第五十四話 何も起きていないことにしよう
# 第五十四話 何も起きていないことにしよう
王立魔法学校の体育祭当日。朝から広い運動場を埋めた生徒と観客の歓声は途切れることなく、色とりどりの旗が風にはためく中、一年生の競技も次々と進んでいた。
「アルト様~! 今日は式神で空を真っ白にしないんですかぁ?」
自分の出番を終えるたびに一年生の待機場所までやって来るアリシアへ、アルトは苦笑しながら答えた。「必要がなければ出しませんよ。昨日みたいな団体戦じゃないですから」
「ということは、必要になったらまた出すんですねぇ」
「まあ、その時はそうなりますけど」
横で聞いていたマイルスが肩をすくめる。「アルト、その答え方だと昨日から何も改善されてないよね。普通の人は、必要になれば空を式神で埋められる時点で十分おかしいと思うからね」
少し離れた競技場では、ストライクが圧倒的な身体能力で障害を突破し、最後の壁をほとんど減速せずに飛び越えていた。観客席から大歓声が上がる。一年一組は朝から順調に得点を積み重ね、ストライクが大量得点を稼ぎ、アルトも結界や式神を使った競技で着実に得点し、マイルスも集団競技で的確に仲間をまとめている。
フィーネも精霊魔法で風を読みながら競技を終え、息を整えながらまだ精霊との感覚を確かめていた。そこへトウが近づいてくる。
「フィーネ、もう競技は終わったのに、まだ練習してるんだな。うん」
「あ、トウちゃん」
「トウでいいんだな。トウちゃんって呼ばれると、フィーネのお父さんになった気分なんだな。うん」
「じゃあ、トウ。少しでも上手くなっておきたいの。最近のアルトくん、本当にどんどん強くなってるでしょ? このままだとすぐ離されそうだから、私もちゃんとそばで役に立てるようになりたいんだ」
トウはフィーネをじっと見てから、柔らかく笑った。「それなら頑張るのはいいことなんだな。でも、頑張りすぎて倒れたらアルトが悲しむから、そこだけは気をつけるんだな。うん」
「ありがとう。大丈夫、そこまで無茶はしないよ」
その時はまだ、今日が普通の体育祭のまま終わると、ほとんどの者が思っていた。
◇
最初の異常は、あまりにも小さかった。
観客を案内する魔道表示板の一つが、本来西側へ向かうはずの観客を東側へ誘導した。係員がすぐに気づいて表示を直し、数人が「あれ、こっちじゃなかったのか」と笑いながら戻っただけで終わる。
しばらくして、今度は競技場を囲む安全結界の一部が一瞬だけ弱まった。教師がすぐに補強し、競技も数分遅れただけだった。
「同じ形式の結界をすべて確認しろ。安全が確認できた区画から競技を再開する」
アウグストの指示も早かった。
三つ目は備品置き場から上がった細い煙だった。火が広がる前にルウが気づき、教師へ知らせたためすぐに消火され、煙を吸った生徒をノエルが確認したが怪我人もいない。
観客にとっては、どれも体育祭で時々起こる程度の小さなトラブルにしか見えなかった。
だがアルトは、三つ目の異常が収まったところで競技場を見渡した。
「……なんか変だな」
「アルトくん?」
フィーネが振り向く。
「最初の表示板は故障だと思った。でも結界の不調と火事まで重なると、ちょっと気になる。全部別々の場所なのに、起きたあとに人が動く方向が似てるんだ」
アルトは懐から小さな紙束を取り出した。昨日のように高く放り上げることはせず、指先から一枚ずつ静かに滑らせる。紙は小鳥や虫の形へ変わり、その姿と気配まで薄く覆われていった。
「あら、昨日とは逆ですね~」
いつの間にか近くまで来ていたアリシアが小声で言う。
「昨日は見せても問題なかったですけど、今日は何を探してるのか相手に知られたくないですから」
不視化された式神は十、二十、五十と増え、やがて観客席の裏、競技設備、校舎へ続く通路、倉庫、門、屋根、運営本部の周辺へ散っていった。
アルトには相手のLvだけでなく、ギフトや能力、熟練、弱点まで見える。しかし、そこに「敵」や「悪意」という項目が表示されるわけではない。何百人もの人間を一人ずつ視ても、仕掛けた者が誰かまでは分からなかった。
だから、人ではなく場所を見る。
晴明として積み重ねた知識を今の世界の魔法へ当てはめ、式神から届く感覚を一つずつ整理していく。
「……まだ壊れてないのに、変な術式が入ってるところがある」
ほぼ同じ瞬間だった。
少し離れていたトウが顔を上げた。
「アルト。こっちも見つけたんだな。うん。一個や二個じゃないんだな。会場のあちこちに変な魔力が残ってるんだな」
そしてルウも、先ほどまでの呆れたような表情を消していた。
「我も確認した。どうやら今までの三件は偶然ではないな。まだ動いていない仕掛けがいくつも残っておる。誰かが会場全体へ手を入れている」
三人がほとんど同時に互いを見る。
「やっぱりそうか」
「そうみたいなんだな。うん」
「面倒なことをしてくれる」
その瞬間、アルトを中心とした《和合》が動いた。
式神が見つけた場所。トウの探索魔法が捉えた異常。ルウが読み取った魔力の流れ。それらが言葉になるより早く《希望の夜明け》へ共有される。
観客席にいたレオンが立ち上がり、ガルドもすぐに周囲を見回した。フィーネは弓へ手を伸ばし、ノエルは救護所と観客席の位置を確認する。
「南側は私。精霊にも周囲の風と魔力の変化を見てもらう」
「何か起きても、すぐ治療できる場所へ動けるようにしておくわ」
「外周の確認。承知!」
