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理屈っぽい天使と堕天使のクリームダウン  作者: Ehrenfest Chan
第2話:風前のしあわせ
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13/16

2-6 欲望フルスイング

 というわけでライカムに来た。田舎にはイオンしか遊ぶ場所がないというけど、まあまあティアの高いイオンが徒歩10分という点では、この辺の人は恵まれているのかもしれない。私の実家でさえ、渋谷へ行くにしても新宿に行くにしても徒歩30分ぐらいかかるし、繁華街は人が多くて進まないし、治安がとても悪い。それに比べればここは、人もそんなに多くないし、そりゃあ店やイベントの数では劣るんだろうけど、そこまで街に繰り出すことにこだわりのない私からすれば十分である。足るを知る、それこそ幸せ、と過去の偉い人が言っていた。


 なんか知らないけど、広々とした吹き抜け部分の1階には水族館みたいな水槽があって、ターコイズブルーの中を色とりどりの熱帯魚が鷹揚に泳いでいる。ナンヨウハギ、キンギョハナダイ、タカサゴ、一つ一つの魚と名前を、脳内で結び付ける。やっぱり私は、魚自体が好きなんじゃなくて、自分の持っている知識と水槽の中が結び付くのが好きなんだということを再確認する。


「やっぱりたまっちゃんは魚が好きだなぁっ」


 水槽のすぐ近くまで寄って、ほとんど姿勢を変えずに、傍から見れば恐らく夢中で、角張った海を泳ぐ魚たちを眺めていると、後ろから志佐が肩に腕を回して、体重を少し載せてきた。だから、魚が好きなわけじゃないんだって。どうしたら理解されるだろう。美味しそうとでも呟いてみようかな。


「玉樹ちゃんはここの魚もわかるの?」

「もちろん。こっちも毎年来てるから。何度も見てれば覚えるよね」

「何度プリントや教科書を見ても、歴史上人物の名前が覚えられない私は一体……」

「てかなっち、もうなんか飲んでるーっ、ずるいーっ」


 志佐は私から離れたかと思えば、莉央奈の頬をつついていた。


「シーサーが遅刻してくるからー」

「だって、よっしーが起こしてくれなかったんだもん!電話してって言ったのに!」

「何度も言うけど、私はその約束、一度も請け負ったことないのに、なんで勝手にあてにしてるの?それに、夜中に電話をかける暇があるなら、さっさと寝ればよかったじゃない」

「そんな冷たいこと言わないでよぉ……。寂しかったんだもーん……。というか、なっちは出てくれたよ!?」


 真夜中の丘に3人そろったあの後、家に帰ってから志佐から電話がかかってきたのだった。電話越しだと寂しそうって感じはしなかったけど、内心どう思っているのかは分からない。莉央奈の希死念慮をどう解けばいいのか、少ししか馴染みのないこの場所で懊悩していたところに、志佐が近くにいて協力してくれるように、志佐は志佐で、気を許せる友人がもっと欲しくて寂しさを覚えていたところに、私と莉央奈が現れて仲良くなれて、心が僅かに軽くなっている、のかもしれない。


「私は基本的に家では通話できないから。何度も言ってるのに」

「あの、今日は莉央奈さんの行きたい店に行くのが主題だから。シーサーが来たなら、もう行こうよ」

「だなー。ここで喋ってても生産性ないし」

「これからするのは、生産と真逆の消費行動でしょ」

「どうでもよくねー。で、最初はどこ行くー?」


 一緒に生活していると、あれがないこれがないと、頻繁に困っているのが目に入る。東京にいた頃に比べて、明らかに莉央奈のQoLが下がっている。これはまずい。ということを昨日の昼休みに志佐に話したら、自然とライカムに行こうという話になった。ついでに、ショッピングを通じて心が晴れやかになってくれたらいいな、とも目論んでいる。要は、今回のお出かけは莉央奈のためで、まあそもそも今の私は莉央奈のためにあるようなものだし、全部莉央奈のためだし、せいぜい頑張って盛り上げなくては。


