2-4 3つ目の約束
未だに慣れない洗剤の香りがするタオルで、濡れた髪を包みこむ。一体、何の得があって、玉樹のおばあちゃんはタオルを毎日洗濯してくれているのだろうか。血縁関係があるわけでもない、こんな私のために。素直に感謝の言葉が出てこない自分に、また嫌気が差している。
「なっち!」
洗面台の鏡の前で、やかましくて軽いドライヤーで髪を乾かしていると、物珍しいあだ名で志佐に呼ばれた。ドライヤーを止めて、志佐の方を向く。
「玉樹ちゃんから聞いた?私たちのこと」
「聞いたよ、全部」
その台詞には志佐比で唇に力がこもっていて、変な緊張が走る。玉樹から始まって、玉樹の両親、祖父母、そして志佐まで巻き込んで、どんどん大事になっていって、とっくに収拾がつかなくなっている。
「……これから家に帰るんだけど、少し送って欲しい」
「あぁ、いいけど。玉樹ちゃんじゃなくて、私?」
「たまっちゃんとは今さっき話したから」
「そう。髪が乾くまでちょっと待ってて」
「うん、分かった。待ってる」
志佐はいつもの調子を残しつつ、どこか暗くて深くて根強い影を含ませた声で返事をする。廊下の壁に寄りかかって待っているのを鏡越しに確認してから、さっさと髪を乾かした。
「二人はほんとに同じ家に住んでるんだな」
「まあ……そういう事に、なるね」
もう5時過ぎだというのに、未だに太陽は町を照射し続けていた。せっかくシャワーを浴びたのにな……。早速、滲んでくる汗を拭いながら、早く夏が終われと祈る。
「怒ってる……よね。勝手にこんな約束したりして」
「なんで、なんであんな約束したのっ!たまっちゃんの命をなんだと思ってるわけ!?」
玉樹のおばあちゃんの家の敷地を出てから数歩、たぶん志佐が今までに発揮したことがないだろう激しい剣幕で、怒りを露わにされた。声は裏返って、ぽふっと私のお腹に拳が突き刺さる。少し痛かった。まあ、そうじゃなきゃ親友じゃない。二人は凄く仲が良いんだろうなーと、絶対、いま抱くべきじゃない感想が脳裏をよぎった。
「なっちの事情に、たまっちゃんを巻き込まないでよっ!」
「ごめん……巻き込むつもりは全くなかったんだけど、結果的にそうなってしまったことは、悪かったって思ってる……」
「あ、謝られたって困るっ。たまっちゃんはなんも悪くないのに、悩んで傷付いてあたしを頼ってみたりしてさ。こんなのってひどいよ、あんまりだよっ」
「ごめん……」
志佐は自転車を押しながら、眉を吊り上げて睨み付けてくる。露骨に不機嫌そうにしていた。もう何を言っても聞き入れてもらえなさそうだし、喧嘩なんて疲れるだけだし、結局幸せになろうとしない私が悪いんだし、何も言い返さなくていいかーと、鋭い眼光を無防備に浴びていると、志佐が勝手に急激にトーンダウンしていった。
「たまっちゃん、いなくなっちゃうのかな……」
「いなくはならない……よ、多分」
「じゃあ、なっちはもう自殺したくない?」
「それは……んー、正直、今のところは何も変わってないかな。でもねっ、玉樹ちゃんと心中するつもりは最初からないよ。適当に誤魔化して、上手く見計らって、一人でひっそりと消えようと思ってる。玉樹ちゃん隙だらけだから、たぶん上手くいくよ」
「なっちがさ、幸せなふりをすれば、それで済む話じゃないの?」
「幸せなふりって……」
「一人で勝手に消えるって、約束を反故にするってことでしょ?そんなの、絶対絶対、たまっちゃんは納得しないよ!」
ほんとに、全くもってその通りだと思う。納得しないどころか、自らの正しさを信じて、結局玉樹も自殺を試みるだろう。でもそれは自分が死んだ後だから関知しない……と宣言したようなものだ。ありえないことを言い放ってしまった。この自己中が。内頬を噛んで反省を促す。
