3-2 やがて日常に至る病
莉央奈の日傘に肩を寄せながら、今日も灼熱を掻い潜っておばあちゃんの家に帰る。どうせなら夕立でも降ってくれればいいのに、降り出すのはいつも家に着いてからだ。
莉央奈の日傘に入るのには、さすがに慣れてきた。とは言え、居心地は別に良くない。いやあの、真夏に密着するのって、誰とだって気分の良いものではないでしょ。かと言って、自転車をどうするかは未定のまま。結局このままなあなあに時間が過ぎて、最期まで一緒に歩いて帰りそうな気がする。
「ふぁ……ぁ」
少し眠そうにあくびをしてから、莉央奈はこちらを向いてきた。髪がふんわりと揺れる。確かに甘くて柔らかくも感じられて、適度に華やかないいにおいがする。だから、なんでだろう。これが天資の格の差、なのかな。
家に着いてドアを開けると、キッチンから廊下におばあちゃんが顔を出してきた。赤い汁がしたたる包丁を持って。
「ひぃっ」
「えぇ?スイカでも切ってたんじゃないの?」
「そうだよぉ。うぉんとさむ?」
「あっ、あっ、いっ、いただきます……」
私の腕から莉央奈がするすると離れていく。まあ、包丁を持ったまま出てきたおばあちゃんも悪いと思う。これが家庭科の授業だったら、減点されていることだろう。安全のためとは言え、包丁の扱いにやけに厳しかった記憶がある。
おばあちゃんは三角形にカットしたスイカを、縁が少し欠けてしまっている白い浅い皿の上に載せて、クーラーの効いた居間に持って来た。綺麗な赤と緑に色付いて、輝くほどに瑞々しくて、きっと新鮮なのだろう。渇いた喉が欲している。早く食えと身体が余計に喉を渇かせてくる。迷わず2番目に大きいピースに手を伸ばして、意気揚々と被りついた。
「どうだい、甘いかな」
「うん」
「そりゃあ良かった」
しゃりしゃりとした食感と同時に、口の中いっぱいに冷たくて甘い液体が広がる。それでいて後味はすっきりとしていて、荒涼とした喉を深々と優しく軽やかに潤していく。まるで森の中にさらさらと流れる清流を掬って飲んでいるかのようで、火照った身体がみるみるうちに平衡点に収束していくのを感じる。整うって、こういうことなのかもしれない。
「どれどれ……おぉー、へぇー、学年1位かぁ」
莉央奈がどんな表情で食べているのか気になって横を向いたら、おばあちゃんが勝手にカバンを開けてテストの個票を見ているのが目に入った。
「少し問題が簡単だっただけで、まあ、そんなに……」
「のーうぇい、誰でも1位になれるわけじゃないんだから。十分すごいのよ。もっとぷらうどりーにしなきゃ」
「だってさ。クラスの人たち、みんな話題にしてたよ?私が言うのも変だけど、玉樹ちゃんは凄いんだよ。もちろん、勉強だけじゃなくて、なんか、色々……あぁ、行動力とかね」
莉央奈までそんなことを言い出すなんて。いや別に、莉央奈は私の理解者でもなんでもないわけで、私の望むような印象を抱いてくれるとは限らないけど、そしてどんな印象でも受け止めなくてはならないけど、少し怖くなってスイカに逃げた。
「やっぱり、ばあちゃんの孫はみんな優秀だなぁ。それに比べて、ばあちゃんの子供は……いまいちぱっとしない。子供ができてからもずっとチャラチャラしててねぇ」
「ん、玉樹ちゃんの兄弟ってそんなに優秀なの?」
「従兄弟には、プロのサッカー選手とか、スイスに留学してる人とか、起業した会社を売却して一生分の生活費を手に入れた人とかいるけど。あと……とんでもなく大食いの人……?」
「最後って、玉樹ちゃんのこと?」
「違う違う。私たちがいつも残してるおばあちゃんの夕飯、あれを平気で平らげる化け物だよっ」
「それはとんでもなく大食いだね……」
そんな話をしていると、おばあちゃんは莉央奈の個票も勝手に確認し始めた。
「私、そんなに成績よくないですよ」
「んー、でも、何もしてない人のすこあじゃないね」
「多少は玉樹ちゃんと一緒に勉強しましたけど……」
