第四十三話 偽の標識らしきものがある
第四十三話 偽の標識らしきものがある
天蓋大森林で迎えた二日目の朝は、王都の朝よりずっと暗かった。巨大な古木の枝葉が頭上を幾重にも覆い、日が昇っているはずなのに森の底には薄暗さが残っている。昨夜の焚き火の跡を完全に始末すると、アルトたちは今日の課題である救助・搬送へ向かった。
「今日の課題は、指定された区域で救助対象を見つけて、状態を確認してから救護地点まで運ぶんだったよねっ。昨日みたいに早く着けばいいっていう課題じゃないから、ちゃんと安全な道を選ばないと駄目だよ」
フィーネが確認すると、アルトも地図を見ながら頷いた。
「そうだな。特に帰りは救助対象を運ぶことになるから、行きに通れた道がそのまま使えるとは限らない。俺は紙の式神を先へ出す。鳥や虫たちにも頼むけど、そっちは別に動いてもらうから、何か見つけたら一度こっちでも確かめよう」
「昨日もそうであったが、お主の索敵範囲は日に日に広がっておるな。晴明として知っておった術を思い出しただけでは説明がつかぬ速度であるぞ」
「理屈を一から覚え直さなくていいのが大きいんだと思う。昔できたことを、今の身体でどう使うか考えればいいからな。ただ、昔と同じつもりでやると失敗することもあるし、まだ練習中だよ」
晴明として積み重ねた知識が戻って以降、アルトの成長は明らかに速くなっていた。しかし知識があることと、今の身体で同じ出力を出せることは別だ。だからこそ毎朝の鍛錬も、週末の《希望の夜明け》七人でのダンジョン攻略も、それまで以上に意味を持っていた。
紙の式神を数方向へ放ち、同時に鳥や虫たちの感覚を借りながら進む。トウも近距離を探索魔法で確認し、ルウは足場の悪い場所を魔法で整え、ノエルは救助対象を見つけた後にすぐ状態を確認できるよう準備していた。
しばらくして、アルトの式神が指定地点近くの人影を捉えた。
「見つけた。たぶん救助対象だ。ここからなら二本道があるけど、右は少し狭いな。行くだけなら通れるけど、帰りに担架を使うなら左の方がよさそうだ」
「じゃあ左から行こうよっ。少し遠くても、帰りにまた道を変えるより安全だと思う」
「うん。俺もそれがいいと思う」
救助対象役は、足を負傷して自力歩行が困難という想定だった。ノエルがすぐにしゃがみ込み、実際に怪我をしていないことも含めて状態を確認してから、担架で運ぶ判断をする。
「もし本当にこの状態だったら、無理に歩かせない方がいいわね。今日は演習だから治療する場面ではないけれど、足を固定して担架で運ぶのが安全だと思うわ」
五人で救助対象を担架へ乗せ、来た道を戻る。途中、昨日出会ったコボルトの一匹からアルトへ意思が届いた。
『そっち、人間がよく通る道だろ。少し先にゴブリンが集まってるぞ』
『ありがとう。何匹くらいいる?』
『何匹かいる。こっちには来てない』
『分かった。こっちでも確認してみるよ』
アルトはすぐ紙の式神と上空の鳥を向かわせた。言われた通り、小さなゴブリンの集団が道の近くにいる。戦えば通れない相手ではないが、担架を抱えたままわざわざ戦う理由はなかった。
「コボルトが、この先にゴブリンが集まってるって教えてくれた。式神と鳥でも確認できたから、少し迂回しよう。遠回りにはなるけど、その方が救助対象を安全に運べる」
「ダンジョンでもそうだったけど、アルト君の魔物のお友達、本当に普通に味方してくれるようになったよねっ」
「俺もここまで教えてくれるとは思ってなかったけどな。向こうが友達だと思ってくれてるなら、ありがたく頼らせてもらうよ」
フィーネが笑い、担架の向きを変える。途中、昨日話した妖怪まで古木の枝の上から姿を見せたが、アルトたちが担架を運んでいるのを見ると、『今日は忙しそうだな。またあとでな』と言って森の奥へ戻っていった。
多少遠回りにはなったものの、五人は戦闘を一度もせず救護地点まで到着した。速さだけならもっと上の班がいるかもしれない。それでも全員が無事で、救助対象も揺らさず運べたのだから、アルトはこれで十分だと思った。
