2-9 Butter Up!
眠い。超眠い。眠い眠い眠い。瞼は痙攣して、視界は霞んでいるような気がして、頭の中は地方の寂れた商店街のように活気がない。しかし、睡魔に負けるわけにはいかない。天使が悪魔のささやきに負けてはならない、と自分が天使だと勘違いしているわけではなく、私の身体は今、人間の特性上、人生で最も夜型に傾いているので、こんな真っ昼間から寝てしまったら、間違いなく生活リズムが崩壊する。テストは無事に終わったけど、夏休みまであと1週間は学校があるので、何としてもそれは回避しなければならない。
「玉樹ちゃん……?すごく眠そうだけど、大丈夫?」
「うんっ、大丈夫っ」
「えー、前後にかくかくしてたよー?」
「内容に共感してた」
「えっ、めちゃくちゃ悪い政治家のシーンだったけど」
先日、おばあちゃんが気を利かせて、この家にWi-Fiを導入してくれた。実家から送ってもらった荷物の中にタブレットがあったので、莉央奈に一緒に映画でも見ようと誘ったのである。
「どういうジャンルが好き?」
「んー、どうかなぁ……。人気だったり、有名だったりするやつ?ジャンルで探すことって少ないかも」
「確かに、人気作品は一定のクオリティが担保されてるもんね」
「というより、会話が弾むから助かるんだよねー」
「なるほど。でも、同じものを見るんだから、今回は関係ないよね……」
「まあ、なんでもいいよー」
「そうだ、私が莉央奈さんに楽しんでもらえそうな映画を探す。それくらいさせてよ」
「あぁうん、玉樹ちゃんがそのつもりなら、楽しみにしておくけど」
と、息巻いてみたはいいものの、わたくし、あんまり映画を見ない。本の方が一つ一つの出来事に集中できて、頭に入ってきやすい気がするから。なので……莉央奈が楽しんでくれそうな映画を、一から徹夜で探した。神をも超越してそうな睡魔に憑りつかれているのは、そのためである。
しかも結局、とつおいつ悩んで朝焼けに切羽詰まった結果、原作を読んだことのある作品を選んでしまった。とは言え、アクションシーンが派手だし、敵も味方も推理も分かりやすいし、悪い選択ではなかった。まあ、徹夜した意味はないね。
結構好きな作品ではあるんだけど、それ故に先の展開を知っているのもあって、本当に、少しでも気を抜いたら、このまま机にダイブしてしまいそう。あくびが止まらない。口を閉じる前に次のあくびが来る。そうだ、朝おじいちゃんがコーヒーを飲んでたし、インスタントコーヒーぐらいあるだろう。私は居間を出て、廊下を数歩歩いて、なんとか台所に辿り着いた。普段はおばあちゃんが、そこのダイニングでテレビを見ながらくつろいでいるけど、今は買い物に出かけて不在だった。
「莉央奈さん、どうしたの?」
「私も喉乾いたから、飲み物を取ってこようと思って」
そう言って、莉央奈は特に躊躇いもなく冷蔵庫の扉を開けた。私は粉末のコーヒーと紅茶に目をやりながら。
「あ、コーヒーか紅茶か。どっちがいい?」
「その二択なら紅茶がいいかな」
「分かった」
スタンドからいつもの色のコップを二つ手に取って、さっさっと粉末をコップに入れていく。私も紅茶でいいかなと思ったけど、カフェインの量が違うからやっぱりコーヒーにした。莉央奈についてまた一つ知れたのは良いけど、こんな眠い状況で覚えておけるかな。
「それよりそれより」
「冷蔵庫を開けっぱなしにしてどうしたの?」
「中にケーキがある」
「おぉー?」
莉央奈に言われて冷蔵庫の中を覗くと、中にはショートケーキが一つだけ置いてあった。真っ白な皿の上に、茶色のスポンジケーキが鎮座していて、ラップがかけられている。
「チョコレートケーキ?でも上に白いのが載ってるね」
「いわゆるジャーマンケーキってやつだと思う。こっちではポピュラーらしい」
「へぇー。……一個だけ、だね」
「そうだね」
もう一個あるはずだと思って、少し冷蔵庫に頭を突っ込んで、中を見回してみる。まだまだスペースには余裕があるけど、ケーキは一つだけだった。
「ここは公平にじゃんけんで決める?」
確認を終えて一歩後ろに下がると、莉央奈がそんなことを提案してきた。心なしか乗り気で前向きに。
「え、食べていいのこれ」
「逆に誰が食べるの?おばあちゃんが食べるってこと?そんなわけないよー」
「老人は甘い物なんて食べないって言いたいの?そんな、イメージで決め付けちゃダメだよ。むしろ私のおばあちゃんは甘い物食べる方だと思う。この間食べたアイスだって、前におばあちゃんと食べたことあるし」
「ケーキってアイスより甘ったるいから、中々ハードル高いよ?」