「少しは危機感のあるすちゅーでんとはいいんだよ。たまに危機感が全くない、怖いもの知らずな子もいるからねぇ。そういう子はこっちが何を言っても聞きやしない。手遅れになる前に、自発的に気付いてくれるのを願うしかないねぇ」
おばあちゃんは紙面から顔を上げ、眉を開いてそう言った。かつて学校の先生をやっていた頃、よほど手を焼かされた生徒がいるんだろう。それはともかく、おばあちゃんはつまり、莉央奈でも将来に対する危機感があるって言っているんだろうけど、それが本当なら莉央奈も少しずつ変わりつつあるって期待できるけど、本当に希望の証左にしていいんだろうか。生真面目でいる方が精神的に安定する人だっている。漫然と生真面目を選んでいるだけなのかもしれない。莉央奈は本質的に破滅したいのではなく、苦しみたくないだけのようだし。
おばあちゃんが居間を出ていくと、莉央奈は愛想笑いを引っ込めて、フォークを刺したままの燦々と煌めくスイカを見つめていた。
「あんまり好きじゃないの?」
「種とるのがめんどくさーい。食べる?齧っちゃったけど」
そう言えば、前に夕食で焼き魚が出た時も、骨を取るのが面倒だから嫌いって教えてくれたっけ。そのまま口に入れられない物を好まないんだろうな。ともかく、私が取るべき行動は一つだった。
「じゃあ、取ってあげようか?」
「え、えっ?いや、それはさすがに……」
「さすがに、何?嫌ならやらないし、私に食べちゃってほしいなら全部食べるし」
「えぇー、んー……、取ってくれたら食べるかなぁ」
若干疑問形で返されたので戸惑いながらも、スイカに刺さっているフォークへ手を伸ばす。
「玉樹ちゃんは、私のメイドとか召使いとかにでもなるつもり?」
「そういうわけじゃないけど……。できる事からやるしかないから」
「それが……スイカの種をほじくること……」
なるべく果肉を潰さないように注意しながら、頑張ってフォークで種を掻き出している私を見ながら、莉央奈は半笑いでそう呟いた。確かに一般的な行為ではないのかもしれないけど、奉仕して仕事をした気になりたいだけなのかもしれないけど、論理的には正しいことをしたわけで。莉央奈がスイカを食べなかったり、不愉快になりながら無理して食べるよりはよっぽど幸せなのだから。まばたきする間も惜しんで種を取り除く。
「分かった。私もほじくろう」
「おぉ、頼もしい……あれ、それじゃあ莉央奈さんの手を煩わせていることに変わりない気が……」
「まあ、いいんじゃない。黙って見てるのも、なんだかお姫様になったみたいで、それなりに覚悟がいるし」
莉央奈のしたいことを叶える。それが至上命題なわけで、つまり二人してスイカの種をフォークで取り出す作業に黙々と取り組んだ。貴重な夏の一日の昼下がりを使って何をしているんだって感じだけど、最後まで種を気にせず噛みしめられた時は、結構感動したので、結果オーライ、なのかもしれないという気にもなる。
「意外と甘かったね」
「中心の一口だけじゃない?」
「そういうものなんじゃないの?」
「んー、とりあえず、手がべとべとだし洗ってこよー」
「うん」
「シーサーってスイカ嫌いだよね」
「えぇっ?急になに、面と向かって面食らわせに来てる?」
「昔、種を飲み込んで、慌てふためいたことがあってさ。それ以降、食べないようにしてるよね」
期せずして、ふふっと思い出し笑いをしてしまった。
「あれは……っていつの話よ?よく覚えてるなぁ、そんなこと」
「へそから芽が出るーって、おばあちゃんの前で騒いでた。というか、割と最近まで信じてなかった?」
「中2ぐらいまで信じてたけど……」
「そんなわけないのに。だって酸素ないし、第一、発芽する前に排出されちゃうよ」
「えぇーだってさ!サンタさんと違ってありそうじゃん!植物の生命力なめんなよ!?」
と、両拳を後ろに引いて、前のめりに主張された。いつも通りの志佐って感じ。
「昔のたまっちゃんはさっ、もっと寄り添ってくれたのになっ。大丈夫だよーって声をかけてくれて、背中をさすってくれて」
