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理屈っぽい天使と堕天使のクリームダウン  作者: Ehrenfest Chan
第2話:風前のしあわせ
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2-8 夕焼けの特異点 ——ブルーモーメント

 昨晩に引き続き静かな2階の和室、自分の息の音がやけに際立って、心音も聞こえそうで。静謐な場所でゆっくりしたいって思ったこともあるけど、やっぱり私には向いていないらしい。そういう柄じゃない。悲しいこと、嫌なことで脳がフル回転してしまう。


 玉樹がいるだけでも、時々物音がして気が紛れるんだけど、これまた昨晩に引き続き、和室には不在だった。屋上……こんな暑い時間にいるわけないか。家の中を探し回ると、玉樹は居間にいた。畳の上に座布団を敷いて、机の上には参考書と筆記用具が置いてある。おぉー、勉強しているのかー。瞠目しながら、座布団を一枚取って隣に座った。


「数学の勉強?」

「うん。って、莉央奈さんも勉強した方がいいんじゃない?」

「えぇ、私は……」

「いやいや、来週にはみな等しく平等にテストだよ」


 玉樹にそう言われて、担任の先生がテストについて話している記憶が、急に蘇ってきた。……え?テスト?なんで家出先でも律儀に高校生やらなきゃいけないの?付け焼刃の知識や学歴を付けたところで、未来が好転するなんてことはないのに。今さら頑張ったところで、ずっと頑張ってきた人にはとうてい追い付けない。玉樹の勉強している様子を眺めるという勉強法ぐらいは試してもいいけど、自分の手を動かそうという気にはならなかった。


「私が教えてあげようか?教えるから、参考書と筆記用具持ってきて」


 膝を抱えてぼーっとしていたら、露悪的に言うならそう指図されたので、2階から勉強用具を一通り持ってきた。そう言えば、玉樹って進学校に通っていたんだっけ。莉央奈さん頭悪すぎー、来世に期待した方がいいんじゃなーい?とか言ってくれないかな。……玉樹がそんな幼稚なことを言うわけないか。玉樹はいい子なのである。絵に描いたような優等生。


 で、言われるがままに、玉樹の隣で参考書を開く。これがジャメヴか。何も分からない。一応、勉強に取り組んでみようとはしているけど、分かりそうな気配すらない。


「considerateとconsiderableってどう覚えればいいの?」

「え、何度も復習するとか?」

「take afterとかoverとかforとか紛らわしいよーっ」

「まあ……それも、頑張って覚えるしかない」


 で、教えてくれるって言われたけど、全部覚えろって指導された。玉樹は記憶力が良いから余裕かもしれないけどさ。だいたい、なるべく覚えなくていい方法を授けてくれるのが、教えるってことじゃないの?私の手と脳は早々に機能を停止し、玉樹が握っているシャーペンのペン先でも眺めた。


「私だって、別に余裕なわけじゃない。テスト前はこんな風に頑張って勉強してるんだから」

「それで成果を出せるんだから、安いもんだと思うけどなー」

「そうかな。代わりに、他の人のようにはできなくなるよ。平均点よりぎり上を狙うとか、一夜漬けでテスト範囲を復習するとかね。羨ましいというか、どうやってるんだろうって思う。方法が分からない」

「手の抜き方?方法なんてないよ。サボるだけ。こうやって教材を開きはするけど、それで満足してスマホをいじればできる」

「まあ、方法を言語化できないってことは、長年の勘がものを言う領域ってことなんだろうね。失敗を繰り返して、磨き上げていく能力なんだね」

「確かに、やらな過ぎると留年するし、絶妙な塩梅を頑張って探ってるって部分はあるかも」


 止まっているペン先を見ていても面白くないので、自然と目線が玉樹の方に移っていた。玉樹の視線も徐々にこっちにスライドして、私にと目が合う直前で帰っていった。


「って、喋ってる場合じゃない。テストまでもう時間ないんだし。そうだ、莉央奈さんは視覚優位じゃなくて聴覚優位なのかもしれないから、方法を変えよう。私が問題を出すから答えて」

「問題を出されても、何も分かんないよ」

「勉強しなきゃ、分かるようにはならないよ」


 そう言って、玉樹は私の開いている参考書を横から手に取って、問題を次々に出してきた。私の勉強に付き合う時間があるなら、自分の勉強を進めればいいのに。玉樹はいつもこうだ。私の表情の裏側なんて気にせず、正論に直行する。いつも同じ、いつも変わらない。これからもそうあり続けるだろう。誰も玉樹を説得できないだろうから。