「だいたい冷静に考えて、1ピースだけ買ってくるなんてことあるかなぁ。どちらか一方が誕生日ってわけでもないし」
「あ、そーだよっ。お金なくて1ピースしか買えなかったから、1ピースを二人でひもじく半分にわけて、ってことなんじゃない?」
ぱんっと手を叩いて、いいこと思い付いた的な感じで。
「確かに、私たちが居付いて困窮してるって可能性もあるけど。莉央奈さんが食べたいだけじゃないの?」
「うっ、痛いところを突かれた。食べたい、だけです……。見たことないケーキだし……」
「じゃあ食べたら?莉央奈さんには、我慢しないでほしいから」
「えっ、ちょっと、自分だけ責任を逃れようとしてるよねっ」
「責任?いや、もし食べちゃいけないものだったら、ちゃんと謝るよ。身代わりになってもいい。私が食べましたって言うよ。莉央奈さんのためなら……」
「そ、それは違うじゃん。いいよ、半分こにしよ」
そう言って莉央奈は、冷蔵庫からケーキを取り出して、次に引き出しの中から包丁を取り出した。んむむむ……本当に食べていいんだろうか……。ノリに任せて悪いことをしている時の感触が拭えない。だけど、莉央奈がしたいことを優先すべきでもある。結局、私は莉央奈を選んだ。それは正論ではないけど、私のしたことが正しくあるためには、仕方がない。
「これでちょうど半分かな、いや少し右に寄りすぎかな。玉樹ちゃんはどう思う?玉樹ちゃん?」
「あっあぁ、大丈夫だと思うよ」
「あれ、今度は左に寄っちゃったかな」
「早くしないと温まって切りにくくなるよ」
「じゃあ切ります、切るよー、ほんとに切るよーっ!?」
「そんなに気になるなら、角の二等分線を作図したら?」
「んーっ、ここだーっ」
莉央奈は最後にもう一度、ケーキに顔を近付けて確認してから、意を決してショートケーキを一刀両断した。上にイチゴとかチョコレートとかが載っていないのもあって、綺麗に二つ薄っぺらいケーキができた。それとコップを持って居間に戻り、映画の続きを再生する。
「おぉ、すっごく甘い」
「甘い物が食べたかったから、ちょうど良かった」
「お気に召した?」
「まあ……そこそこかな。もっと美味しいケーキはあるよ。レクレルシ・シュル・オルレアンってとこの、イチゴのショートケーキが最高なんだー」
「そっか、ちょっと残念。莉央奈さんの好物が増えてほしかったから」
「まるで玉樹ちゃんが作ったみたいに落ち込むじゃん」
切ったケーキは、別々の皿に取り分けるのかと思ったらそうでもなく、そのまま双方向からそれぞれフォークで切り崩す感じで食べ進めていく。チョコレート味のスポンジ生地はともかく、ココナッツの風味が強めで、少し食べ慣れない独特な味わいだった。ただ、ケーキを食べることに集中していると、タブレットを見つめ続けるよりは眠気が和らいでくる。ダメ押しにこめかみでも刺激して、目を覚まさせる。
一方、莉央奈はフォークをくわえたまま、意外と熱心に映画を見ていた。ケーキはともかく、映画は気に入ってもらえたら、嬉し……今後も同じ方法で、目標達成を目指そうと思う。
「おー、めっちゃ燃えてるー。って、今の爆発、巻き込まれてないのかよ」
「映画だから、アクションシーンは原作より派手になってるね」
「さすがにCGなのかな。それとも実際に爆破してるのかな」
莉央奈って、こういう派手なアクションシーンが好きなのかなぁ。このシーンが始まってから、視線がタブレットに釘付けになっている気がする。今までの言動とも矛盾しないし、次はもっとアクション要素の強い作品を勧めてみようかな。
最初に出会った頃は、当たり前だけど莉央奈のことを何も知らなかったし、この先きちんと知ることができるとも正直思えなかった。当時は、莉央奈が自殺したがっている理由すら知らなかったんだから。だけど、同じ家で同じ時間を過ごして、同じことで無聊を慰めて同じものを見ていると、断片的にではあるけど、少しずつ莉央奈のことを知っていける。そんなペースじゃ夏が終わるまでに間に合わないのかもしれないけど、逆に間に合うかもしれないから、莉央奈を生かすためなら、何徹でもしてやろうと思った。
と、気炎を揚げられるのも束の間、ケーキを食べて血糖値が上がったからか、また眠くなってきた。コーヒーのおかわりをしたり、皿に残っているケーキの欠片を集めたり、息を止めたり、爪を立てて皮膚をつまんでみたり、ありとあらゆる方法で眠気と戦っていると、ようやく映画が終わった。
「えぇー、こんな終わり方なのー?」
そんな莉央奈の声で、なんかはっとなって意識が明瞭になる。授業が終わった途端に眠くなくなるような感じ。身体って理不尽だなぁといつも思う。
