3-3 嘘の憂鬱
おばあちゃんの家に帰ると、自転車で先に帰った志佐が庭にいた。制服から着替えてサンダルに履き替えて、私も庭に出る。
「あの、シーサー……」
「んんー?」
志佐は高圧洗浄機のノズルを持って、家の壁にぶおおおおと水を噴射している。砂埃で汚れた壁がみるみる綺麗になっていく、のはどうでもよくて。
「相談したいことが……」
「えー?なんだってー?」
「えっと、先に掃除しないとダメ?」
「なんだって?」
「終わってからでもいいけど、終わったらすぐ帰らないで!」
「な、なんて言ってるの?」
「一回とめてよっ。落書きするぐらいならっ」
「あぁ、ごめん。よし、結構うまく書けた」
「これは……何?」
「エジソンかピカソ」
「そんなに似てないと思うけど……」
シミュラクラ現象が手っ取り早く理解できる絵だと思った。それにしても、おばあちゃんはよく志佐に高圧洗浄機を使わせたな。ひやひやする。
「で、どうしたん?」
「また前みたいに、一緒に莉央奈さんを救う方法を考えてほしくて」
「おぉ、いいよ。前はライカムに行って、結構楽しんでくれてたよねっ」
「そうなんだけど……。根本的な解決になってない気がして」
「抜本的と何が違うの?」
「え、同じだと思うけど」
「同じかー」
「莉央奈さんって、自己肯定感が低いんだよね。自分の性格に拒絶反応を示してる。こういう風に思ってしまう自分はダメなんだって感じで」
「へぇー、そーなんだ。あたしには分かんないな」
「シーサーは自己肯定感高いもんね。自分に嫌気が差したこと、ないだろうし」
「魔が差したことはあるけどね」
わっはっはと、志佐は得意げに笑い声を上げた。人が長い時間かけて磨き上げる重厚長大な思考力は、果たして当人を幸せにしているんだろうか?無条件にありがたがっているけど、ヘラジカの角とか、クジャクの羽根のようなものな気がしてきた。
「なんか秘訣とかある?」
「秘訣ー?なーんだろう」
「まー、聞かれても分かんないか。生来の才能だよねぇ……」
「あぁ、他人から褒められると、自己肯定感爆上がりかも」
「シーサーって他人から褒められることあるの?」
「おばあちゃんがよく褒めてくれる」
しかしお小遣いを貰えるとは言え、おばあちゃんの手伝いを定期的に続けてきているんだから、効果は絶大なのだろう。莉央奈は……多分、褒められてもそれを受け入れない。今まで、自殺すること以外のあらゆる行動を肯定してきたけど、変わっていないのが何よりの証拠だ。要は、これまでと同じアプローチではいけないなーと、公園から家に帰ってくるまでの間、色々考えていた。ただ、これだけ言葉を尽くして肯定しているのに、それに対して的確な反駁があるわけでもないのに、一向に信念を変えようとしない莉央奈が、私には理解できなくて。また志佐を頼ることに決めたのだった。
「自殺しようとしてること以外は、なんでも褒めてるんだけどな……」
「それじゃない?舌先三寸に聞こえてるんだよ」
「それは……確かに、どうしても言葉が中心になっちゃってたけど……」
「やっぱりさ、行動で示すことが大事なんだよ。おばあちゃんだって、お小遣いくれるし」
「そうか。莉央奈さん自身の行動で、内的に自発的に自己肯定感を生み出せれば、上手くいくかも」
「そゆことそゆこと~」
志佐はそう言いながら、腕を組んでうんうんと大仰に頷いた。
「じゃあ……私が落ち込もうかな。悩める私を、莉央奈さんが励ますの。莉央奈さんにだって長所があるんだって、説得力が段違いに強化されるよね」
「え、何か落ち込むようなことでもあるの?大丈夫?」
「ない、ないけど……。でも、このくらいの年頃だったら、何に悩んでたって不思議じゃないから。悩みようはいくらでもあるよ」
「確かに、進路を考え始めないといけない時期だしなー。進路相談でもすんの?」
「進路は、困ってないとは言わないけど、それなりになんとかなる見込みがあるから……。憶測だけど進路相談は、私よりシーサーの方がするべきだと思うよ」
