2-7 曖昧な確実
少し硬くて、なんとなく素っ気ない感じがする布団の上。寝返りを打って未知の領域に身体を動かすと、少しひんやりしていて、洗剤の香りが鼻腔に、これまたぶっきらぼうに覆い被さる。しばらくすると布団の未知の領域は、また私の熱を吸い込んで、元は私の持っていた温もりなのに、まるで自分の手柄のように私の半分を包み込んでいた。
さっきまで、頭がかち割れそうなほど痛かったが、今はだいぶ落ち着いた。海馬の奥がひび割れたようにずきずき痛む気がするけど、そのうち治るだろう。
結局、道端で馬鹿みたいに泣きじゃくり出してから、どうやって帰ってきたのか、ほとんど覚えていない。多分、熱中症になったんだろう。空はいつも当てつけのように青くて、底抜けに眩しい光で突き刺してくる。それなのに歩道の真ん中でうずくまっていたんだから、当然の結果である。それで、ふらふらになりながら辛うじて帰ってきて、そのまま布団に直行、倒れ込んだ、大方そんな感じだろう。現に今もうつ伏せになっている。目が覚めたのも胸の圧迫感のせいだし。
私たちが普段、寝室として使っている2階の和室、つまりこの部屋の窓からは、既に暗い紺色の光が差し込むようになっていた。もうこんな時間かと、どろどろと空気を肺から大きく吐き出しつつ、ゆっくりと布団の上で身体を起こす。
「莉央奈さんも起きたんだ」
なんだか耳に馴染む声で名前を呼ばれた。薄暗い中でも特に迷うことなく、声のした方向に視線を向けられた。それもそのはず、私と玉樹の布団は部屋の真ん中に、二つくっついて置かれているからである。玉樹のおばあちゃんが毎度そう敷いていて、最初は距離を離したりしていたけど、だんだん面倒になってきて、今はそのまま寝ている。
「今、何時……?」
「6時半、ざっと3時間ぐらい寝てたらしい」
「これは……夜は眠れないかも」
「そろそろご飯だろうから。お風呂、入ってきなよ」
そう言って、玉樹は紐を引っ張って部屋の照明を付けた。私のお風呂が長いって分かっているのに、いつも先を譲ってくれる。そういう善意を、断るのも失礼だからとか、譲り合いの押し問答をするのは非効率だからとか、適当な言い訳を付けて受け入れる自分が嫌いだ。そしてそのうち、まるで当たり前のように受け取ってしまう自分がもっと嫌いだ。ずるいと思う。
要するに、私は今日も懲りずに長々と入浴した。まるで夢でも見ているかのように、記憶の断片が湯気の中で再生される。そのまま寝落ちして、幸せな夢を見ながら息絶えられたら、私としては理想なんだけど、さっき寝たばっかりだし、浴槽が古くて角張っていて、あまり寝心地が良くない。それに足を延ばせないし。仕方ないので、足をくの字に曲げつつ、前でクロスさせる形でいつも入っている。
少し頭が冴えているような気がするけど、かと言って元々覚えていない記憶が蘇ることはなく。唯一、私がうずくまっている間、玉樹はずっと傍にいて、それだけは割とはっきり覚えていた。時々、指の隙間から視線を溢して、何度も確認したから、いや、していたから。同時に玉樹は、いつもの調子で色々言い募っていたけど、それは全く覚えていない。ただ隣に居て、たまに背中をさすってくれたりして、家に帰るまで、家に帰ってからもずっと近くにいて、それだけの記憶、私を見捨てないでいてくれたという証拠。
そんな玉樹に対して私の口から出た言葉は、拒絶に否定、逆恨みに自己憐憫と、自分でも驚くほど醜かった。いやまあ、それが私の本質で本性で本懐なのだから、穢れていて薄気味悪くて当然か。それに、これで良かった。私が死にたい理由とか、私がいかに間違った存在であるかとか、曖昧にせず、ありありと玉樹に伝えることができたんだから。もし万が一、本当の私を知って、それでもなお玉樹が私を見捨てないのなら、本当に一緒に沈んでいくのかなと思ったりもする……他人を試して、評価するなんて、私はどこまでも最低だ。手に溜めていたぬるま湯を、顔にばしゃりとぶつけた。