「わしは人が詰まりそうな通路じゃ。押し合いになったら危ないからの」
長い説明は必要なかった。それぞれがアルトの意図を受け取り、自分にできることを選んで動き始める。
◇
「ルウ、これってアルトを狙ってるんだな?」
人混みから少し離れたところで、トウが尋ねる。
「さあな。アルトだけが目的かはまだ分からぬ。勇者も第一王子もここにいるし、学校そのものが狙いかもしれん。ただ、これだけの仕掛けを偶然と考えるのは無理がある」
「じゃあ全部止めればいいんだな。うん」
「簡単に言ってくれるな、お主は。だがその通りだ。ここで大声で避難を始めれば、何千という人間が一斉に動く。それ自体を狙っている可能性もある」
「だったら、誰にも気づかれないように全部止めるんだな」
ルウは一瞬黙ったあと、苦笑した。「……アルトも同じことを言いそうだな」
「言うんだな。うん」
「くくく、わかった。やってやる」
そして実際、アルトはほぼ同じ結論へ達していた。
まずマイルスとストライクへ事情を伝える。
「体育祭を止めた方がいいと思う?」
アルトが尋ねると、マイルスはわずかに考えてから首を振った。
「今すぐはやめた方がいいね。何も知らない観客へ一斉に避難を命じたら、それだけで混乱するからね。仕掛けの場所をある程度把握できているなら、先に潰した方が安全だと思うよ」
ストライクも周囲を見渡した。「つまり、何か起きた時はわたくしが止めればいいのですね?」
「できれば起きる前に全部止めたい。でも間に合わない場所が出たら頼む」
「分かりました。わたくしの方はお任せください」
その後、マイルスから転生者たちにも静かに情報が回った。
アリシアは先ほどまでの浮かれた顔をすぐに消し、「魔法で解除できる術式なら私も手伝う。アルト様の邪魔だけはさせないんだから」と言い、セオドアは発生した異常の時刻と場所を整理し始める。ベアトリスは記憶している会場設備と現在の配置を比較し、マリアは「本当に危なくなった場所は私が潰すわ。でも、できれば最後まで派手な出番はなしで終わらせなさい」と腕を組んだ。
観客席ではオリヴィアも別の角度から異変へ気づいていた。
「レオン。今まで不具合が起きた場所を思い出せ。設備そのものではなく、その結果、人がどこへ動いたかを見るんだ」
レオンは少し考え、表情を引き締めた。「……同じ方向へ寄せられておりますな」
「ああ。偶然なら構わない。しかし偶然でないなら、次も人の配置を変えるために起きる」
さらにユリウスも、《統率者》として運営側の人数配置の偏りを見抜き、アウグストへ報告していた。
「先生、故障のたびに担当者が移動させられています。その結果、東側と裏門周辺の人員だけが少しずつ薄くなっています」
アルト側から上がった情報とユリウスの報告を照合したアウグストは、迷わず決断した。
「とりあえず体育祭は継続する。が、異常箇所には通常点検を装って人員を回せ。観客には余計な不安を与えるな。ただし次に何か動けば、即座に封じる」
警戒している相手がアルトであろうと、学校を守る場面では関係がない。その判断にユリウスも異論を挟まなかった。
◇
やがて一年生のすべての競技が終了した。
一年一組は暫定首位。ストライクが大きく得点を稼ぎ、アルト、マイルスも続いている。しかし総合結果が発表されるのは体育祭の最後だった。
「アルトくん、本当にこのまま続けるの?」
フィーネが静かに聞いた。
「怖いか?」
「少しだけねっ。でもアルトくんが止められると思ってるなら、私もやるよっ。私、ちゃんとアルトくんのそばで役に立ちたいから」
「ああ、ありがとうな。頼りにしてるぞ」
その言葉だけで、フィーネの表情が少し明るくなった。
そして体育祭はいよいよ最後の種目へ進む。
【最終種目 三年生・学級対抗団体総合競技】
三年間の締めくくりとなる競技に、観客の視線が一斉にグラウンドへ集まった。
その裏で、不視化された式神から次々と新しい情報が届く。
まだ作動していない誘導装置。細工された結界。閉鎖できるよう手を入れられた通路。魔力が不自然に集められた設備。
トウの探索結果と、ルウの魔力感知も重なる。
「……全部つながってる」
アルトが小さく呟いた。
「止められるかい?」
マイルスの問いに、アルトはしばらく会場全体を見渡した。
「俺一人じゃ無理だ。でも、これだけみんないればいけるはずだ」
その時、最終競技開始の鐘が鳴った。
大歓声が上がる。
一般の観客は誰一人として、その裏で何が起きているのか知らない。
ストライクが立ち上がり、マイルスが運営本部へ歩き出す。ユリウスも人員配置を組み替え、アリシアたち転生者もそれぞれの持ち場へ向かった。フィーネは弓を持ち、トウとルウは別方向へ視線を向ける。
アルトは会場全体へ広がった見えない式神たちから流れ込む情報を受け取りながら、静かに笑った。
「体育祭は止めさせない。何も起きていないことにする。それが一番敵の狙いから外れるはずだ」
マイルスが思わず苦笑する。
「それって、つまり全部止めるってことだよね?」
「うん。誰にも気づかれないうちに全部止めよう」
グラウンドでは、三年生たちの最後の競技が始まった。
その大歓声に紛れて、アルトたちのもう一つの競技も始まる。
勝利条件はただ一つ。
――この体育祭を、最後まで普通の体育祭のまま終わらせることだった。
次回更新は明日の12時の予定です。
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