救助対象を引き渡し、次の指示を確認しようとした、そのときだった。
遠くへ飛ばしていた一羽の鳥から流れ込んできた視界に、アルトは思わず顔を上げた。
「……待ってくれ。人がいる」
「この辺りなら他の一年生班じゃないの?」
「いや、場所がおかしい。かなり奥だ」
アルトは紙の式神を二体追加し、鳥の視界と重ねながら位置を確認する。浅層区域の端ではない。昨日、マリアから絶対に越えてはいけないと説明された境界よりも、明らかに向こう側だった。
そこに、見覚えのある金髪の少年がいた。
「ストライクだ。それに……マイルスもいる」
「えっ? マイルス君たち一年生だよねっ? なんで中層にいるの?」
「さあな。自分たちで入ったのか、道を間違えたのかまではまだ分からない。ただ、本人たちは気づいてないかもしれない」
フィーネがすぐに言った。
「だったら、すぐ教えてあげようよっ。アルト君なら式神から話せるでしょ?」
「おう。そうする」
紙の式神を一体、最短距離でマイルスたちへ向かわせる。本人たちに危険を知らせて戻ってもらえば、それで済む。アルト自身も、そのつもりだった。
しかし式神が木々を抜けた瞬間、アルトの表情が変わった。
「……駄目だ。遅かった。もう接敵してる」
式神の向こうでは、ストライクが剣を振るい、数頭の狼型魔物を正面から食い止めていた。アルトにだけ見える表示には、
《ウォーウルフ Lv110》
さらに能力や状態を示す情報まで続いている。それを仲間へ口にすることはない。正確なレベルという概念そのものを知る者が、この世界ではごく限られているからだ。
ストライクが一頭を弾き飛ばす。その後方ではマイルスが他の生徒をまとめ、少しずつ退路を確保しようとしていた。二人とも混乱しているわけではない。むしろ一年生としては十分すぎるほど冷静だった。
アルトは式神を通して声を飛ばした。
『マイルス! ストライク! 聞こえるか! そこは浅層じゃない、中層区域だ!』
マイルスが驚いて周囲を見回した。
「アルト!? どこから――いや、それより中層だって!? 僕たちは浅層へ戻る道を進んでいたはずだ!」
『説明はあとだ。今は離脱できそうか?』
「すぐには無理だ! ストライクが前を止めてくれているけど、こっちには戦える状態じゃない生徒もいる!」
「分かった。先生に知らせる。できるだけ無理して動くな!」
アルトは別の紙の式神をマリアのいる方向へ飛ばした。
「先生に状況を伝える。俺たちだけで中層へ入るのは駄目だ。まず救援を呼ぼう」
「それがいいと思うわ。こっちは一年生なのだし、場所が分かっているなら先生たちに任せるべきよ」
ノエルの言葉に全員が頷いた。
――その直後だった。
別方向へ飛ばしていた鳥が、巨大な翼を持つ影を捉えた。
森の上を低く飛び、木々の間を縫うように急速に移動している。進路を追ったアルトの背筋に冷たいものが走った。
《レッサーワイバーン Lv160》
「……まずい」
トウがすぐにアルトを見る。
「何か来てるんだな?」
「ああ。レッサーワイバーンだと思う。しかも進んでる先が、マイルスたちの方だ。今ウォーウルフを正面で止めてるのに、あれが後ろへ回ったら挟まれる」
フィーネの顔から笑みが消えた。
「先生は間に合いそう?」
アルトはマリアへ向かう式神、マイルスたちの位置、そして飛行するワイバーンの速度を頭の中で重ねた。晴明として身につけた複数の情報を同時に処理する感覚が、今の身体にも少しずつ馴染み始めている。
「……たぶん、間に合わない。先生が悪いんじゃない。距離がある。ワイバーンの方が先に着く」
誰もすぐには答えなかった。
一年生は中層区域への立入禁止。
昨日、はっきり説明された重大な規則だった。
アルト自身、奥からずっと懐かしい気配を感じていたのに、それを理由に境界を越えようとは一度もしなかった。
「先生には知らせた。でも、このまま待ってたらストライクたちが挟まれる。俺は先に行く。先生に怒られるのは、そのあとでいい」
「だったら、わたしも行くよっ。一人で行かせたら、その方がもっと怒られると思うし。それに助けてから一緒に怒られた方がいいでしょ?」