お風呂に入ってご飯も食べて、それから2階の和室に戻る。部屋の奥側、つまり私の領域には山ほどの紙袋が乱雑に置かれている。どうやって持って帰って来たんだろう。4人ならともかく二人で?まあいいや、早く整理しないと。紙袋の塊の横に座って、どう活かそうか想像を膨らませながら開封作業を進める。
きっと、上手くいってしまう。そして同時に、反動で途方もない虚しさを想像する。というか既に片鱗を感じている。こんなに買って、何になるって言うのさ。それに、恐らく私は夏が終わるまで死ねないけど、いくら家にお金を入れなくていいとは言え、この勢いで浪費していたら夏まで貯金がもつのか怪しい。ここに居たら、玉樹と居たら、収入なんて見込めないし。身体から酸素がなくなるぐらいの、深刻で大きな溜息が零れる。幸せなんて、玉樹が作り出した都合のいい妄想なんじゃないか。
玉樹が急にこの部屋に戻ってきたら怖いので、独り言をぐっとこらえて黙々と作業を続けていると、志佐から電話がかかってきた。ちょうど曲でも聞こうか迷っていたので、特に迷いなくスマホを手に取った。
「おぉ、やっと出たー」
「やっとって……。ほんとだ、なんかめちゃくちゃ不在着信が来てる」
家に着いてから電話をかけてきたんだろうか。あいにく私たちは二人とも寝ていて、気付くはずもなく。
「どうしたの?」
「どうもしてないけど……」
「暇だから話したい的な?」
「そう、まさにそれっ。なんかもったいない気がするからっ」
「もったいない?何が」
「せっかく楽しかったのに、ばいばーいって別れてそれでおしまいなんてさ。まるで、今日のゲームは終わりって、セーブする前にゲーム機の電源を親が切ってくるみたいな感じがしない?」
「んー、たとえの方はよく分かんない」
「えぇーZ世代ぃー。今の子はゲームと言ったらスマホゲーだもんねー」
「私たちってZ世代なの?」
「さあ、知らん。それよりぃーっ……」
志佐の声は電子の海をくぐり抜けて、その上で再構成されたとしても、天真爛漫さは失われることなくとても明るい。私もそういうキャラだったらなーと、ふと思う。
「というか、たまっちゃんは何してんの?なっちに電話する前にかけたんだけど、出てくれなくて」
「そう言えば、この部屋にも居ないね。何してんだろう?」
私も気になったので、スマホを水平に持ったまま和室を出た。トイレは電気ついてないし、2階の他の部屋にいる理由がないし、もちろん1階にもいなかった。だとしたら、屋上しかないか。2階のベランダみたいになっている場所で、備え付けてあるぼろぼろのサンダルを履き、塗装がぱりぱりに割れている外階段を上って、屋上に至る。
今日の屋上は完全な静謐、ではなく、絶えず夜風が吹きすさんで、風が切る音が耳元で騒擾している。でもそれがかえって寂寥感を募らせる。
玉樹は屋上の真ん中で、白の典型的なガーデンチェアに座っていた。庇の下で逆さまにされて放置してあった、年季の入った代物だ。
「莉央奈さん……?」
近くまで寄ると、気配で察したのか、いや違うな、スマホのスピーカーから流れる、このやかましい志佐の声で玉樹が階段の方へ振り返る。
「たまっちゃんいたー!?」
「うん、いた」
「うぉーっ、たまっちゃぁー……」
それで、手が滑ったかもしれないせいで、通話終了のボタンを押していた。そもそも、玉樹が志佐と話したければ、自分のスマホで応じればいいわけで。それをしなかったという事は、今は志佐と話したくないんだろう。無論、私とも。後ずさり、というか部屋に戻ろうとすると、玉樹は椅子から立ち上がって、こちらに目線を合わせてきた。
「座る?」
「玉樹ちゃんが座ってたんでしょ」
「結構いいよ」
座ろうかとも思ったけど、さっき風呂で散々感傷に浸ったので、私も椅子の隣に立った。
「星でも見てたの?」
「今日は雲が多いから、天体観測には向かないよ」
玉樹の視線の動きに合わせて、私も夜空を一瞥した。確かに灰色の雲がたなびいている。できれば大空にはそれを昼にやってほしかった。
「じゃあ何をしてたの?」
「んん……考えごと」
