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理屈っぽい天使と堕天使のクリームダウン  作者: Ehrenfest Chan
第3話:最速降下曲線上の天使
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3-1 空色の優等生

 クーラーから発せられている人工の冷たい空気が、薄っぺらいセーラー服を通り越して肌に纏わりつく。しかしその、産毛が凍ってしまいそうなほどの冷気を、私の身体の中心は灼熱を発し返して跳ね除けている。棘でも生えたのかと思うぐらい背中がぞわぞわして、左心室はメルトダウン寸前である。少しぐらい頭を振ったりしようにも、前に座っている人もいつも落ち着きがない志佐でさえも、微動だにせず教壇の方を向いているから、変に目立ってしまいそうで身体を安易に動かせない。


 先生の声だけが聞こえる静まり返った教室で、私は一人、気が気でなかった。そう、テスト返しである。手応えと結果にあまり相関がないことが、今までの経験から身に染みているので、いつもこんな風にドキドキしている。別にテスト返しの時間に力んだって結果は変わらないけど、血迷っているのは内心だけで、誰かの目に見える形で混乱しているわけじゃないから、まあ、許容範囲か。


「うおぉーっ!赤点回避!キターっ!」


 授業が終わってすぐに、両腕を高く上げながら志佐がやってくる。そして目の前で、答案用紙をぴらぴら揺らしながら見せびらかしてきた。ちなみに自慢できるような点数ではない。


「なっちも見る!?」

「え、あぁ、うん」

「なっちぃー、こんな光景、滅多に見られないよぉ?目に焼き付けときなー?」


 今度は莉央奈の前で答案用紙をぴらぴら揺らし始めた。そりゃあ、飼い猫がねずみを捕まえて持って来た、みたいな微妙な顔になるよねぇ。


「あと3回は定期テストがあるんだし、それが続かなきゃ意味ないよ……」

「あ、そう言うたまっちゃんは?見せて見せて!」

「わ、分かったから、見せるから落ち着いて」

 

 志佐に急かされながら、カバンの中からさっき返された論表の答案用紙を取り出す。私の結果を刮目した志佐は、でかいカブトムシを見つけた小学生のように、無邪気な声を上げた。



「すげぇー!90点じゃん!」

「まあ、元々通ってた学校のテストよりは簡単だったから。それに、他の科目はまだ返ってきてないから。分かんないよ」

「1科目でも90点は90点。凄いよ、誇っていいよ!」


 私にとって90点は、良い点数でも悪い点数でもなくほっとする点数って感じで、嬉しい気持ちにはならない。そもそも、他人に点数を自慢しようって気も、あんまりないし。許されるのなら、不利益がないのなら、平均点ぐらいを取っていたい。そんなことを言ったら怒られるから、誰にも言わないけども。



 で、テストが返される度に、再放送をあと9度ほど繰り返しまして。全ての科目が返ってきた。平均では90点を超えていたので、思ったよりできていたみたい。それどころか、どうやら学年1位らしい。ほんとに、問題が簡単で命拾いしたー。


「見てーこれ。全科目赤点回避~」


 昼休み、志佐はそう言いながら、扇子のように答案用紙を広げて、またぴらぴらし始めた。得意げにふんぞり返っている志佐を見ながら、お弁当の片隅に圧縮されていた、味のしないスパゲッティをぼそぼそ噛み続ける。良い点数を取るのが嬉しいなら、おのずと勉強に精が出そうなものだけど。それとも志佐は、最小の努力で最大の効果が得られた時に快感を覚える、効率厨なのかな。


「補習の成果が出たってこと?」

「あんなの、なんの役にも立ってないよ~。あたしが家で頑張ったからこその成果さ」

「なるほど」

「私に言われて勉強しただけなのに、まるで自分の意志で一念発起したみたいな言い方するわね」


 淑乃は腕を組みながら、志佐のことを睥睨した。志佐がすかさず指をさして反論する。


「こいつ、あたしがうたた寝している時に、横にビールの空き缶置いて写真撮りやがったんだよ!それで、拡散されたくなかったら勉強しろって。普通に脅されたから勉強するしかなかったのっ」

「結果的に、戌亥は赤点を回避できて、私は執拗に遊びに誘われなくなって、win-winの機転だったじゃない」

「確かに」

「ちょっと、たまっちゃん!?」


 なかなか過激な仲だなぁーと思いつつ、文字通りお弁当箱をつつく莉央奈を見遣りながら、私たちも別に人のことを言える関係ではないことを再認識した。


 興奮冷めやらぬ志佐は、さっき購買で買ってきたであろうホットドッグの包装も解かずに、私の個票を見せてと、手を前に突き出してきた。変に隠してもややこしくなるだけなので、いったん箸を置いて、カバンから個票を取り出す。