「今だって大丈夫とは言ってるけど……」
「こんなに理屈っぽくなかったっ」
昨日、スイカを莉央奈と食べたからこそできる、実質的に時事ネタみたいな雑談をしていると、数人の友人と共に中央階段を降りてくる莉央奈が視界の端に映った。もちろん、私たちが昇降口の靴箱の横で待っているのも莉央奈である。
「またヘアアレンジ教えてよ」
「いいよー。じゃ、部活がんばってきてね」
「おー!なっちも帰宅がんばれよ!」
「意外と命懸けだからしゃれにならない」
一緒に降りてきた友人は体育館の方へ駆けていき、莉央奈は私の視線と平行に近付いてきた。
「お待たせ。ちょっとだけのはずが、予想以上に長引いちゃった」
「大丈夫だよ」
「帰ろう帰ろう、学校にいると精神が汚染されちゃう」
「そ、そこまで……?」
志佐が真っ先に動き出して、靴箱に上履きを放り込んだ。まるで3人で帰るような雰囲気だが、志佐は自転車で通学していて、一緒に歩いて帰るわけでもなく、普通に置いていかれる。集まる意味は全くない。
そんなわけで校門にて、海風を背に受けて、曇天に負けじと、颯爽と自転車を漕ぎ出す志佐を見送り、私たちはいつものように一つの傘に身を寄せ合って、呑気に歩き始める。
「そう言えば」
「どうかした?」
「私たちって、客観的に見て仲良さそうじゃないんだろうか」
「そうなの?」
「前にクラスの人と話してて、莉央奈さんにある種の憧れを抱いてる人、みたいな扱いをされたから。こんなに行動を共にしてたら、友達ってことぐらいにはすぐに思い至りそうだけど」
「あぁ、言われてみれば、玉樹ちゃんのこともシーサーのことも、誰も聞いてこないな。それくらいでいいと思うけどね。教室内の交友関係を全部把握してても、実際に遊びに行ったりするのは数人だけなんだし」
「でも、昼休みに一緒にご飯食べてるのとか、目に入らないのかな」
「意外とみんな周りを見てないんだろうね」
「そんなものかな」
「玉樹ちゃんは視野が広すぎるんじゃない」
むしろ偏狭なので、これは会話の流れを保つための発言かな。
私には、教室で莉央奈の周りに集っていた人たちのように、朗々と話を続けたり盛り上げることはできなくて、今も車が走り抜けていく風切り音の方が目立つ。基本的に帰り道はいつもこんな感じで、静かでアンビエントだけど、莉央奈の笑顔の遠景を思い出すと、もう少し上手くやりたいという欲が湧いてくる。
そんなことを考えながら、吸い寄せられるように莉央奈の横顔を凝視しながら歩いていると、莉央奈は日傘を私に預けてカバンから水筒を取り出し、背中を少し反らして最後の一滴の次を待ちわびていた。
「あれ、全然ない。学校で買っとけば良かった」
「そこの公園に自販機あるよ」
「おー、土地勘さえてるねー」
とは言え、志佐とこの公園に来たのは、もう5、6年も前のことなので、ドヤ顔で言った矢先、自販機が撤去されていたらどうしようという不安はあったけど、きちんと健在だった。なんなら新品に更新されていて、遊具の錆び付いたこの公園には似つかわしくないほど、ぴかぴか輝いている。
私は迷わずシークヮーサー味のファンタを、莉央奈は人差し指を2、3周させてからカルピスを選んだ。この公園は市民の憩いの場としてきちんと機能しているようで、ベンチは犬を連れたおじいさんとか、今となっては珍しい、外でゲームをするタイプの地元の小学生とかが利用していたので、そこから少し離れた場所にあるブランコに座った。木々の間隙から、道路の向こうの海が見える。毎日のように海の横を歩いているので、そろそろ海が見えるだけで、潮の香りがフラッシュバックしてきそうだった。まあ、未だに莉央奈と砂浜に降り立ったことはないんだけど。
直射日光がないから油断してしまうけど、今日はとにかく蒸し暑い。多分、あの犬を連れたおじいさんは、この天気なら散歩に行けると思って、溽暑にやられてしまったのだろう。南無三。
「はーあ、なんだかなぁー」
莉央奈はカルピスを三分の一ぐらい一気に流し込んで、そして虚空に向かって嘆息をぼやいた。