「一口飲む?」


 莉央奈の行きたい店へ向かっている途中、半分ぐらい飲んだ桃のフラペチーノを差し出された。「あっあぁじゃあ」と煮え切らない返事で容器を受け取る。


「でも、ストローに口つけちゃって大丈夫?」

「気になるなら拭こうか?」

「いや、別にいいんだけどっ。莉央奈さんってあんまりこういうの、気にしないよなーって。一緒に生活してて、結構そう思う時があるから」

「こういうの?」

「一緒にお風呂に入ることになったり、歯ブラシを間違えたりしてもさ、莉央奈さんって恬然としてるよね。ただの個人の気質の違いなんだろうけど」

「嫌だった……?」

「違う違うっ。ただ確認しただけ」


 してどうなるものでも無いけど。とりあえず、莉央奈から受け取ったフラペチーノを一口飲んだ。桃の爽やかな香りとホイップクリームの濃厚な甘みが混ざり合って、思いがけず頬が緩んだような気がするぐらいには美味しかった。味に影響が出ないんだから、気にしたって仕方ないか。そう自分で勝手に納得して、容器を莉央奈に返そうとすると。


「ちょっとちょっと、あたしにも一口ちょーだいよー!」


 まあ、こうなるよね。まだあげるって言われてないのに、志佐は既に私と莉央奈の間に割り込んで、フラペチーノを掴んでいた。莉央奈が苦笑を浮かべながら「どうぞー」と手を離すと、自分の方にばっと手繰り寄せて、無邪気に一口どころではない量を飲み、挙句の果てにストローを噛んで返すのだった。ぷはー、じゃないのよ。でもやっぱり、莉央奈は至って普通で、むしろ笑ってさえいた。一緒になって、自分の肩の力が抜けていくのを感じた。



「んー、このダスティピンクのシアーシャツと、デニムのスカートはとりあえず買うでしょ。あとは……」


 莉央奈の最初の目的地は服屋さんだった。特売中のスーパーにでも来たみたいに、どんどんカートにシャツとかスカートを入れていく。白い壁に明るい照明という店内なので、スーパーと間違えているのかもしれない。


「おー、気前いいねー」

「いや、一通り買わないと、着る物がないという切実な問題が。今も制服だし」

「私服ならいくらでも貸すのに」

「えぇー、玉樹ちゃんの私服、なんか、その、うん、雑」

「雑」

「ざつー……だねー。ダサいとか野暮ったいとかではなく」


 目線をそのまま落として、Tシャツを手でつまんでみる。確かに無地で飾りっ気はないけれど、涼しいし似合う似合わないの土俵から降りられるし、良いことずくめなのに。


「迷いもないしさー。似合うかなぁとか考えないの?」

「迷ってはいるんだよ。でも、迷ったら両方買っちゃえ、的な、フィーバータイム中」

「ショッピングって、迷った過程もこみで楽しいものだと思うけど」

「ずっと迷ってると疲れるじゃん。だいたい、全部買えるに越したことはない」

「そうだ!だったら、試着してみてよー。あたしたちで選んだげるっ」


 という志佐の提案により、莉央奈を使ったファッションショーが始まった。


「2着目!」

「1着目ね。黒は一般に収縮色として刷り込まれているから、多くの人が勝手にスリムだと解釈してくれるでしょう」

「え、じゃあ1着目」

「黒だと夏は熱を吸収して暑いだろうから、2着目の白い方。ファッションは自己表現だから、可愛さとか魅せたいように見せるのも大事だけど、我慢して着る服って、そのうち嫌になって着なくなるよね。あと、今ネットで検索したけど、どちらの色合いもヒットしたから、前例を鑑みるとどっちも似合うはず。だとしたら莉央奈さんが不快にならずに、長く着続けられる白がいいと思う」

「え、じゃあ2着目」

「ちょっと、はっきりしてよー」


「2着目!」

「1着目ね。夏だからって腹出すと冷えるでしょ。どうせ1日に20時間ぐらいは冷房の効いた屋内にいるんだから」

「え、じゃあ1着目」

「2着目かなぁ。1着目や今カートに入ってる服と系統を変えたものを出してきたってことは、莉央奈さんがそれだけ多様なファッションを楽しみたいと内心考えてることの表れで、だったらその意思を尊重した方が、将来的な幸福度が高いだろうから」