「まっまさか、よっしーを超える人が現れるとは……。あたしの全科目赤点回避が霞む衝撃っ」


 わざわざ大げさに眩しそうな所作をしてきた。


「私よりも点数が高い人、この学年に7、8人はいるけど」

「化学満点やばぁっ。前々から賢そうだとは思ってたけど、まさかここまでとは……。天才、東大行けるよ!」

「ま、まあ、これはただの学校のテストだし……」

「ねぇ玉樹ちゃん、私も見ていいー?」

「別に構わないけど、見たって自分の成績は上がらないよ?」

「ただ気になっただけなのに~。どれどれ……これは、うん、やばいね、笑っちゃうね」


 志佐から私の個票を受け取った莉央奈は、一目見てたちまち相好を綻ばせていった。成績優秀者の景色を擬似体験できているのかな。まあ、莉央奈が喜んでくれるならなんでもいいか。


「なっちは?」

「え?私?残念ながら、玉樹ちゃんみたいな面白い点数じゃないよ。可もなく不可もなく真ん中よりちょっと上ぐらい」

「ふーん。そうだ、同じ家で暮らしてるんだし、どうせなら、たまっちゃんから勉強教えてもらったらいいんじゃない?」

「えー、教えてもらったはずなんだけどなー」

「ごめん、私の教え方が悪かった。次のテストまでに、予備校講師の講義とか見まくって、教え方の勉強するからっ」

「もー、玉樹ちゃんはすぐそういう方向に走るんだからー」

「でも、人に教えるのも一つの勉強法として言われてるし」

「まあ、そっちがしたいなら止めないけど」


 だけど、次の10月のテストまで私たちは生きているんだろうか。それが脳裏に正常によぎる。約束の義務感でこの世に縛り付けるのは、幸せではないと思う。だから、勉強を教える勉強をした成果を発揮したいから、次のテストまで生きていて、なんて約束するのは間違っている。それに莉央奈は、私がしたいならという受け身な返事をした。何も変わってないし、この先も変わらないとするのが適切な推測。日に日に苦くなっているような気がする炭酸の残り香を舌で転がしながら、私の成績がすごーいって中身のない雑談に興じる莉央奈と志佐を交互に見て、自省紛いのことをする、そんな毎日だった。



 今まで噂の当事者となったことがなかったので、噂の拡散係数も意識することはなかったのだけど、実際に体感してみると物凄い速さだった。真実よりフェイクニュースの方が速く拡散するって言われているけど、もし私が学年1位であるというのが嘘だったら、一体どんな騒ぎになってしまうんだろう。


「ねえねえ、沓掛さん、だっけ?この間のテストで学年1位だったんでしょー?」


 授業間の休み時間にトイレから戻ってくると、教室の扉で話している二人組に声をかけられた。ぱっちぱちの目、紅が際立つ口唇、莉央奈もしっかり化粧をする方だと思うけど、なんなのだろう、この差は。莉央奈の方が洗練されている気がする。って、二人のギャルメイクの違いはどうでも良くて。


「うん、そうだよ。合計点がね」

「マジ凄くねー?え、前の学校って偏差値いくつだったん?」

「えーっと、ちょうど70ぐらいだった気がする」

「すご、超エリートじゃん。将来、丸の内のクソデカビルで、颯爽と社員証をぴっとする側の人間じゃん!」

「どうかなぁ。リモートワークが主で、あんまり社員証をぴってしないかもよ」

「確かに。コロナ禍が全部変えちゃったんだー、知らんけど」

「コロナ禍が直撃した世代じゃないもんね」

「修学旅行も小中高と全部普通に行けたよねー。ラッキー」

「てかさ、偏差値20違うと会話が噛み合わないって言うけど、めっちゃ噛み合ってるくね?うちらもしかして頭いい?」

「IQの間違いじゃないの、それ」

「そうかも」

「学校のテストはIQテストじゃないし、もしかしたら同じくらいのIQなのかもね」

「やったぜ、沓掛ちゃんと同じぃーっ」

「可能性があるってだけだけど」

「だよねぇ……」


 こういうのは氷山の一角で、とにかくすっごい声をかけられる。気が付くと、すっかり学年1位であることが定着して、まるで私を指す代名詞みたいになっていた。そのおかげで、莉央奈や志佐以外にも話せる友人はできたけど。莉央奈を救うという観点では必要ないっちゃ必要ない。それに、過剰に謙遜してもうざがられるだろうから控えているけど、大して凄いことでもないと思う。何か大切なものを犠牲にしたり、人生を捧げたりしたわけではない。私でドキュメンタリー番組は作れない。