「何か、困ってる?」
「困って……んむー、困ってる、のかなぁ」
「例えば自分に困ってるとか」
「あぁ……分かる?」
「当たった?莉央奈さんのこと、少し分かるようになってきたのかな」
言い終わってから、どことなく志佐っぽい無邪気で不躾な自分の声色に気付く。余計な感情を発露させてしまった。羨望のような苦笑いを浮かべて押し黙る莉央奈を前に、慌てて表情を必要以上に真剣なものに取り換える。
「どうしよ。んー……」
今度は斜め上を見上げたり、ペットボトルを持ったまま両手を後ろで組んでみたりしながら、まあ何かしらに悩んでいるようだった。莉央奈が悩んでいて良いことなんてないので、もどかしい気持ちでいちいち胸が詰まる。
「友達なんて、今さらできてもさー、しょうがないよね。……あっ、あぁ、またこんな話をしちゃった」
「止めなくていいよっ。莉央奈さんが悩んでることはなんでも受け止めたい。遠慮しないで」
「でも……やっぱりいいよ、そんな深刻なことじゃないから」
「相談、したかったんだよね。だから、こうして並んで座って話してる。私に問題を解決できるかは分かんないけど、気概だけは見せるからっ。迷うぐらいなら、私に話してくれれば……ほら、話してるうちに莉央奈さんの中で自己解決するかもしれないからさ」
「そこまで言われたらねぇ……」
莉央奈は穏やかに困ったような表情で、視線をやや下に向けて、後ろに回した両手でペットボトルのキャップを開けたり閉めたりしながら。
「まあ、期待してるところ悪いけど、代わり映えのしない悩みだよ。ただ、東京にいた時と全く同じコミュニケーション方法で、こっちでも人と接してるなーって。私って、ほんとにこういう形でしか友達と話せないんだね。他人よりこっちが上位であることを確認してないと、自分を保てない」
「私はそう感じたことないけど。何か自慢してきたことあったっけ?」
「んー……ほら、玉樹ちゃんは流行とか美容とかあんまり気にしてないから。こっちが自慢するつもりで見せたのに、意に介してないことがよくある」
「美容、気にしてるよ。いつおしゃれさを求められるかなんて事前に予想できないし、一朝一夕に得られるものじゃないし、とっても気を遣ってる」
「え?……まあ、もっとずぼらな人もごまんといるか。お風呂上がりにヘアオイルとかきちんと塗ってたし」
ふと空を見上げたかと思えば、腑に落ちられた。
「って、玉樹ちゃんがおしゃれに気を付けてるかはどうでもよくて。私が言いたいのは、結局、人間って中身ってこと。内面が腐ってたら、どれだけ虚飾しても外に出てきちゃう。それに人の価値を決めるのも、性格とか考え方とか、一目で断定できないことなんだから。私みたいに大した中身のない人間が着飾るなんて無意味だし、もはや詐欺みたいなものでしょ」
「中身が人間の価値の全てって、そんなルールはないし、現にこの世界はそんな価値観で動いてない。外面だけの人が跳梁跋扈してる業界だってあるよね。それに、他人より卓越した価値がないからなんなの?たとえ交換可能な価値しか持たないのだとしても、大抵の場合、その交換可能な価値は一人だけじゃ足りないんだから。莉央奈さんが自分を変えたいと考えるなら、もっと内面に見所のある存在になりたいと願うなら、もちろん協力するけど。でも、あまり思い詰める必要もないよね」
「無理だよ。後から振り返って、教室での自分の行動を嫌悪することになるって、それにも考えが及ばないぐらい浅はかな人間なんだし。そんな私が、玉樹ちゃんみたいに理屈っぽく人生観を持てると思う?」
「私のコピーになる必要はないけど……」
莉央奈は正面を向いて、砂を巻き上げるように足を上げてみたりもしながら、自己否定を続けた。出会った時から、ずっとそうやって振り切れて吹っ切れている。今だってどこか涼しげで、悟ったように飄々として、まるで地から足が浮いてしまっているようで、まだ未練と呼ぶには若すぎるものを帯びていて。……未練?