「うん。主人公たちは復讐を果たせたからね」
「復讐を果たせたって、全員死んじゃったけど」
「でも、マチェカの妹の殺害に関わった人も全員死んだよ?」
「そうだけど……。そうだから、いいのかな……」
と、莉央奈は愛想笑いを浮かべつつ、釈然としないと言わんばかりに小首を傾げた。途中までは調子よかったけど、主要人物が亡くなってしまうような作品は好みじゃないらしい。
「玉樹ちゃんはハッピーエンドだと思うの?」
「うん。みんな幸せそうな顔をして死んでったでしょ?まあ、ネットだと主人公が復讐しようなんて言い出さなければ死ななかったってことで、バッドエンド扱いする人も多いけど」
「ふーん、私には難しくてよく分かんないや」
微睡みの泥に潰されそうになっている記憶を漁ると、そう言えば莉央奈は中盤で主人公の幼馴染が命を落とした時は、特に何も反応してなかったっけ。となると、結末が一意に定まらない作品が苦手ってことなのかもしれない。いずれにせよ、また一つ莉央奈について知ることができた。
もう一本なにか見ようか、それとも疲れたから休憩するか話していると、廊下の方からどたどたと物音が聞こえてくる。おばあちゃんだけじゃなくて、志佐もいるっぽい。立ち上がって居間の扉を開ける。志佐は10 kgの米袋を抱えていた。
「おっおぉっ、たまっちゃんっ」
「大丈夫?手伝おうか?」
「いやいや、これくらい余裕余裕……」
世界の真の形を目の当たりにしたかのように、志佐の顔から血が引いて、10 kgの米が腕から滑り落ちてそのまま自由落下した。飛び跳ねて米袋を避ける。何とか間に合ったものの、危うく足を潰されるところだった。この間、膝に大怪我を負ったばかりなのに、また怪我したら世話ない。
「ちょっとシーサー、ちゃんと持ってよ」
「あ、あたしのケーキ……」
「え、ケーキ?」
志佐の光を失った瞳孔は、私を通り越して、居間の机の上に置きっぱなしの皿を捉えていた。
「あたしの誕生日ケーキがぁーっ!」
「シーサーって今日が誕生日なの?」
「そうに決まってるじゃんっ」
「かっ、勝手に食べたのは悪かった、ごめん。でも、知る由がなかったのも事実だし……。とりあえず、私が今から買ってくるよ」
前に莉央奈に何を質問するか話し合ったけど、ついでに志佐のことも聞いておけば良かった。まあその時は、莉央奈で頭がいっぱいだったので、覚えていられなかったかもしれないけど。しかしこう考えると、志佐のことって莉央奈以上に知らないかもしれない。私は志佐の家にすら行ったことないし、家族にも会ったことがない。一応、両親がいなくて、お母さんの姉夫婦に引き取られたって話は、いつの日かにしていたけど。
「あ、やっぱ食べちゃダメだった感じー?」
「うぅ、せっかくおばあちゃんが用意してくれたのに……」
「ごめんねシーサー。食べようって言い出したのは私だから、悪いのも私なんだけど……。いやー、なんか異様に美味しそうに見えて」
「楽しみにしてたのにーっ……」
志佐は莉央奈の胸元に突撃していった。なんかあやされている。私が庇うとか啖呵を切ったけど、理屈ではなく事実ベースで話すなら、私は比較的反対した方で、どちらかと言えばそちらの莉央奈の方がノリノリで食べようとしていたので、志佐が恨むべきなのは莉央奈だと思うけど……。とりあえず、近所の洋菓子店でケーキを買って埋め合わせようとした時、両手にエコバッグを提げたおばあちゃんが戻ってきた。
「あら、志佐ちゃんのケーキ食べちゃったん?」
「うん……。新しいの買ってくるよ。シーサー、誕生日なんでしょ?」
「あぁ、あぁ、それなら、はい、これで好きなの1ホール買ってきて。みんなで食べよう」
おばあちゃんはそう言って、財布から多めにお札を取り出した。
「3人で好きなの選んできな」
「え、いいの!?やったぁー!二人とも、早く行こうっ。あっ、せっかくだしあたしの誕生日だってことで、よっしーも呼ぼうかなっ」
志佐って心臓止まってからも、こんな感じで3回ぐらいリザレクションしそう。
そういうわけで、またおばあちゃんに助けられてしまったけど、ともかく3人でケーキを買いに出かけることになった。それで、そう言えば。
「シーサー、お誕生日おめでとう。まさかシーサーの誕生日を祝う日が来るとは」
「おめでとー」
「たまっちゃんとなっちこそー!」
真ん中の志佐が、私と莉央奈の肩をぐいっと引き寄せる。一体どういう意味なんだか。よく分かんないけど、より大きなケーキへの呼び水になったみたいなので良かったーと、莉央奈と顔を見合わせて、密かに目配せしてみたり笑い合ってみたりした。