「え、じゃあ2着目」

「あのー、シーサーがころころ意見を変えるせいで全く意味ないんですけどっ」

「えぇー、だってどっちも似合うし~」

「自分で選ぶって言い張ったんだから、飽きずに最後まで付き合ってあげるのが筋でしょ」

「飽きたわけじゃないよっ。正直なっちに似合わない服なんて、ないない」

「あーもう、全部買いますぅー。最初はその気だったし」


 この感じだと莉央奈は楽しめているみたいだし、無事に今回のお出かけの目的は果たせそうである。恐らく、この丸くて柔らかくて年相応な表情こそが本来の莉央奈で、これからもきっとこんな風に生きてくれるんだろうと、淡い期待が芽生えてきた。淑乃の横に立って、胸の内でこっそり一息ついていると、志佐の興味が翻ってこっちに向いてきた。


「たまっちゃんは何も買わないの?」

「今日は莉央奈さんの買い物がメインだから……」

「私がいい感じに選んであげるから、玉樹ちゃんもなんか買おうよー。ここに来る前、おばあちゃんからお小遣いもらったらしいじゃん」

「あたしもたまっちゃんに似合う服さがすー」

「付和雷同で曲学阿世のシーサーの意見は別に……」

「たまっちゃんのくせに生意気なぁーっ」


 ほっぺたをもちもちされた。やっぱり志佐は昔から変わらないなーと思ったり。


 そういうわけで、莉央奈とおまけで志佐が、私に似合う服を探してくれることになった。わざわざ色んな店を回ってまで。


「玉樹ちゃん、脚を出すことには抵抗がないみたいだから、こーいうスカートとか……」

「今、楽しい?あの、私なんかに似合う服を探すのって」

「んー、楽しいというか、責任重大というか。雑とか言った矢先、生半可なものを出せないでしょ?」

「莉央奈さんが乗り気ならいいんだけど」

「まあまあ、気にせず期待して待っててよ」


 そう言って、莉央奈は一度こちらの目を見て微笑んでから、隣のハンガーラックに移動していった。気にせず期待して待ってて、か、その言葉を普段から使ってくれるといいんだけど。


 数十分後、ほぼほぼ莉央奈が単独で選んでくれた服に着替える。志佐は5分もしないうちに飽きて、ゲームセンターで遊び始めていた。


「おぉ!たまっちゃんらしからぬ、たまっちゃんだぁー」


 ゲーセンから戻ってきた志佐が、よく分からないことを言いながら鏡の半分を占拠してくる。しかし、たまっちゃんらしからないというのは事実で。ピンク色のふぁっさふぁっさした膝上丈のスカートに、カスタード色をした透かし編みのサマーニットと、私が選んだ前例のない装いに仕上がっている。


「どう?満足していただけたかな?」

「えぇーっと、はい……」

「もしかして攻め過ぎた?」

「分かんない。莉央奈さんはどう思う?」

「え?似合ってるよ。当然」

「じゃあ、似合ってるんじゃないかな」

「何それ、やっぱり不満?」

「いやっ、ほんとに似合ってると思ってるからっ、嘘じゃないからっ」

「そう……?まるで私に気を遣ってるみたいな言い方したから」

「似合ってるかどうかって、自分が他人が今まで蓄積してきたコーディネートに、どれだけ近いかって言い換えられて、私にはあんまり蓄積がないから。近いかどうか判断できないってだけ」


 スカートをつまんで揺らしてみたり、身体を捻ってみたりして、角度を変えた姿や後ろ姿も鏡でしきりに確認していた。肌に触れる布の感触が、別に痛くも痒くも抱擁感があるわけでもないのにこそばゆい。多分、慣れてない服の袖に腕を通すこと自体に慣れていない。何はともあれ、いつもと違うことをする、それ自体が強い意味をアピールすることなわけで、つまり、もう二度と着ないだろうなーと思った。


「たまっちゃん?どうしたの?もう行くよー」

「あ、分かった。うん」


 で、お会計。レジ横の液晶には、私の分が含まれているとは言え、それはもう、予想していたよりも一桁多い数字が躍っていた。おばあちゃんから貰ったお小遣いの2倍……。横にいる莉央奈だけでなく、なんとなく周囲も見回してしまう。こんな金額で動揺していたら、マカオに行ったら失神しちゃうよ、私。