「うっ、進路調査票はやく出せって、担任に恫喝されてるのを思い出したっ……」
まるで、ゾンビが人肉を食らうのを見ているかのように、表情をがっちがちに強張らせる。そして、不都合な記憶を振り払おうとするかの如く、かぶりを振った。この程度の逃げ癖は、普通の範疇に収まるんだろうか……。最低限の努力で上手く切り抜けられるならいいけど、志佐に関しては少し心配になる時がある。
「まあ、協力してほしいことがあったら、その時はよろしくね」
「もっちろん!たまっちゃんの頼みなら、なんでも聞くに決まってるっしょ?」
「ありがとう。洲鎌さんが言ってたけど、私たち、こっちに来てからシーサーに厄介事しか運んでないから、何かお礼をした方がいいかもね」
「辞めてよ辞めてよ。そういうの今までにやったことないじゃんっ」
「まー、そっか、そうだよね」
私たちの間にあるのは、決して変わることのない絆だった。だからこそ、頼みの綱たりえる。真っ白な空の下、私たちは、なんの屈託も応報もない過去を思い返して笑い合っていた。
先延ばしにしていてもタイムリミットが迫ってくるだけなので、翌日、教室でさっそく作戦を実行することにした。 迎伊と志佐とギャルを招集して、一晩かけて練った寸劇の脚本を、口頭でだけど説明した。
「こんな感じで、最終的に言い争いに発展したらベスト」
「そこまでして莉央奈ちゃんの気を引かなきゃいけないのは、なんで?」
「莉央奈さんを少しでも幸せにしたい、から……」
「ふーん、まあ頼まれた以上はやるけどさー」
「ねぇシーサー、二人ってどういう関係なん?」
「えー、歪んだ愛?」
「へぇー」
ギャルと志佐がこちらを変な眼差しで見つめてくる。愛ならもっと、容易に事が運んでいただろうな。
「『を・に・が・ば』があったら主語が変わってると覚える。あとは敬語が謙譲語か尊敬語かも確認する。だから、尊敬語と謙譲語も全部覚える」
「えぇ~、きついよぉー」
「覚えればできるようになるから」
「覚えなくてもできる方法ないのー?」
「ない」
「じゃあじゃあ、語呂合わせは!?」
「ない」
「そんなぁ」
教室の前の方で友達と談笑している莉央奈を確認しつつ、とりあえず机にこの前のテストの問題用紙を広げて、志佐に古文を教えるふりをする。ちなみに志佐は、本当に敬語を覚えていない。それはともかく、指示した通りに何食わぬ顔でクラスメイトの迎伊がやってくる。
「沓掛さん、シーサーに勉強おしえてるの?無駄だよ無駄。シーサー、ちょー馬鹿だもん」
「あたしより下だっているしっ」
「不良と違って、補習だって受けてるのにね」
「あたしだってやればできるの、やれば!」
「嘘だぁー」
「何その顔、むかつくーっ」
なんかいがみ合っている。そんなしょうもない争いをさせる計画はなかったけど、まあいっか。
「お、沓掛ちゃんに勉強おしえてもらってるの?いいなー、シーサーなんかどーせ成績上がんないだろうし、うちに数学教えてよ!」
協力者その2の、IQが私と同じぐらい疑惑の、ナチュラルの逆、アーティフィシャルなけばけばしい化粧をしたギャルがやってくる。
「いちいち一言余計だなっ」
「この問題なんだけどさ……。どうやればいいんだっけ?噴門まで来てるのに思い出せなーい!」
「んー、両辺を3のn乗で割ればいいよ。そうすると、f(n)が階差数列になって一般項が求められるってわけ」
「あぁ、そんなのあったわ~。いやぁ、数列嫌いっ。どうしたらいいか分っかんねぇよー。沓掛ちゃんはどうしてるん?」
「覚えるしかないよ。パターンは決まってるんだから」
「全部?」
「教科書に載ってるのは全部。逆に言えば、全部覚えるだけ」
「はぁ……絶望……」
ギャルは両腕を前に投げ出しながら、机にぺてーんと突っ伏して、他の人に同情を求めた。そこですかさず、迎伊が小言を口にする。
「暗記暗記って、自分ができるからって簡単に言うよねー」
