4「好きだから」
紋白蝶の体に、僕はゆっくりと線を入れた。
もちろん血は出た。線は浅く入ったが、それでもぽたぽたと垂れ落ちていく。
本当に血が温かい。僕の心まで熱気に包まれていく。
線を引く度に彼女の体は震えた。吐息交じりに甘い声まで漏らして。
「嬉しい」
瑠奈は目をうっとりとさせながら、僕を見る。
カッターナイフを握る僕の血まみれの手を、彼女は両手で包んだ。
彼女の手は未だに震えている。
「人に切られるのって、こんなにも気持ちがいいんだ」
瑠奈の手首から血が溢れている。これは僕が切ったんだ。そう、まるで『虫を潰す』ように。
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学校からの帰り道、僕は瑠奈と一緒に道を進んでいる。
彼女は相変わらず大人びた服装だった。
僕はじっと彼女の姿を映す。この目に焼き付けなければ。
横断歩道に差しかかった。僕と瑠奈は隣に並んで、信号が青になるのを待つ。
目の前の車が猛スピードで過ぎ去っていく。風が生じて、瑠奈の髪が少しだけ揺れる。
僕の心がざわつく。
瑠奈が潰れたらどうなるのか、確認するなら今しかない。
蝶を叩き落とした光景が蘇る。地面に叩き落された蝶は足をばたつかせて必死にもがく。もがくのだが、そこを僕は踏みつけた。公園の地面の砂利と混ざるようにぐりぐりと踏み躙る。地面から足を離して、潰れた蝶を確認する。
まさにその光景を思い出した。僕はゆっくりと彼女の背後へ回る。不思議そうに、瑠奈はこちらを見た。
瑠奈は突如として腕の包帯を外した。何本もの細い線が走る傷跡が露わになる。
「いいよ」
確かに、瑠奈はそう言った。僕は体の動きを止める。
「私を殺したいんでしょ?」
瑠奈は分かっていた。僕の心の動きを。
「広くんになら殺されてもいいよ、私」
「どうして」
すると、瑠奈がこちらに体を向ける。彼女は満面の笑みを浮かべていた。
「だって私、広くんのことが好きだから」
言葉を失った。
「わがままを言うと、私は押されて死ぬんじゃなくて、自分から死にに行きたいな」
「だから」と、彼女は続ける。
「いかせて」
瑠奈は笑う。ランドセルを背負う彼女の姿だが、ただの小学生のように思えなかった。大人、いやそれ以上の何かに見える。
僕はゆっくりと頷く。
「ちゃんと見ていてね」
瑠奈がそう言って道路へと飛び出した。
トラックだ。大きなトラックが急ブレーキを踏んで、きぃぃと高い音を鳴らす。ブレーキは間に合わなかった。
瑠奈の体がトラックと衝突する。凄まじい速度だった。
僕は『僕を好きだと言ってくれた唯一の人』の死を、きちんと目に焼き付ける。
瑠奈は数メートル以上も前に吹き飛ばされていった。どこからか女性の悲鳴が上がる。
大勢の大人が瑠奈の元へ駆け寄っていく。僕は、ただその場に立ち尽くしていた。
瑠奈が死んだと言うのに、僕は悲しくなんてなかった。
むしろ温かい。
首を吊った母の姿を見た時も同じ温かさを覚えた。これは一体何なのだろう。
瑠奈の死は母の時以上に、温かく感じる。
僕はゆっくりと帰路に着く。
今日は公園に寄らず、まっすぐと家に帰った。
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いくら急ブレーキを踏んだとて、瑠奈との衝突は免れなかった。瑠奈は即死だった。
僕は彼女が道路へ飛び出す前の、あの一言を思い出す。
『だって私、広くんのことが好きだから』
どうしてもその一言だけが頭を離れず、僕は悶々としていた。
いつものように公園に寄る。公園に寄って、もちろん、茂みの方を探る。
もう夏になってしまった。
瑠奈がいたら、きっと一緒に虫を潰すのだろう。
茂みの方からバッタを捕まえた。バッタを掴んでその顔を睨み付ける。
「どうして」
僕はバッタを握りつぶした。無残にもその細い体は折れ曲がり、引き千切れる。
僕は手を振ってバッタを地面へ叩き落すと、次の標的を探しに茂みの中へ手を突っ込んだ。今度はよく分からない名前の甲虫を捕まえた。その甲中を、力を込めて握り潰す。
かたい。そう簡単に甲虫は潰れてくれなかった。僕は地面に投げつけて、それを踏み潰す。
今度は潰れてくれた。
僕は何度も何度も、その甲虫を踏みつけた。
「なにしてるのー」と一人の小さな男の子が駆け寄って来た。そして潰れた虫を見て、「あっ」と幽かな叫びを上げる。
「何もしてないよ」
僕はそう言って手を洗いに水飲み場の方へ行く。男の子は着いてきた。
彼は手を洗う僕の様子を、まじまじと不思議そうに見つめている。
「虫、殺したのー」
男の子が突然そう言い出した。
「おれも虫殺すの好きだよー」
男の子を見ると、彼は歯を見せて大きく笑っていた。
「やめときなよ」
僕はそれだけ言って、男の子を放って公園を後にした。
虫を殺せど、瑠奈の姿は頭から離れてくれなかったのだ。