「こっ、これって……」

「お小遣い足りなかった?いいよ、私が出すから」

「いやむしろ、お小遣い全部出して、半分払いたいぐらいというか。だって、航空券代もホテル代もまだ返せてないし」

「あぁ、そう言えばそんなこともあったっけ。すっかり忘れてた」


 莉央奈は私も値段も気にせずQRコード決済していた。レジのディスプレイが「ありがとうございました」に切り替わる。現金派じゃないのか。羽田空港で札束をしゃらーんと見せてきたのは何だったんだろう?自慢?


 結局、自分の服とサンダルの分だけ、あとで莉央奈に渡すことになった。その後も莉央奈は服だけでなく、靴やらヘアアイロンやらをとにかく買い込んでいく。必要なのは分かるけど、その無尽蔵のお金は一体どこから出ているんだろうか、ふと疑問が浮かんでくる。このまま野放図に買い物させていいんだろうか。でもそれが、証明されるまでもなく莉央奈の幸せの一つなのだから、何も口を挟まないことにした。



「ふぅー……。いやぁー、いい買い物をしたな~」


 志佐はどさーと滑り込むように大胆に、真っ赤な長椅子に座った。淑乃にもっと奥行けと、足を軽く蹴飛ばされている。


「シーサーはそのステッカーしか買ってないよね」

「いいでしょー、ジンベエザメー」


 さっそくスマホに挟んだステッカーを、にかーと笑いながら見せびらかしてきた。色んな版権キャラや写真が飾られて、ごちゃごちゃした混沌としたスマホになっている。目がちかちかする。


 ここら辺で買い物は切り上げて、一階にあるアイス屋さんで休憩することになった。莉央奈はまだまだ行こうと思っていた店があるらしいが、さすがに歩き疲れたのでまた今度ということで。


 舌の上でアイスがふわりと溶ける。んんーっ、濃厚かつ軽い口当たりのバニラが、疲労感を紛らわせ思考を甘く痺れさせる。バニラアイスと一緒に混ざっているちんすこうがいいアクセントになって、次の一口に進みたくさせる。これを食べている時だけ働く回路が、脳内にできているような気さえした。


「にしても、めっちゃ買ったよなー」


 私と莉央奈の足元は大量の紙袋で包囲されていて、足を自由に動かせなくて窮屈だった。その荷物持ちをさせていただいたから、余計に疲弊しているのかもしれない。なんか肩とか腕とかが痛い。アイスは麻酔ではないので、身体の痛みまでは紛らわせない。と、今度は、バニラアイスの中に幸運にも入っていた、大きいチョコクッキーの欠片を噛みこなしながら、ちょっと肩を持ち上げてみたり、控えめに動かしてみたりするのだった。


「まあ、実質新生活みたいなものだから」


 大量の紙袋を擁護してみる。


「そうだねー。実家から何も持ってこない新生活って中々ないと思うけど。あっシーサー、鼻の頭にチョコミント付いてるよー」

「あぁ、まじー?」


 莉央奈は腕を伸ばし、紙ナプキンで志佐の鼻を拭いてあげていた。わざわざ机の反対側まで乗り出してまで拭いてあげなくても、紙ナプキンを渡すだけで良かったのでは。とは言え、他人の善意を否定すると、これまた社会が回らなくなってしまうので、気にしないでおくことにした。


「お礼に一口どうぞー。いや、二つとも食べたいか。二口どうぞ」

「どうもー。ちなみにこれ下は何なの?」

「なんかチョコとかキャラメル味で、クッキーが入ってる」

「まあいいや、いただきまーす」

「……美味しい?」

「んんー、ぼちぼち」

「莉央奈さん、私のもいる?」

「じゃー私のもどうぞー」

「あ、今回は同じ二口でいいよ。値段同じだからね」

「そう言えば、そんなこともあったっけ」

「たまっちゃん細かっ。難しいこと考えず、寛容に生きようよっ」

「というか、それなら桃のフラペチーノを一口飲んだ分も加味するのが筋なんじゃない」

「よっしー話をややこしくしないのっ」


 よく考えたら、航空券代とホテル代を借金しているので、アイスやフラペチーノの一口なんて、偏に風の前の塵に同じかもしれないが、莉央奈が気にしようと気にしなかろうと、こっちが気にしておけば穏便に済むので、気にするだけお得なのである。


