第四十二話 じゃあ、火が消えるまでねっ
第四十二話 じゃあ、火が消えるまでねっ
天蓋大森林の浅層区域に設けられた野営地点へ到着したころには、頭上を覆う巨大な枝葉の隙間から差し込んでいた光もだいぶ弱くなっていた。森の中は外より暗くなるのが早い。アルトたちは明るいうちに野営の準備を終えるため、五人で役割を分けることにした。
「トウは近くの安全確認を頼む。俺は紙の式神と鳥たちでもう少し広く見る。ルウは水を頼めるか? フィーネとノエルは寝る場所を決めてもらえると助かる」
「分かったんだな、うん。トウが変なのがいないか見てくるんだな」
「水程度であれば造作もないが、それでは演習にならぬのではないか?」
「全部魔法で済ませたらそうだろうけど、水場まで何往復もする必要はないだろ。使えるものを使わないのも違うと思う」
「ふむ。それならば我も異論はない」
ルウが魔法で必要な水を用意している間に、アルトは複数の紙の式神を周囲へ散らし、それとは別に森の鳥や鼠、虫たちにも協力を頼んだ。紙から作った式神と、生きている動物たちは同じものではない。それでもアルトは双方と感覚を共有でき、必要なら遠くにいる式神だけでなく、動物の身体を借りて霊術まで発動できる。
晴明の記憶が戻ってから、その運用は急激に複雑になっていた。新しい術を一から考えているわけではない。前世ですでに知っている技術を、今の身体と霊力に合わせて作り直しているため、以前とは習得速度そのものが違っている。
「……水場の近くに大きい蜘蛛がいるな」
アルトが突然そう言うと、フィーネが木々の向こうを見た。
「蜘蛛? ここから全然見えないよっ?」
「鳥が上から見つけてくれた。ジャイアントスパイダーだと思う。少し待って」
アルトに見える情報ではLv45。初級ダンジョンでも中層付近に出る程度の魔物で、蜘蛛糸で相手の動きを封じる能力を持っている。ただし、今のところこちらへの敵意は感じられない。
アルトは一羽の小鳥を通して意思を送った。
『近くで野営したいんだけど、そっちへ行っても大丈夫か?』
しばらくして返事が戻る。
『巣に近づくな。卵がある』
『分かった。じゃあそっちは通らないよ。教えてくれてありがとう』
会話を終えたアルトは地図を確認し、別の方向を指した。
「蜘蛛の巣に卵があるらしい。襲う気はないけど、近づいてほしくないって。水はルウが用意してくれたし、わざわざそっちへ行く必要もないな」
「魔物と話して、向こうの都合まで聞いてから野営場所を決める一年生なんて、お主くらいであろうな」
ルウが呆れたように言う。
「向こうにも生活があるんだから仕方ないだろ。巣を壊して戦うより、お互いその方が楽だよ」
「アルト君らしいよねっ」
フィーネが笑い、ノエルも「余計な怪我人が出ないなら、それが一番よ」と頷いた。
結局、巣から十分に離れた場所を使うことにした。戦えば勝てるかもしれない相手でも、戦う理由がなければ戦わない。昼間のコボルトもそうだったが、天蓋大森林では魔物たちもそれぞれの縄張りで暮らしている。ダンジョンのように通路の先へ進むため、必ず敵を突破しなければならない場所とは違っていた。
野営の準備が整うころには、フィーネのそばに顕現していたサクラの姿が少し薄くなっていた。
『フィーネ、今日はそろそろ休むね』
「うん。今日は朝からずっと一緒だったもんね。無理しなくていいよっ」
『アルト君も、また明日ね』
「おう。またな、サクラ」
サクラは笑ってから、そのまま顕現を解いた。どこか別の場所へ移動して待つのではなく、姿を保つのをやめて休みに入ったのだ。サクラが消えた後、ノエルは何も言わず、それまでより少しだけフィーネの近くにいる時間を増やした。
夕食は五人で作った。ルウなら火も水も調理も魔法だけで済ませられるが、それでは野外大演習の意味が薄い。アルトも晴明として植物や薬草に関する知識は豊富だったが、この世界固有の植物についてはノエルの方が詳しく、食べられる草と似ているだけの草を一つずつ教えてもらっていた。
「昔の知識が戻ったのに、ノエルに教えてもらうことも多いんだねっ」
フィーネが言うと、アルトは手元の野草を見比べながら頷いた。
「そりゃそうだよ。昔いた日の本にはなかった植物なんていくらでもあるし、知ってるつもりで間違える方が危ないだろ。それに、晴明だったからって何でも知ってたわけじゃないよ」
「それをアリシア先輩が聞いたら、『そんな晴明様も素敵です!』って言いそうだねっ」
「言いそうだから困るんだよ」
今ごろアリシアは二年生として中層区域で演習中のはずだが、学校へ戻ればまた質問攻めになるのは間違いない。アルトがため息をつくと、フィーネとノエルが楽しそうに笑った。
食事と片づけを終えたころ、少し離れた木立から、魔物とも動物とも違う気配がこちらを窺っていた。