確かに、幸せなふりをすれば、玉樹が死のうとすることはないのかもしれない。でもそれはつまり、心の中で嘘と矛盾を飼い続けるということで、どんどん獰猛になっていくそれらと、一生涯戦っていかなければならないことを意味していた。嘘とか矛盾とかを抱えたまま、普通でいられる気がしない。第一、こうしてのうのうと生きていくことが許されているんだろうか?あぁー、うん、無理だね、志佐の睥睨がどれだけ痛くても、決して頷くことはしなかった。
「そぉーだよ、いいじゃん、たまっちゃんと出会ってから毎日が楽しいとか言っとけば。幸せなふりなんて難しくない。それに、最初は演技でも、段々自己暗示されてきて、ほんとに楽しくなってくるよっ」
「ご、ごめん、幸せなふりはできない……。多分、上手くいかないし、玉樹ちゃんの感情は優先されて、私の死にたいって感情は押し殺さないといけないなんて、ちょっと理不尽じゃない……?」
自分ばっかり我慢させられるなんて、とても言える立場ではないのに、あぁ、言ってしまった。まあ、言わなきゃ良いってものでもない。被害者意識を持つ資格なんてないんだから。
突如として自転車のチェーンが回る、からからとした音が止まる。一歩先の日陰に飛び込んでから、斜め後ろを振り返った。志佐は、そこが日なたなことも気にせず、立ち止まって目を伏せていた。
「どうしたの?」
「ごめん……、なさい……」
呟くように、でも深刻そうに謝って、頭を下げているつもりなのか、よりいっそう俯いた。
「シーサーが謝ることじゃないよ……」
「なっちの気持ちを蔑ろにしてた。なっちだって苦しいはずなのに、冗談で言ってるわけじゃないのに」
「しょうがないよ。玉樹ちゃんを優先したら、必然的に私の願望は犠牲になるんだから」
「しょうがなくないっ。きっと、きっとなんとかなるよ!」
軽くて弾けるような声で、反射的に真正面から感情任せに否定される。手を焼くような感触が蘇ってくる。別に思い出さなくていいし、その通りに振る舞う必要もないけど、私は諭すことを選んでいた。まあ、そうしなかったら、一生この場が収まる気がしないので、結果的には良かったのかもしれないけど。
「シーサーはさ、玉樹ちゃんがいなくなりそうなことが、一番怖いんだよね……?」
「いなくなって欲しいなんて思うわけないじゃん」
「じゃあさ、玉樹ちゃんがいなくならないよう、シーサーがきちんと見てればいいじゃん。私がいなくなって取り乱してる玉樹ちゃんを、なんとか慰めてあげて」
「あたしにはそんなこと……」
「できるよ。……玉樹ちゃんみたいに根拠は用意できないけど。でも今回のことだって、シーサーに相談したくて洲鎌さんのいない瞬間をずっと探してたぐらいだし、相当信頼してるみたいだから。そんなしょぼくれた顔は控えて、いつも通り明るく気丈に振る舞ってれば、じゅーぶん玉樹ちゃんを元気付けられるって」
「そ、そうかな……。確かに、あたしって明るさだけが取り柄だけど……」
「まあ、夏が終わるまではまだ時間があるから。その頃には何か変わってることを期待しよ」
「んー、だと……いいね」
志佐も日陰に入ってきた。少しずつ普段の志佐の表情に戻っていく。まあ、出会って数日なので、本当の志佐がなんなのかは知らないけど。いつもあんな風に、やかま底抜けに明るいわけじゃないのかもしれない。
さて、何とか切り抜けられたのか……?はぁ、どこまでが嘘で本音かわからなくなる。そのまま胡蝶の夢のごとく分からないまま、酔いしれることができればいいけど、いつかは本音に醒めてしまう。美しい嘘に深く沈むのも、幸せになる一つの手段なんだろうな。
あちーあちー言いながら進んでいると、志佐は家、ではなくお花屋さんの前で足を止めた。取り立てて言うことはない、普通に普通のおばさんが運営していて、普通の菊や普通のトルコキキョウなんかが売っている、普通の町のお花屋さんである。志佐は自転車を店の前に止めて、特に逡巡することなく店内に入っていく。
「花?誰かにあげるの?」
「ママの仏壇に供える用」
「あぁ、そういう感じ、ね……」