 まあ、そんなこんなで、皆で味をシェアする流れになった。ちなみに莉央奈は真っ青なブルーウェーブと真っ緑なアーモンドピスタチオ、淑乃はネオポリタンと琉球紅茶わらび餅にしていた。偶然にもおあつらえ向きに、みんな全て違うフレーバーになっていた。もしかしたら莉央奈は空気を読んで変えたのかもしれない。決まったからって真っ先に注文したのは、主役を立てる上で良くなかったかも、反省。


「結局いくら使ったの?100万?」

「一桁多いなー」

「それでも多いよっ。5000円ぐらいのハンドクリームを買ってた時は、その、なんだ、さっすが東京人って感じがしたー!あたしだったら使えずに腐らせる気がするーっ」

「そうかなぁ。東京は関係ないと思うけど……」

「東京は平均年収が一番高い都道府県だから、関係ないわけでもないんじゃない。親が裕福な確率が高まるわけで」

「別に親が金持ちってわけじゃないよぉー。自分で稼いだお金で奮発しただけ。玉樹ちゃんの家は金持ちだった?」


 莉央奈の視線が淑乃からこちらに移る。血の通ったような、どこか色めき立っているような、微かに上擦ったような声で尋ねられた。


「詳しくは知らないけど、23区に住めてる時点で、平均の2倍ぐらいはあると思うよ」

「いいなー玉樹ちゃんの家は。要するにうちは、私が頑張らないと、首が回らないってことなの」

「なっちも色々苦労してんだなぁっ」

「苦労してなかったらこんな所にいないって」

「それもそっかー」


 夢中になって買い物をしている時の莉央奈も、こうして志佐たちと話している時の莉央奈も、露骨ではないけど、明らかに笑顔を滲ませている。それは作文のように、実際の興奮を丁重に整った文章に抑え込むようなもので、私が今までに見てきた無気力で退嬰的な莉央奈とは、同じヴェールで包まれているのに似ても似つかなくて。なんなのだろう、この違和感は。説明できない違和感は言いがかりだけど……。


「あ、たまっちゃんもう食べ終わってるー」

「待たせると悪いし、さっさと食べちゃおうか」


 別に待っている自覚はなかったけど、なんか気を遣われた。そう言って、私に微笑みかける莉央奈は、何もぎこちなくなんかなくて、とても消えたがっているようには見えない。遠くて細長くて疎らでまだらな関係だけど、私は自分自身を葬りたがる莉央奈の顔だけは知っている。それに比べたら、今の莉央奈が極上の欣喜の中にいるのは明白だった。


 こんなことで極上の幸せを感じられるなんて、はっきり言って誰よりも能天気に生きられるはずだ。自殺を実行にまで移していて、さらに私に振り回されて全てを投げ出したのに、どうしてこれほどまでに容易く満たされた顔をするのだろう。抑揚があってトーンが高い声、表情豊かでリラックスしていて。そんな矛盾が私を懊悩させるせいで、今日の後半の記憶が曖昧になってさえいる。


 莉央奈が幸福を感じられるのなら、それでいいんじゃないのか。莉央奈が幸せでいることが、唯一無二のハッピーエンドなんだから。ただ、そう単純な話でもないんだろう。笑顔の意味なんて一つじゃない。あるいは、笑顔に価値なんて見出せないのかもしれない。裏側をブラックボックスにしたままでは、本当の幸せには辿り着けないということなのか。もっと深く、底まで堕ちないと、莉央奈の手を取ることさえもできない。


 帰りは当然、みんなで莉央奈の荷物持ちをしながら帰る。大量の紙袋を腕に引っ提げて、最初はそんなに重くないって、余裕ぶっこいてしまうけど、少しずつじりじりと、持ち手が腕に食い込んで痛くなってくる。相変わらず空はひたすら青く澄んでいて、とても眩しくて、素直に手を伸ばせない。百戦百敗している。


