然と腰が浮いてくる。心臓が嫌に揺れて、目がやけに冴えているのを感じる。分からない、不安、葛藤、嫌な予感、悪い妄想が前頭葉に寄生虫のようにのしかかる。何かを考えているようで、脳が痺れて何も考えられていない。


 私が見ていない間に、事故や事件に巻き込まれていないという保証はどこにもない。そもそも、もし何かを企んでいるとしても、無視する理由にはならないわけで。どうせ保健室にいて、焦って探して損したーって笑って終わるんだろうけど。あーっ、もどかしい、耐えられない、なんでこんなことになるんだよぅっ。


 みんなの視線を掻き切って、教室を飛び出し志佐の後を追いかける。授業なんて世間体なんてどうでもいい。玉樹が、きっと大事なんだ。この命はもう玉樹のみたいなものだし、逆に玉樹の命は夏が終わるまでは私のものだから。そんな恣意的な解釈を胸に秘めて。


 教室から一番近いトイレから志佐が出てきた。絶対、今言及すべきではないんだろうが、いつになく真剣で緊張感がある形相で、なんというか、フィクションみたいだなぁって思う。いるよね、普段はだらけているのに、裏では世界を救っているようなキャラクター。


「全部開けて調べたけど、トイレにはいなかった。そっちは?」

「え、あぁ、入ってる人いなかったならいいや。今、教室から出たところだから、まだどこも探してない」

「手分けして探そう」

「じゃあ私、プールとか更衣室のほう見てくるよ。シーサーは保健室とか探してきて。もし見つけたら連絡してよ」

「分かったっ」


 志佐の表情が微かに光を帯びる。そして、プールの方を私に託して、ここから近い方の階段へ走り去っていった。まあ、これで少しは私のことを信用してくれただろうか……。私たちは私たちで、曖昧で微妙な関係のままだから。


 役割分担通り、校舎を出て、蒸し暑い空気に曝されながら渡り廊下を歩いて、プールの方へ向かう。更衣室……には誰もいないか。そもそも、次のクラスが使っているんだから、もし倒れでもしていたら誰かが気付くはず。そう言えば、更衣室の隣にはトイレがあったな。んー……やっぱりもぬけの殻だ。一応、スマホを幾度と確認しているけど、志佐からは一向に音沙汰ないしなぁ。


 まあ、念のため更衣室のある棟を詳しく調べる。ここに柔道場があって、水泳部の部室があって、わざわざ来る用事もないし、学校のこういう場所ってこんな構造なんだーと新鮮な気分になる。それらの扉の窓から中を覗き込む。うーん、肝心の玉樹はいなさそうだ。鍵がかかっていて、そもそも入れないし。案外、私たちの捜索網を抜けて教室に戻っているんじゃないかと思って、どうしようか廊下みたいな所を歩きながら悩む。そこを曲がったら何があるんだろう……給水機?


「た、玉樹ちゃん……?」


 給水機の前で、制服を着た誰かが壁際に倒れている。それが玉樹以外の誰でもないことは言うまでもない。私が一体、どれほどの時間、玉樹と一緒にいたと思ってんだ。顔が見えなくても確信できる。


 恐る恐る、いや、緊急事態なんだ、玉樹が倒れているんだよ?何をちんたらしてるんだ!と自分を叱責して、玉樹に駆け寄る。


「玉樹ちゃん……、玉樹ちゃんっ!」

「り、おな、さん……?」

「玉樹ちゃん、しっかりして!ねぇ、玉樹ちゃんっ!」


 しっかりって、何がどうなったらしっかりなの?それも分からなくなりながら叫ぶ。玉樹の目は一瞬だけ開いて、何かを掴もうと腕が少しだけ浮いて、でも、すぐに力尽きたように、命のかがり火が風に巻かれるように、運命が終わったように、役目を終えたように、消えた。消えた?動かないんだから、消えたんだ。


 ああ、ああ、なに、これは?消えた?そんなわけない。目の前に玉樹はいるじゃん。こんなに人を乱暴に扱ったことはないってぐらい必死に揺さぶる。漢字がうろ覚えの名字で呼んでみたりもする。でも、ただひたすらに現実が突き立てられるだけ。重たくて熱いだけ。なんで?どうして?あぁそうだ、呼吸だ、息はしているけど、息をしているだけ。え、死んじゃうの、ここで、私よりも先にっ!


 頭が真っ白になるというか、脳が丸ごと消えてしまったかのようで、思考できないどころか思考しようと試みることもできなくて。そんな空っぽな頭蓋骨の中で、自分の声がお風呂場でもないのに、馬鹿みたいに反響して幾重にも重なって、針のような視野が小動物のように跳ね回る。自分の意識も混濁している。自他の境界が曖昧になっていくような気さえする。熱くて冷たい、苦しい、疲れた、本当に死ぬのかな。間隔も感覚も全部ぐちゃぐちゃになる。何かを自分が叫んでいる。もう、自分の行動を自分で制御することもできなくなっていた。

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