「それって、私のせい……だよね。急に泣き出して、しかも救う価値がないことが露呈したから。こんなどうしようもない人間だったなんて……」
「違うっ。莉央奈さんが自殺したい理由とか、このまま曖昧にしておいて、致命的なすれ違いが起こるよりは良かった」
玉樹はそこから先は少し声を潜めて。
「でも、分からない、どうすれば良かったんだろうって。もっといい慰め方、あったのかな」
もっといい慰め方って、そんなの、一つしかないよ。でも、玉樹とするわけにはいかない。じゃあ、玉樹が取った行動は最適解だったんじゃないの?朧げな記憶の中でも、それなりに覚えている。玉樹はずっと傍にいてくれて、不器用に背中をさすってくれて、今だって盲目的なほど私のことを考えてくれて、それは私に向けられるには不釣り合いで、あまりにも役不足な救済。思えば、右を向けば大抵は玉樹がいる。いなかったのなんて、この間の昼休みぐらいだった。
心の奥底で沸き立つ感情があった。熱帯夜よりも温かくて、さらさらしていて、とても単純な構造をしている。だけど、それを認めてしまったら、私の理想も願望も贖罪も逃避も追憶も叶わなくなる気がした。自分が矛盾でばらばらに砕けてしまう気がした。そうなるぐらいなら早く死んで、何も感じなくなりたいって思うことにした。
とか、私の脳内で色々な思考がスクランブルしていると、玉樹がまたいつものように理屈っぽく説明し始めた。私よりも頭の回転が速いので当然なんだけど、機先を制されたような気分になる。
「私は莉央奈さんが抱えている問題への解決策というか、誤解や思い込みを解くことに躍起になったけど。涙という感情の発作を抑えることには繋がらないよね。慰めるのをいつも他人に頼っていたツケが回ってきた感じ。餅は餅屋にとか、慰められる人が信頼してる人が慰めるべきとか言ってさ。あぁ、それと忘れちゃいけないのが、ゴミを持って帰らないよう水を飲み干しちゃったことだね。そのせいで熱中症になりかけて……」
別に、言わなくたって何も変わらないだろう。でも、やっぱり曖昧なままにしておくのは、なんだか罪の意識がある。特に玉樹に対しては、玉樹がそういう性格だから。ほら、今だって分からなくて苦しんでいるのかもしれない。そう思ったら、自然と……全く流暢ではなく、人生で最もぎこちない感謝、まるで歯ぎしりしながら発声しているかのような感じになった。
「あ、あ、あっありがとうっ」
心臓が激しく鼓動する。顔というか頭が熱い。自分を裏切ったから……?
「どう、いたしまして……?」
そりゃあ、何に?と聞きたくもなる。というか、当の本人が何に感謝しているのか、あまり理解していない。解釈によっては、私の自殺を止めたことも含まれそうだった。まあ、一番近いのは、急にうずくまって、一人で勝手にめそめそ泣いている私を、変わらず見捨てないでいてくれたことだろう。ただそれだけのことで……嬉しくなってしまった。しょうもない。
空気が熱くて冷たくなる。後ろで人差し指をくるくるさせたり、引っ張ってみたり、落ち着かなさを指先に逃がそうと試みる。正面に身体の向きを戻して、斜め上を振り仰いで、玉樹から目を逸らして、でもやっぱり気になって、玉樹の横顔を覗いてみる。玉樹は夜影の中で俯いていて、しばらくしてから険しい表情を緩めて、少し顔を綻ばせて。
「間違ってるわけじゃ、ないんだね」
「間違ってるのは、私の方だと思うよ」
「人の感情に正解はないけど、約束は守ることが正解だから。まあ、だから、その考えは間違ってるよ?」
人の感情や感性、生き方、趣味趣向には正解があると思う。一つに定まるわけじゃないけど、正解の範囲はあるはず。正解から逸脱したら犯罪ってわけじゃないけど、そういう人間は往々にして幸せにはなれない。しょうがないね。
玉樹は無限の思索の迷宮から脱出したかのように、気分良さそうに腕を上に延ばして、伸びをしてから屋内に戻ろうとする。そう言えば、まだ開封作業の途中だし、志佐の電話をなんとなく雰囲気で切ってしまったのでかけ直さないといけないし、私も玉樹の後を付けて、和室に戻ることにした。