「あたしはこっちだから。ここでお別れだーっ。寂しいぃーっ」

「うあ……だからくっつかないで……」


 頬まで擦り付けてくる。さすがに志佐だから突き飛ばしたりはしないけど、対応に困る……。


「ここまで荷物運んでくれてありがとう。後は私が運ぶから」

「あーそっか。二人って同じ家で暮らしてるんだもんね」


 私の腕に紙袋の持ち手を通しながら、志佐がふいにそんなことを口にする。共同生活が始まってもう1週間は経過したわけで、その事実は少しずつ頭の隅へ片隅へ押しやられていたのに、もう一度意識させられた。客観的にその言葉を投げかけられると、脈が一度だけ足を踏み外したような感じがするというか、自分の意図しない見られ方をしているんじゃないかと疑いたくなる。それに、そのことを意識していると、日常のあらゆる場面で考えないといけないことが増えて、息が詰まる。


「シーサー、残りは……」

「少しはなっちも持って。たまっちゃんがクラーケンみたいになってるから」

「クラーケンて」

「笑ってるけど、今のなっちもクラーケンだからね」


 志佐の感性はよく分からないけど、身軽になった志佐は一歩、自分の家の方向に進んでから、また身体を回転させて振り返って。


「今日はめっちゃ楽しかったよっ。また遊びに行こ!なっち、たまっちゃん!」

「こちらこそ、今日はありがとう。莉央奈さんのことで協力してくれて」

「協力って……。あたしはただ、たまっちゃんたちと遊びたかっただけだよ。じゃあね、ばいばぁーい」

「またね、明後日、学校でー」


 軽快なステップで志佐は自分の家の方角に突き進んでいった。その後ろ姿を呑気に眺めていると、たぶん気配を察知されて、こっちに戻ってくるだろうし、それに、さっきより手に持っている荷物が増えたので、私たちもさっさと戻るべき家の方向へ進み始めた。


 紙袋同士が擦れる音がとにかく共鳴する。莉央奈はバランスを取ろうと、左右の手で持つ紙袋の量を調整していた。それはもはや贅沢な悩みで、確認するまでもないことだけど。


「今日は、楽しんでくれた?」

「楽しかったよ。いやー、久しぶりにぱーっとお金使ったなー」

「まあ、私がしたことって荷物持ちぐらいだから、莉央奈さんを幸せにできたのかと言われると……」

「荷物の量を気にせず買い物できたのは、玉樹ちゃんがいてくれたからだよ……」


 莉央奈は一度、並んで歩く私の顔を見て、それから街商かと思うぐらい持っている紙袋の塊を、一通りなでるように見回した。


「コスパ、悪いよね」


 目線を前に戻して、それから目を伏せて、莉央奈はそう呟くように零した。出会った時のような、暗く淀んで冷たい声。でも、重々しいというよりむしろ、瞬く間に消えてしまうほど軽くて、自嘲的で、単一の波長の音にすら聞こえて。それが私の鼓膜を震わせた時、まるでタイムスリップしたかのように、心臓が震えて全身に力がこもる。死んだように動かない莉央奈の瞳を、まじろぎもせず見つめ続けた。逃げてはいけないから。


「莉央奈さ……」

「ねぇ玉樹ちゃん。玉樹ちゃんは、今日楽しかった?」

「え?たっ、楽しかったよっ。非日常だったから。平日は日が昇ってる間、ずっと教室で椅子に縛り付けられっぱなしだったけど、そのルーティンから一時的に解放されたら、自明にカタルシスがあるよね」

「シーサーも、洲鎌さんも、もちろん玉樹ちゃんも、あんなにアイスを美味しそうに食べてて、私がどの店に行こうと乗り気で、みんな、本当に楽しんでた」

「それは莉央奈さんだって……」

「私は違うッ!」


 莉央奈は足を止めて、声を裏返らせながらそう叫んだ。無慈悲にも少し傾いた日差しが、私たちを構わず突き刺して、首の付け根にちりちりとした感触が横たわる。逆に莉央奈の目元を影で包み込まれた。