 こんなに長い間、勉強をしたのはいつぶりだろうか。別に集中もしてなかったし、途中何度も雑談をしてしまった。まあでも、玉樹が付きっきりで出題してくれて、答えられないと鋭いような気がする双眸で見つめられるので、当社比で必死になって頭に詰め込んだ。さながら、鞭で打たれて走る馬のよう。


 私は机に突っ伏して、大きく息を吐き戻した。時刻は既に夕方5時を回っている。玉樹は玉樹で、壁に背中をくっつけて斜め上を仰ぎ見ている。疲弊しているようだった。一問一答だけじゃなくて、数学なんかも教えてもらった。まあ、数学に至っても、問題と解き方を暗記しろって言われたけど。つらかったー。


 で、玉樹に「気晴らしに散歩に行こう」と誘われた。ようやく勉強から解放されるーと、晴れ晴れしさが脳に身体に流れ込んでくる。今日頑張り過ぎて、反動で明日明後日明々後日ぐらいは何もできなそうである。一日だけ一念発起しても意味ないのにね。


 私たちの集中力が崩壊しつつあった終盤、外は夕立に見舞われていた。今はすっかり止んで、雲間から青白磁の色をした空が覗いている。雨が致死的な夏を洗い流してくれて、程よく涼しいそよ風が肌をくすぐる。空気も澄んでいるように感じられて、深呼吸がはかどる。見事な散歩日和、自然と足が前に運ばれていくような気さえする。凄くリフレッシュできたような口ぶりだけど、残念ながら今帰っても勉強を再開する気にはならないだろう。


「玉樹ちゃんは疲れてないの?」

「当然、疲れたよ。私だってこんな長時間、連続で勉強することは滅多にないし。莉央奈さんがいるから、余計に頑張らなきゃって思っちゃって」

「こんなに頑張ったのに、まだテスト範囲の半分しか終わってないなんて、おかしいよ、範囲広すぎるよー。私の小さい脳みそに入るわけない」

「脳の性能の本質は、何ペタバイト保存できるっていう容量の大きさじゃなくて、記憶や処理の方法にあるだろうから、たくさん繰り返せば覚えられると思うよ」

「もし仮にめっっちゃ勉強したら、私でもテストで満点取れるって、本気でそう思う?」

「めっっっちゃ勉強したら、可能性はあるよ。同時に人間はミスする生き物だから、100%には決してならないけど。私は、自分が莉央奈さんより優れてるとも劣ってるとも思わない。だから、大丈夫。今は私も昼夜問わずいるんだし、一緒に頑張ろう、よ……ね」


 玉樹は最後の方で少し言い淀んだ。顔を赤らめるほどではないけど、恥ずかしそうに、きまりが悪そうに、何だかへらへらして目線を逸らして。だからこそ、玉樹は天使みたいな超常現象ではなく至って普通の高校生だし、その期待は人の血が通った本物の期待になる。


 で、期待するようなことを言われる度に、胸が苦しくなる。いつまで期待するんだろう。玉樹は恋よりも盲目に私の可能性を信じている気がする。その事実をきちんと受け止められなくて、期待するほど普通でもなくて、ただ本能のままに街を漂うことしかできないのに。


「もし仮にめっっっっちゃ勉強できないから、ただの絵空事だけどね。私はいつも、楽な方、簡単な方、好きなものがある方に逃げちゃう」

「きょ、今日はもう、勉強の話は辞めよう。ここで話しても、何も身に付かないから。そうだ、ねぇ、莉央奈さんは、こっちでの生活には慣れた?」

「んー、それなりには」


 最初は低音で少し不気味に思えた鳥の鳴き声も、コンクリート造りの建物群も、少しずつ日常に溶けていく。惰性の景色になっていく。ここにいても私の性格は何も変わらないから、自分が生きるに値する存在になれるわけではないけど、何も考えなくていいし、何にも能動的にならなくていいし、誰も傷付けなくて済むし、誰にも否定されなくて済むし、このまま惰性に流されて、秋も冬も日常に溶けていきそうだった。まあ、今はそういう気分というだけで、私の感情は希死念慮と惰性がマーブル模様を描いていて、結局のところ何も変わっていない。