「私には無理なんだ、外見に相応しい中身を用意することは。かと言って、見栄を押し付けることを止められるわけでもない。玉樹ちゃんは、楽しいなら止める必要はないとか、どんな私でも肯定するって言ってくれたけど、多分、これは依存だから。本心では変えたいって思ってるんだろうね。でも、自分の意志ではどうにもできない。だから、ね」
死ぬことで、大いなる力で、その依存を断ち切ろうって寸法、そう続くのだろう。莉央奈は簡単じゃない面持ちで念押してきた。共感も肯定も否定も足蹴も絶縁も求めてなさそうで。聞いてほしいだけ、なのかもしれない。でも、私に救われたいというのも違う。それこそ、依存なのかもしれない。
「あぁ、またやっちゃった……、人を巻き込んで病むやつ。ごめんね、いつもネガティブで。自覚はしてるんだけど、なかなか治せなくて……」
「それで気持ちが楽になるなら、いくらでも、どうぞ。絶対、どんな時でも真剣に聞くから、寝てる時でも叩き起こしていいから。ほら、陰と陽は相性がいいし」
「それって、玉樹ちゃんが陽ってこと?」
「ポジティブ人間だし」
「えー、破滅願望みたいなのを持ってるのに、ポジティブ……?」
「私は莉央奈さんと心中するのが願望なわけじゃないよっ」
「それは分かってるけど。んー、んー……。でも、やっぱり陽ではないよねー」
莉央奈は普通に笑って、それから後ろに回していた両手とペットボトルを、膝に戻した。そう、莉央奈は普通に笑う。私の機嫌をうかがうようにニコニコしてみている時もあれば、面白くて笑う時だってたまにはある。だからこそ、状況が改善されているのか判断が付きにくいわけだけど、笑っている姿を私に見せることが得だと莉央奈が思っているわけだから、きっとこれは喜ばしいことなのだろう。
「またこっちを凝視してきて。なに、もしかして玉樹ちゃんも相談したいことがあるの?」
「いや、特にないけど……。どうする?帰る?それとも、せっかくだし、ブランコで遊んでく?莉央奈さんが漕いでみたいって言うなら、やって行こうよ」
「え?何その提案。いいけど」
お互い視線を交差させて固まるひと時を経てから、それぞれ地面に飲みかけのペットボトルを置いて、鎖を握って、限界まで後退する。四つの錆びた鎖が一斉に軋みながら揺れ出す。視界が重力が目まぐるしく変化する。自分の身体の制御が利かないという状況はいつ以来だろう。たまにはそういう環境に身を置きたい人もいるらしいけど、先述の通り私には破滅願望はないので、ただただ、なんとしても操作権を取り戻そうと、必死に藻掻いていた。身体が園児だった頃を覚えているのか、しばらく闇雲に足を振り回していると、だんだん振幅と周期が安定してきて、鎖を握る手も力まなくなってきた。
湿っぽくてぬるくて清涼感の欠片もない空気を、自分の頭がかき回す。別に空が近くなった感じもしない。揺りかごを彷彿とさせるような気分が良くなる強度の揺れでもない。それでも、5歳とかそこらの、ジェットコースターに乗れない身長の小さい子にとっては、まあまあ刺激的な遊具だなーとも思った。
それより横を向くと、私よりはるかに小さい振幅で揺れる莉央奈が見えた。どうやら苦戦しているようだった。ずざざざざと足を地面に着け、自分のブランコを止めて、莉央奈の背中に手を当てる。
「押すよー」
「ふぇ?あっあぁ、うおあぁー、あー……?」
「どうかな」
「もうちょっと強く押してもいいよ」
「わ、分かった。とりゃっ」
「おぉ、うわー、ちょ、結構高いっ」
「これでいい?」
「んー、いっそのこと、全力で押してよ」
「え?ご所望とあらば……覚悟はいい?うおーーーー」
「ややっやりすぎやりすぎ!」
少し調子に乗りすぎた。公園一帯に莉央奈の狼狽している声が響く。でも、莉央奈がこんな風に必要以上に声を上げるなんて。死にたがっていることを忘れそうになってしまう。夜の橋での出来事が、言葉としては脳内に残っていても、その映像が薄れていく。私はただの友達にただの悪ふざけをするように、もっと強く背中を押した。
「容赦なくて、はぁ、スリリングだったなー、ハリドリを思い出した」
「思ったより高く上がっちゃって、びっくりした」
「んとー、……心拍数下がるまで休憩してていい?」
「そうしようか」
地面に置いたシークヮーサー味のファンタを拾い上げて、ブランコに座り直す。喉を潤して一息つくと、また莉央奈と視線がクロスして、自然な笑いがまろび出る。莉央奈も、私も。でも、すぐに正気に引き戻される。莉央奈が笑っているのはいいとして、私が笑っているのはなぜ?何が東京と違うの?莉央奈が笑っていたら嬉しいけど、一緒にいるだけで笑えるほどの親近感はない。ここにいる意味を考え直しそうになる。私は、莉央奈のためにここにいるんでしょう?それなら、莉央奈のことを考えなきゃ。あの夜を、あの帰り道を思い浮かべて、気を引き締める。そして、その笑顔の裏を解き明かすように、軽く揺れる莉央奈の横顔を見つめ直した。