「こんなたくさん物を買って、それで物欲と承認欲求を満たしただけ。三人は何も買わなくたって楽しめるのに。私はこんな狂ったみたいに買い漁って。ほんっと馬鹿みたいッ!おかしいおかしいおかしいおかしい!」


 紙袋が地面にどさどさと落下する。大きく音を立てながら、崩れていく。莉央奈はその場で両膝を抱えてうずくまった。


「私の感性は壊れてるんだ、とっくの昔に終わってるんだ。こんなに生きるのに向いてないのに、なんでまだ死ねないの?なんで、どうして、もう誰でも良いから私を……」

「莉央奈さんっ!」


 いつまでも、気圧されている場合じゃない。これは莉央奈の命の危機なんだ。そして助けられるのは私しかいなくて。そんな時にAEDを使っていいのか迷うべきじゃないのと同じように、今この瞬間に、踏み込むしかない。莉央奈の選択を一つ潰した私に、選択肢はなかった。


「莉央奈さんの自殺したい理由って、物欲が抑えられなくて、高価なブランド品を見せびらかすことで満たされる自分が嫌いだから、そういうこと、だったんだね」

「もう分かんないよ……。何もかも全部ダメ、現世の私も、来世の私も、来来来世も全部嫌い。醜いしセンスないし自己中だし」


 両手で涙が溢れる目を抑えながら、自分を否定するように時々首を微かに横に振る。ぐちゃぐちゃに潰された涙の粒が、指の隙間から零れ落ちていく。


「莉央奈さんは今日、楽しくなかったの?程度はわからないけど、幸せだったんでしょ、満たされたんでしょ。その瞬間があったことは確かなんだよね。なんのためにそれを否定するの?私を否定するため?それとも、悲劇を装って注意を引いて、構ってもらうため?」

「楽しくなかったなんて言ってないじゃん……。でも、こんなお金で買えるような、浅はかで衝動的でみすぼらしい幸せなんて、長続きするはずないよね」

「幸せに貴賤なんかないっ。人間である以上、幸せは同じ化学反応なんだから。莉央奈さんが今日感じた気持ちは、疑いようも間違いようもなく、私と同じ幸せで、何も間違ってなんてない」

「違う……違うんだ……。こんなことで、こんな風に喜ぶなんておかしい、どうかしてるんだ、これ見よがしにお金を使うことでしか、心を埋められないなんて、死んだ方がいいんだよ……」


 莉央奈は、声だけでなく身体全体を小刻みに震わせながら、途切れ途切れに、苦しそうに言葉をひねり出している。どうして、こうなってしまったんだろう?その、疑問のような自責のようなお題目はどんどん大きくなっていって、言語中枢に絡みつく。集中力を欠けさせようとしてくる。腕からずり下がってきた紙袋の一つの持ち手を、ぎゅっと握りしめた。


「むしろ、合法的に幸せになれるって分かったんだから、良かったよ。世の中には、他人を脅かして悲鳴を聞きたいとか、腹を引き裂いて内臓を引っ張り出してやりたいとか、なかなか実現が難しい方法でしか幸せになれない人もいるわけで。もし莉央奈さんがそうだとしたら、まあ恐らく協力はするだろうけど、ここまで前向きにはなれないだろうから」

「犯罪ではないかもしれないけど……。一瞬の快楽のために何十万も使ったんだよ。高校生じゃなくたって十分大金な額を、ものの数時間で使っちゃって。でも、そうしなきゃ、幸せな気持ちにもなれなくて。この先も生きてくってなったら、こんなことを何度も、何度も、何度も何度も何度も繰り返すんだ、ありえないよ、馬鹿だよ、正気じゃない!」

「お金が必要なら、私も頑張って稼ぐよ。飛び道具的な方法を使ってでも。そういう約束だから」

「なんで、なんで分かってくれないの……。こんな脆くて薄っぺらい幸せを集めるぐらいなら、死んだ方がいいんだって……。死ねばさ、全ての苦痛から逃れられて、のうのうと生きるよりは責任を取れる。全部解決してくれるのに。死って、何よりも美しいんだよきっと。ドビュッシーの月の光よりも、アイヴァゾフスキーの第九の波よりも、どんな芸術だって敵わない」