「そういう玉樹ちゃんはどうなの?」

「夏休みに来る場所ってイメージが拭い切れなくて、まだ特別感がある」

「なるほどねー。夏休みに行く場所……昔はよく軽井沢とか行ったなー」

「おばあちゃんの家があるの?」

「いやいや、別荘があってね」

「お、いいなー別荘」

「まあ、行って何かするわけでもないんだけどね。別荘になんもないし。正直、暇だった」

「何もしないことが贅沢なんじゃない」

「私には耐えられなかった」


 そんな話をしていると、入り組んだ住宅街を抜けて広い県道に出た。私がうずくまったのもこの辺……だったはず。確証はない。


「玉樹ちゃんって、この辺りの土地勘あるよね」

「シーサーとよく探検してたから」

「いいねー探検」

「良くないよ。虫に刺される」


 と、玉樹は冗談交じりに、私の適当な返事をあしらってきた。しかし確かにそれは致命的。私も気を付けなくては。


 自我を持ったところで特に意味がないので、へらへらしながら雑な談をしつつ、無意識に玉樹の後を付いて行く。しばらくすると玉樹は「着いた」と言って、目の前の石段を上り始めた。どうやら目的地があったらしい。まあ、玉樹は散歩に目的地を設定しそうな感じがするので、解釈一致である。あてもなく彷徨う、みたいな曖昧なことは嫌いそうだ。


 石段の先には野球ができる……のかは知らないけど、そこそこ広い芝生の高台が広がっていた。無人だけど、最近手入れされたのか、芝が短く切り揃えられている。高台の奥へ進むと、眼下に海と海岸線沿いに連なる町が広がった。高校への通学路でも見たなーという気持ちと、玉樹らしいなーという気持ちが交互に押し寄せる。玉樹って、こういうのが好きだよね。星がよく見える坂とか、水族館とか。まーそれってつまり、普通ってこと。普通、普通なのかなぁ。


 青い海に白い建物、隙間を埋めるように生い茂る緑色の木々、海も手前は空に近い色をしているけど、遠くの方は青黒くて暗くて冷酷な威容をたたえている。それより足元の方が気になってしまったけど。


「教科書とかノートとか、近くばかりを見てたから、遠くを見て毛様体筋の緊張をほどかないと」


 海から温くて湿っぽい風が優しく吹いて、大げさな葉擦れの音が辺り一帯に溢れる。おくれ毛が耳から滑り落ちて頬をくすぐる。まだ空には雲がたくさん浮かんでいて、じっとしていると蒸し暑くて、100%の快豁ではないけど、せっかく玉樹がとっておきの場所に連れて行ってくれたんだから、悪くないなって思うことにした。


「それに、自分の知ってるいいスポットは、全部莉央奈さんに教えるべきだと思って。私の持ってるもの、使えるもの、全部活用しないとね。それだけじゃ、足りないのかもしれないけど……」


 何だか、こちらの様子をうかがうように、横を向いてきた。私もどちらかと言えば海より玉樹を見ていたので、忽然と目が合う。玉樹のいつものカーディガンが風で揺れる。目を伏せて逸らして、少しだけ瞼を降ろして。


「これはただの疑問なんだけど、どうしてそんなに頑張るの?何か、見返りでも期待してるの?」

「み、見返りなんていらないっ」


 停滞を切り裂くような鋭い剣幕で否定された。何度も何度も同じようなことを聞くから、そろそろ鬱陶しくなったのかな。そうであってくれたら、ちょっと寂しいけど。


「莉央奈さんは、私のことなんて気にしないで、ただ冷静に、生きるか死ぬかを選べばいいから」

「じゃあ、死ぬよ?」

「それは……あの、まだでしょ?」


 どうせそう言うなら、生きていてほしいぐらいはっきり引き止めればいいのに。そこで自主性を重んじてくるのはなぜなんだ。


「ぶっちゃけ、私のことどう思ってる?キモくて育ちも悪いメンヘラ女だって思わない?」

「莉央奈さんがどういう人だって、私がすることは変わらないけど。あえて印象を言うなら、普通、かな。もっと感じ悪い人はごまんといるよ、会ったことないから、憶測だけど」

「金銭感覚がバグってても?」

「だから、楽しみが何もない人よりはよっぽどマシだって」


 私には玉樹がよく分からない。その現実的な瞳は何を見ていて、その堅牢な理屈は何を包むために紡がれていて、その破滅的な約束はなんのために守っているのか、向こうはこっちのことをある程度知り始めているようだけど、私は一向に玉樹を理解できる気がしない。でも一つ確かなのは、きっと玉樹は変わらない。誰かに理解されなくても、拒絶されても、もっと醜悪な一面が見え隠れするようになっても変わらない。それだけは確信できる。


「玉樹ちゃんってさ、尽くすタイプでしょ」

「え?そうなの?」

「恋人にお金貸してーって言われたら、ぽんぽん貸しちゃうんじゃない?」

「んん……返済計画は軽く聞くかな」

「あ、そういう感じ?」

「やっぱり、お金に困ってるの?莉央奈さんになら、いくらでも貸すよ」

「いやっ、そこまではしなくていいからっ」


 玉樹にとって私は一体なんなんだっ。少なくとも恋人を超越した存在らしい。素直に喜べばいいのかなぁ。

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