「うちも行くわ。実際に怪我人が出たら治療できる人間がいた方がいいもの。アルト一人を行かせる理由もないわ」
ルウも腕を組んだまま、当然のことのように言った。
「我も行く。五人で行動しておるのに、危険になった途端お主一人だけを送り出すなど、それこそ愚かな判断であろう」
「トウも行くんだな、うん。ただしアルト、一人で何でもやろうとしちゃ駄目なんだな。助けるために行って、アルトまで助けられる側になったら意味がないんだな」
アルトは四人の顔を見回し、それから頷いた。
「分かった。じゃあ五人で行こう。目的は戦うことじゃない。ストライクとマイルスたちを見つけて、全員で浅層まで戻る。それだけだ」
必要な荷物だけを持って境界へ急ぐ。その途中、アルトの紙の式神が不自然なものを見つけた。
本来の進路を示す標識とは別に、浅層へ戻る道を示しているように見える標識が一本立っている。しかし方角を確かめれば、その先は逆に中層へ向かっていた。さらに周囲には、注意して探さなければ気づかないほど薄い魔法の痕跡も残っている。
「……これ、誰かが動かしてる。それに、たぶん何かの幻惑も使われてる」
「では、あの二人が偶然道を間違えただけではない可能性があるということか?」
「よく分からないけど、その可能性はあると思う。今は触らない方がいい。先生たちが調べるかもしれないから、場所だけ覚えておこう」
アルトとフィーネたちが先へ進む間、ルウが歩調を少し緩め、隣のトウへ低い声で話しかけた。
「トウよ。お主はこれを単なる遭難だと思うか? 勇者と第一王子が揃って中層へ入り込み、その進路には偽の標識らしきものまである。偶然と考えるには、いささか出来すぎておるように我には思える」
「トウもそう思うんだな、うん。アルトたちは昨日から何度も境界を確認してたし、学校も一年生が中層へ入らないようにしてるんだな。誰かが何かしたのかもしれないんだな」
「まあ、証拠はまだないし、この件は後回しにすべきであろうな」
「うん。まず助けるんだな。犯人のことは、そのあと考えればいいんだな」
「まったく、その通りである」
二人がアルトたちへ追いつく。
やがて五人の前に、学校が設置した本物の境界標識が現れた。
【この先、中層区域 一年生立入禁止】
フィーネがそれを見上げる。
「本当にここから先なんだね。帰ったら、ものすごく怒られそうだよねっ」
「たぶんな。でも、怒られるなら五人揃って帰ってからにしよう」
「それなら、まず全員で帰りましょう。ここまで来て誰か一人でも置いて帰ったら、課題の意味までなくなってしまうもの」
ノエルの言葉に、アルトは小さく笑った。
「そうだな。行こう」
五人が境界を越えた。
数歩進んだだけで、浅層とは空気が違う。古木はさらに太く、頭上から届く光は一段弱くなり、あちこちから感じる魔物の気配も明らかに強い。アルトの目には遠くにいる存在のレベルだけでなく、ギフトや能力まで断片的に映っている。
「余計な戦闘は絶対に避ける。ここは俺たち一年生が普通に戦う場所じゃない。紙の式神と動物たちを先に行かせるから、みんなは離れないでくれ」
そのとき、森のさらに奥から、昨夜よりもはっきりと懐かしい気配が返ってきた。
アルトが一瞬だけ足を止める。
トウも同じ方向を見る。
「……アルト」
「ああ。昨日の気配だと思う。でも、今は後だ」
「うん。それでいいんだな」
次の瞬間、はるか前方から狼の咆哮と剣戟の音が響いた。
同時に上空の鳥から、レッサーワイバーンがさらに距離を詰めている光景が流れ込んでくる。
紙の式神の視界には、数頭のウォーウルフを相手に剣を振るうストライクと、その背後で仲間を守るマイルスの姿が映っていた。
アルトは迷わず駆け出した。
「見つけた! もう時間がない、急ぐぞ!」
フィーネ、ルウ、トウ、ノエルも、その背を追って中層の森を駆けていった。
次回更新は明日の12時の予定です。
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