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4「好きだから」

 紋白蝶の体に、僕はゆっくりと線を入れた。

 もちろん血は出た。線は浅く入ったが、それでもぽたぽたと垂れ落ちていく。

 本当に血が温かい。僕の心まで熱気に包まれていく。


 線を引く度に彼女の体は震えた。吐息交じりに甘い声まで漏らして。


「嬉しい」


 瑠奈は目をうっとりとさせながら、僕を見る。

 カッターナイフを握る僕の血まみれの手を、彼女は両手で包んだ。

 彼女の手は未だに震えている。


「人に切られるのって、こんなにも気持ちがいいんだ」


 瑠奈の手首から血が溢れている。これは僕が切ったんだ。そう、まるで『虫を潰す』ように。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 学校からの帰り道、僕は瑠奈と一緒に道を進んでいる。

 彼女は相変わらず大人びた服装だった。


 僕はじっと彼女の姿を映す。この目に焼き付けなければ。


 横断歩道に差しかかった。僕と瑠奈は隣に並んで、信号が青になるのを待つ。

 目の前の車が猛スピードで過ぎ去っていく。風が生じて、瑠奈の髪が少しだけ揺れる。


 僕の心がざわつく。

 瑠奈が潰れたらどうなるのか、確認するなら今しかない。


 蝶を叩き落とした光景が蘇る。地面に叩き落された蝶は足をばたつかせて必死にもがく。もがくのだが、そこを僕は踏みつけた。公園の地面の砂利と混ざるようにぐりぐりと踏み躙る。地面から足を離して、潰れた蝶を確認する。


 まさにその光景を思い出した。僕はゆっくりと彼女の背後へ回る。不思議そうに、瑠奈はこちらを見た。


 瑠奈は突如として腕の包帯を外した。何本もの細い線が走る傷跡が露わになる。


「いいよ」


 確かに、瑠奈はそう言った。僕は体の動きを止める。


「私を殺したいんでしょ?」


 瑠奈は分かっていた。僕の心の動きを。


「広くんになら殺されてもいいよ、私」

「どうして」


 すると、瑠奈がこちらに体を向ける。彼女は満面の笑みを浮かべていた。


「だって私、広くんのことが好きだから」


 言葉を失った。


「わがままを言うと、私は押されて死ぬんじゃなくて、自分から死にに行きたいな」


「だから」と、彼女は続ける。


「いかせて」


 瑠奈は笑う。ランドセルを背負う彼女の姿だが、ただの小学生のように思えなかった。大人、いやそれ以上の何かに見える。


 僕はゆっくりと頷く。


「ちゃんと見ていてね」


 瑠奈がそう言って道路へと飛び出した。


 トラックだ。大きなトラックが急ブレーキを踏んで、きぃぃと高い音を鳴らす。ブレーキは間に合わなかった。

 瑠奈の体がトラックと衝突する。凄まじい速度だった。


 僕は『僕を好きだと言ってくれた唯一の人』の死を、きちんと目に焼き付ける。


 瑠奈は数メートル以上も前に吹き飛ばされていった。どこからか女性の悲鳴が上がる。

 大勢の大人が瑠奈の元へ駆け寄っていく。僕は、ただその場に立ち尽くしていた。


 瑠奈が死んだと言うのに、僕は悲しくなんてなかった。

 むしろ温かい。


 首を吊った母の姿を見た時も同じ温かさを覚えた。これは一体何なのだろう。

 瑠奈の死は母の時以上に、温かく感じる。


 僕はゆっくりと帰路に着く。

 今日は公園に寄らず、まっすぐと家に帰った。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 いくら急ブレーキを踏んだとて、瑠奈との衝突は免れなかった。瑠奈は即死だった。


 僕は彼女が道路へ飛び出す前の、あの一言を思い出す。


『だって私、広くんのことが好きだから』


 どうしてもその一言だけが頭を離れず、僕は悶々としていた。

 いつものように公園に寄る。公園に寄って、もちろん、茂みの方を探る。


 もう夏になってしまった。

 瑠奈がいたら、きっと一緒に虫を潰すのだろう。


 茂みの方からバッタを捕まえた。バッタを掴んでその顔を睨み付ける。


「どうして」


 僕はバッタを握りつぶした。無残にもその細い体は折れ曲がり、引き千切れる。

 僕は手を振ってバッタを地面へ叩き落すと、次の標的を探しに茂みの中へ手を突っ込んだ。今度はよく分からない名前の甲虫を捕まえた。その甲中を、力を込めて握り潰す。


 かたい。そう簡単に甲虫は潰れてくれなかった。僕は地面に投げつけて、それを踏み潰す。

 今度は潰れてくれた。


 僕は何度も何度も、その甲虫を踏みつけた。


「なにしてるのー」と一人の小さな男の子が駆け寄って来た。そして潰れた虫を見て、「あっ」と幽(かす)かな叫びを上げる。


「何もしてないよ」


 僕はそう言って手を洗いに水飲み場の方へ行く。男の子は着いてきた。

 彼は手を洗う僕の様子を、まじまじと不思議そうに見つめている。


「虫、殺したのー」


 男の子が突然そう言い出した。


「おれも虫殺すの好きだよー」


 男の子を見ると、彼は歯を見せて大きく笑っていた。


「やめときなよ」


 僕はそれだけ言って、男の子を放って公園を後にした。


 虫を殺せど、瑠奈の姿は頭から離れてくれなかったのだ。

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