思っていたよりも露悪的な言い方で、場の空気がぴりついた。まあ、そうであってくれなければ口論にならないし、莉央奈が心配してくれることもない。で、何も言わなくても、迎伊は追撃をくわえてきた。
「まるで自分の記憶力を自慢してるみたい」
「自慢なんてしてない。私は要望に応えただけ。勉強を教えてって言われたから、どうしたら問題を解けるようになるのか聞かれたから、自分なりに回答した。求められたことをしただけ」
「言い方ってもんがあるでしょ」
「じゃあ、伝えたい情報を損なわないという前提を守った上で、他にどんな言い方があるというの?提示してみてよ」
「うーわ、すぐ理屈で返すじゃん。社会って、正論を言えばいいってもんじゃないからねー」
「そもそも、私の学力がこの学校の平均より上なことは、周知の事実だよね。誤解とは言え、自慢されたくないなら、そもそも勉強のことで私にかかずらうべきじゃない。それだけのことだから」
「そうやって馬鹿を論破するのが楽しいの?」
単に嘲るだけじゃなくて、どこかかわいそうなものを見るような遠い目。これは演技だって分かっているけど、意識していないと誤解しそうになる。自分がどう思われようと、どういう印象を抱かれようと、自分は自分だって言い切れたらいいけど、実際問題、思想とか信念とか、モットーとか願望とかって、他者との関わりによって割と簡単に形を変えてしまうもので、他者から疑われれば自分の正当性も揺らいでしまう。それは私だって例外ではない。盤石に見せかけているけど、強くない。
「まあまあ、沓掛ちゃんに悪意はないと思うよ?」
「だとしてもさ、なーんか見下されてるように聞こえちゃうよねー。教科書に書いてあることを覚えるだけ、なんでそんなこともできないの?って感じ?」
「でも、私がそう思ってるって根拠はないよね」
「思ってなくても、そう聞こえちゃうってこと」
「だったら、どう伝えれば不快にならないで済むかを教えて。それが建設的な議論だと思う。もし特にないなら、次は自衛して」
「はぁ?教室で喋ったら聞こえるんだけど。そっちこそ、他の人に聞こえない場所でこっそりやってよ。大体の人は、あんたの自慢なんて聞きたくないんだから」
「だから自慢じゃないって説明したよね……」
「りょ、両方に非があったということで、ね」
「私が悪いって根拠は?」
ギャルの制止も聞かずに、絶対に解決することのない泥沼の、不毛で不服で不如意な甲論乙駁をする。志佐は……まあ空気、居てくれるだけで十分ってことである。そうこうしている内にチャイムが鳴った。ふぅ、とりあえず脚本通りに演じきれた。言い争いの最中にふと、教室の前の方を見ると、莉央奈が友達と話しながらも、時々振り返ってこちらの様子をうかがっているのが確認できた。これだけやれば、さすがに看過されないはずだろう。私は嘘の憂鬱に浸っていた。
だけど、そんな嘘の憂鬱は、すぐに本物に変わった。
「さっき2、3個前の休み時間に、ちょっと揉めてなかった?」
教室移動の最中、二人きりになった時に莉央奈の方から切り出された。教科書を抱える腕に力がこもる。自転車で転んだ時に手当をしてくれたり、前例と勝算はあったけど、そもそも心配してくれるかどうか最終的には賭けだったわけで、向こうから言及してくれるなら、もう何も問題はない。あとは論理的に莉央奈の自己肯定感が上がる、はずである。
とりあえず、真剣に懊悩していると思われるよう、つま先の少し先に視点を合わせて、口角を意識的に下げて、表情を上手く整える。
「聞いてた?」
「まー、普通に教室中に響いてたからね……」
「どう思った……?」
「玉樹ちゃんは間違ってないと思うよ。贔屓目が入ってるけど」
「間違ってないなら、それでいいのかな」
「なんだか、玉樹ちゃんらしくないことで悩んでるねー」
「そうかな。ある程度自分が折れることもしないと、上手に人付き合いできてるとは言えないと思うから」