「いやいや、別に根掘り葉掘り聞いてくれれていいよ。好きだった食べ物とか、どういう人だったかとか」
「んー、そんなに興味ない……」
志佐は特に迷うことなく、いつも買っているのだろう、ピンクのアザレアとか白のマーガレットとかがまとまった花束を購入して、自転車のかごに入れた。
「そう言えば、どうしてそんなに自殺したがってるの?」
再び歩き始めて数歩、とっても直球な質問が来た。なんというか、いろいろ大胆な人だなーと思った。言いくるめられてくれたお礼……にしてはしょぼいけど、別に隠していないので特に躊躇わず答えた。
「贅沢が辞められないから、かな」
「贅沢?」
「高いコスメを買って、ブランド物で身を固めて、フォアグラとかトリュフとかに舌鼓を打って、それで皆にちやほやされて。そんなこと、いつまでも続けられないのにね」
「それはー……全身を茨で締め付けられるような痛みが、あるのかな」
本人はウケを狙ったわけではないんだろうから、こんなことを思うのも良くないのだろうけど、変な質問だなーと、素朴に感じてしまった。まあ、普通に会話を続ける。
「痛いというか、生きるのに向いてないなー、コスパ悪いなーって思うかな。せめて、そういう生活をするのに相応しい品性とか感性があれば良かったんだけどね。どうしようもないほど薄っぺらくて、刹那的な人間だから。目先の快楽にだけ囚われて、自分も周囲も不幸にしていく。それに気付いた時、自然と死ぬことに手が伸びた。それだけ」
いつも以上に言葉を滑らかに紡げた気がした。人に悩みを言葉にして打ち明けることで、心が安らぐとか不安が解消されるとか、そういう効能があったわけではなく、ただ自分が普段から整理している思考がそのまま外の世界に溢れていったような感覚だった。
感傷的な気分のまま志佐の方を一瞥すると、最初は自転車のかごに入った花束を見つめて、その後は普段通りににこにこしながら。
「なっちにとってそれが本当に苦しいなら、あたしはなっちの選択を、否定……しないけど。でもやっぱり、たまっちゃんには出会わないでほしかったな」
「そんなこと言われたって、不可避だったんだよ。橋の上で急に抱きついてきて、自殺してはいけない理由を聞かされて」
「あはは、聞いたよ。それはもう、何かの縁だと思って諦めちゃえばいいのに。でも、そういうんじゃ、ないんだろうね」
私が死にたい理由を、最初にはっきり明示的に話すのは、なんとなく玉樹に対してな気がしていた。いやまあ、玉樹は志佐と違ってデリカシーがあるので、直接的に聞いてこなかっただけだと思うけど。だからこそ、いつかはきちんと納得させないと、とは考えてはいたが、膝を突き合わせて真面目な顔をして話すことから、私はずっと逃げている。玉樹が玉樹はこれを聞いてどう思うんだろうか。世界中で唯一、納得できない理由を探しそうなものだなーと。
そんな汗でしっとりした夏の帰り道、別に価値があるとは思わないけど、また僅かに時計の針が進んだ。その微かな音は、少しずつ大きくなっていく予感がした。
しばらくして、今度こそ志佐の家の前に到着した。
「上がってく?」
「いやいや、遠慮しとくー。あんまり遅くなると、玉樹ちゃんとおばあちゃんに迷惑だから」
と、言った矢先、あることに気付く。
「あっ」
「ん?どうしたー?」
「ここから家までの道、わかんないんだけど」
「あ」
送ってきた本人が迷子になった。玉樹でもあるまいし、来た道なんていちいち覚えてない。
「じゃー、あたしが送ろうか?」
「なんて無意味な」
「それともあたしんちに泊まる?」
「えー、戻りたいかな……」
「あたしじゃなくてたまっちゃんを選ぶんだっ」
なんとなく、めんどくさい。めんどくさくなるほど言葉を交わしたわけじゃないのに、めんどくさい。淑乃があんな顔をするのも分かる。しかし道が分からないのはどうしようもないので、二人きりのお散歩はもう少しだけ続くのだった。
「スマホで地図見ればいいのに」
「おー、その手があったか」