「沓掛さんって、どうやって勉強してるの?特に数学」

「あ、それ私も気になるー」


 クラスメイトの迎伊とその友達にそんなことを尋ねられた。二人とはだいたい一日に1、2回ぐらい話す浅い友達になった。


「んー、とにかく覚えることかな。なんでも暗記すること」

「そうなの?」

「だって、テスト中の短い時間に、解法を思いつくなんて無理だから。やった問題を丸暗記するつもりで勉強するといいよ」

「なるほど……って真似できるか!」

「まあ結局、どれくらい点数を取りたいかによって、遊びと勉強の時間配分を考えるしかないね。私だってテスト前は、やりたいことを我慢してるし、楽しいから勉強してるわけでもないし」

「楽しくないのに我慢できるの凄いね」

「多分、私ってMなんじゃないかな」

「マクドナルド?」

「お前は純真ぶるな」

「そもそもあれは2本のアーチだから」

「そうだそうだ、ばーかばーか」

「くそぅ、沓掛さんを笠に着て調子に乗りやがってーっ」

「いたっ」


 迎伊が友人の頭をチョップする。なんか二人がわちゃわちゃしている隙に、ふと莉央奈のことを思い出す。テストが終わってすぐ、転校生が来た記念の席替えがあり、莉央奈とは普通に離れてしまった。昼休みは志佐が招集をかけるので一緒にご飯を食べているけど、こういう短い休み時間だと話さないことも増えた。何か伝えたいことがあっても、最悪放課後を待てばいいわけで。


 退屈していないだろうか、孤立していないだろうか。いやまあ、私と関わったら退屈しのぎになるのかと言われると微妙だけど、責任がある以上、気にしないわけにはいかない。廊下側の前の方の莉央奈の席へと視線を移した。


 そこには人だかりができていて、普段より一段と賑やかだった。その中心には莉央奈がいて、クラスメイトと打ち解けているというか、彼女自身がブラックホールとして銀河を維持しているようだった。


 莉央奈の手元には、この間買い漁ったコスメやら小物やらがあって、それを集まってきた女子たちに紹介してみたり、高いのに試しに使わせてあげたり。東京にいた頃の莉央奈は、まさしくこんな感じだったのだろうと、さすがの私でもすぐに分かった。見せびらかして自慢して、鼻を高くして仕切って羨ましがられて、それこそが、莉央奈が憎んでいる幸福な身の振り方で、莉央奈の大っ嫌いな自分。でも今この瞬間の莉央奈は、ライカムからの帰り道で襲われたような、強烈な自己嫌悪の代償を忘れたように笑っていた。


 私は他人だし冷静なので、莉央奈が今とっている行動は、莉央奈自身の信念やありたい姿に反しているって分かる。でも、だからってあの中に割って入って、いつもの4人で話そうって連れ出すのが、当人に最も幸せをもたらすのかって言われると……。ここで水を差すことが、莉央奈にとって最良であると説明する理屈を、少なくとも私は持たない。それに私は、どんな形の幸せも否定されるべきではないと思う。とにかく、特に自分の席から動こうとはならなかった。


 せめて学校で夢から覚めませんようにと、本当に必要最低限のことを祈りつつ、見守るつもりで目を細めていると、迎伊の友人の方が私の視線の先にあるものに勘付いた。


「莉央奈ちゃんに興味あるの?」

「あぁ、なんか賑やかだから気になっただけだよ」

「ええー、それだけー?髪型とか凝っててめっちゃかわいいじゃん。すれ違うとなんかいい香りするし」


 確かになぜか私とは明確に違うにおいがするけども。なんでだろう、同じ物を食べて、同じ洗剤で洗った服を着ているのに。そう言えば、シャンプーとコンディショナーが違うのか。莉央奈はこの間買った、なんか高いやつを使っている。もちろん私は、おばあちゃんの家に元からあったものを使っている。


「分かる分かる。身の回りの物も全部お洒落だし、憧れるよね~。なんだろう、渋谷を詰め込んできたみたいって感じ?」

「何そのおじさんが考えたキャッチコピーみたいなの」

「えぇ~、沓掛さんはいい比喩だと思うよね?」

「んー、美しいかはともかく、合ってはいるんじゃないかな」


 莉央奈は表面上は煌びやかで、流行に敏感だし、少し背伸びしないと手に入れられない物をたくさん持っているし、何より裏側は貪欲で暗黒。そういう意味で言ったわけではないんだろうけど、私には人一倍納得感があった。


「ほれ見たことかー」

「くそぅ、沓掛さんを笠に着て調子に乗りやがってーっ」


 さっきも見たなこのやり取り、立場が逆になっているけど。

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