「それはそうだけど。私には相手も、だいぶ感じ悪いなーって思ったよ。やけに喧嘩腰というか、嫌味っぽく言ってきてたじゃん。向こうも我慢せず言いたいことを言ったんだから、こっちだって好きなように言い返せばいいよ」
「な、なるほど」
「少なくとも、玉樹ちゃんが気に病む必要はないよー」
莉央奈は優しい笑顔を隣で咲かせていた。こんな風に人を元気付けられるのに、なんで自己評価が地に落ちているのやら。でも、もう言い逃れできないから大丈夫。誰かの力になれることを、自分で証明してしまったんだから。
「莉央奈さんが味方になってくれるなら、気にしないでみる。元気出た、ありがとう」
「あ、あぁ、どういたしまして」
「あんな風に言われたの、結構つらくて尾を引いててさ。自分が普通にしてるだけで、周りに迷惑をかけてるなんて、考えたくもないから」
「それはないと思う」
「莉央奈さんは優しいね。きちんと他人に寄り添える」
「そうかなぁ」
にしても、さっきから莉央奈は、きょろきょろ絶えず目線を動かし、口元を歪めて表情に影を落としている。褒められ慣れてないのだろうか。それとも、私を庇ったことで目を付けられてないか、警戒しているのだろうか。
「たとえ、偽りだとしても?」
「り、莉央奈さん……?」
「これはただの偽善……」
莉央奈は少し目を伏せて、ゆっくりとまばたきをする。険しくて堅牢で、私を拒絶しようとする。喉に言葉が溢れて、前のめりになって、身体が最悪の事態に染まっていくのを感じる。
「ぎ、偽善なんかじゃないっ。私なんかを助けたって、莉央奈さんには得がないんだからっ」
「そうじゃなくて……、あーもう、言っちゃうけど、全部聞いてたから、これが玉樹ちゃんの手のひらの上だって、知ってるから」
「え……」
「部屋の窓を閉めようとしたら、下で二人が話してたから、こっそり聞き耳立ててた。私のこと、気遣ってくれたんだよねっ……。それに、盗み聞きしたのは悪かった。でも……」
背筋が凍てついて心臓が震える。視界の端から黒いもやが滲み出てきて、視界が狭まっているような気さえする。莉央奈は最初から全部知っていて、励まそうと笑ってくれたのも欺瞞で、手のひらの上なのは私の方だった。時間を巻き戻したい。やり直したい。何度やり直したって上手くいくことはないけど、やらないという選択肢がある。莉央奈を傷付けるぐらいなら、何もしない方がマシだ。……何もしない方が、なんで、どうして、私は、莉央奈とここにいるの。一夜の過ちが、自業自得だけど私を窒息させる。でも、もうどうすることもできない。美しい楽園に背を向けて、縄に首を通して、大地から足を離してしまった後のようなものだから。
「ごめん、なさい……」
「え、あっ、でも、玉樹ちゃんなりに考えてくれたことは、きちんと受け止めたいというか……」
「受け止めるって何?私がただ、当初の目的を果たせなかっただけ。莉央奈さんに余計なものを押し付けて、あろうことか、騙そうとしたことがばれた。肯定でも否定でもない言葉で誤魔化したって、私の失敗は覆らない」
「あー、えーっと、そんな思い詰めなくても……」
「私を慰めないでよ!私には、本当に慰められる権利なんてないんだからッ!」
「ま、待って……」
莉央奈のことなんてよく見えない。でも、今、彼女の表情をうかがう必要も、これ以上なにか言葉を交わす必要もなかった。次はもっと正しくやり遂げる、ただそれだけ。惰性の誘惑を断ち切って、私は莉央奈の前から駆け出した。
自己肯定感を自発的に見つけてもらうどころか、それがハルシネーションであることを証明してしまったようなものだ。これも、間違った正義ってことなのだろうか、私はずっと間違え続けているのだろうか。よもや、圧倒的で絶対的な不正解は、ずっと不正解のままなのか。頭も身体も重い。思考がひたすら堂々巡りを繰り返している。どうせ、せいぜい足掻くけど、私たちの向かう先は決まっているようなものだった。