 莉央奈は顔の半分を覆っていた手をずらして、まなじりにしわを作って、泣くのを堪えるような笑顔をこちらに見せた。まあ、すでに泣きじゃくった後なんだけど。目元はアイメイクが滲んで黒ずんで、目は充血している。でも、降参なんて絶対しない。私が正しいんだって、きちんと説明できなきゃいけないんだから。


「死ぬことが最善って結果ありきで話してるだけ。ここでの生活を続けることとか、他の道を十分に検討した?死の美しさに触れたいなら、ショパンの葬送とか、ミレーのオフィーリアとか、死をテーマにした芸術を味わえばよくない?それに、前を向いて生きる理由を探すのと同じくらい、自殺するのだって大変だよ。苦しんでもいいならともかく、莉央奈さんは前に、睡眠薬や車で自殺するのは確実じゃないからって言ってた。なんで生きる理由を探すより、自殺する方法を考える方が優先されるの?理由があるなら、教えてよ」

「ふぅー……、はは、はははは、理由、なんてないよ。玉樹ちゃんにとってはないも同然。全部言い返されちゃった」


 今のところ全部言い返せている自分に安堵した。でも莉央奈の顔は、引き続き不気味な笑顔を映していた。


「ねぇ、これで、分かったでしょ。私がいかに救う価値のないゴミだってことが。短絡的で目先のことしか見てなくて、他人の善意を平気で踏みにじる。贅沢して、さすが莉央奈ちゃんとか、さすが東京人とか言われて、口元を緩ませちゃってさ。もっと早く、自分から言うべきだった、曖昧なままにするんじゃなくて」

「性格は別に関係ない。どんな莉央奈さんであっても、今日みたいに幸せを受け入れられない莉央奈さんでも、私の意志は変わらない。この約束は、莉央奈さんの性格には依存しないから」

「嘘だ、どうせ嘘だっ。みんなそう言うんだ!そうやって何百人に裏切られてきたと思ってんの!……それで、いいんだよ、私なんて適当にあしらっちゃえば。もうほっといてよ……、自由に死なせてよ……」


 莉央奈は再び腕の中に顔をうずめて、過去のことでも思い出しているのか、一人ですすり泣き始めてしまった。莉央奈にとって、私も嘘の一員なのかもしれない。夏が終わるまで嘘かどうか証明できないんだから、当然の推定だった。


 それによく考えたら、私って負けているのではないだろうか。だって、これを見て莉央奈が私の行動に納得しているとは到底思えない。言い返せたらプライドは守られるけど、納得させられなければ、結局私の行動は間違っていたことになる。色々思索を巡らせたり、莉央奈と話したりはしてきたけど、莉央奈に生きたいと思わせる方策なんて、今のところほぼ思い付いてないわけで。小さな日常のイベントを平和に積み重ねるって、そんな企画書が通るわけがない。


 ……頭がくらくらしてきた。石でも括りつけられているのかと思うぐらい重くて、重心の位置がずれて、しゃがむことも覚束なくなりそうだった。腕から力が抜けて、紙袋がばたばたとドミノのように倒れる。口の中がからから乾いている。この汗はどうして出ているのか分からない。


 意識がたまに朦朧とする中、莉央奈の叫声が涙声は存在感を発揮していた。私の脳内をひたすら駆け巡っていく。それは音のようで雲のようで岩のようで刃のようで、今すぐに忘れてしまいたいと思った。


 本当は、莉央奈からこんな言葉と周波数を引き出してはならなかった。自分のしたことの重大さを鑑みたら、忘れたいとか、この場から離れたいとか、そんなことをふと思ってしまうことすら烏滸がましいんだ。決して傍から離れない。離れてはならない。脱力した腕にもう一度力をこめて、莉央奈の背中に手を伸ばす。こんなこと、したことないけれど、まあ、赤ちゃんの頃の記憶でも思い出せるんじゃない?


「莉央奈さんっ、莉央奈さんはとてもお洒落で、凄いよっ。東京に住んでたって、意識しなかったら美容のこととかファッションのこととか、全然知る機会ないんだから。そのために割いた時間は一つの立派な努力で、努力は一般に素晴らしいもので、だから……」

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