アルトが顔を上げる。
「……昼間の幽霊とは違うな」
「また何かいるの?」
「ああ。たぶん……妖怪だと思う」
晴明として生きていたころには、似た気配を何度も感じている。人でもなければ、普通の動物でも魔物でもない。人ならざる存在を、日の本では広く妖怪と呼んでいた。
アルトが何もしないで待っていると、小柄な人影のような存在が古木の陰から姿を現した。
『お前、昼間あの幽霊と話していた人間だろ』
「見てたのか?」
『見てた。魔物とも話してた。人間なのに変なやつだな』
「最近よく言われるよ」
妖怪は警戒しながらも、逃げようとはしなかった。
『幽霊を追い払わなかったのか?』
「危ない道を教えてくれた相手を追い払う理由はないだろ」
『魔物も?』
「友達になれるなら、魔物だって同じだよ。ダンジョンでは道を教えてくれたり、一緒に戦ってくれたりもする」
妖怪はしばらくアルトを見つめ、それから少しだけ前へ出た。
『じゃあ、俺とも話すか?』
「もちろん。俺でよければな」
それからしばらく、アルトはその妖怪と森について話した。天蓋大森林には人間がほとんど気づかない場所にも、人ならざる存在が暮らしていること。学校の大演習が始まる時期には、急に人間が増えるので、森の住人たちも遠くから様子を見ていること。
契約はしない。
使役もしない。
名前さえ、まだ聞かなかった。
それでも帰り際に妖怪が、
『明日も来ていいか?』
と尋ねると、アルトは普通に頷いた。
「おう。演習の邪魔にならない時間なら、また話そう」
『分かった』
妖怪が木々の間へ消える。
「本当に友達になっちゃったねっ」
フィーネが笑う。
「話しただけだよ」
「アルト君の場合、その『話しただけ』から始まって、気がついたら友達になってるんだよっ」
「そうかな」
「そうだと思う」
フィーネは迷いなく答えた。
夜が深くなり、ルウとトウ、ノエルがそれぞれ翌日の準備や周囲の確認へ向かうと、焚き火のそばにはアルトとフィーネが残った。
最初は今日出会った妖怪や魔物の話をしていたが、やがて会話が途切れ、薪の爆ぜる音だけが静かに続いた。
「ねえ、アルト君。一位になる前は、一度でいいから勝ってみたいって思ってたんだ」
「この前の精密射撃か?」
「うん。でも勝ったら、今度は『次も勝てるよね』って言われるようになって。応援してくれてるのは分かってるんだけど、次に負けたら、この前の一位まで偶然だったって思われるのかなって、少し怖くなったの」
アルトはすぐに励ますのではなく、少し考えてから答えた。
「俺はそうは思わないよ。最後の一本を待つって決めたのはフィーネだし、射抜いたのもフィーネだ。次に負けたとしても、この前フィーネが自分で勝ったことまでなくなるわけじゃないだろ」
「……アルト君は、そういうところ優しいね」
「そうかな。普通のことを言ってるだけだと思うけど」
「そういうところも含めてだよっ」
フィーネは少し笑ったあと、今度はアルトへ聞き返した。
「アルト君は困らないの? 晴明だったって分かってから、何でも知ってるって思われたりしない?」
「あるよ。記憶が戻って、前より分かることは一気に増えた。特に術は、昔なら何年もかけて覚えたことを、今は最初から理屈を知った状態で練習できるからな。でも、晴明が生きてた世界とここは違うし、今の俺の身体も昔とは違う。それなのに『晴明なら分かるだろ』って思われると、分からないって言いにくくなることはある」
「アルト君でも?」
「そりゃあるよ。よく分からないことなんて、まだいくらでもある。だから学校に来てるんだし、みんなから教えてもらうことだって多い」
「そっか。じゃあ、ちょっと一緒だね」
「ああ。一緒かもな」
それからしばらく、二人とも無理に話そうとはしなかった。それでも気まずさはなく、同じ火を眺めているだけの時間が思ったより心地よかった。
やがてフィーネが立ち上がろうとする。
「そろそろ戻ろうかな。明日も早いし」
アルトは一瞬迷ってから声をかけた。
「フィーネ。……もう少し、ここにいないか。別に話したいことがあるわけじゃないんだけど、火が消えるくらいまで」
フィーネは少し驚き、それから柔らかく笑った。
「うん。じゃあ、火が消えるまでねっ」
少し離れた場所では、周囲を確認していたルウとトウが並んで歩いていた。
「トウよ。昼間の幽霊に続いて、今度は妖怪か。あやつは本当に、人であるかどうかを気にしておらぬようであるな」
「アルトは昔からあんな感じなんだな、うん。アルトになる前から変わってないんだな」
「それにしても、サクラは今日は少し長く顕現しておったな。最後は声まで弱くなって――」
トウがぴたりと足を止める。
「ルウ、やっぱりサクラの声が聞こえてるんだな、うん」
「……我は、そのようなことを言った覚えはないぞ」
「今、自分から声が弱くなったって言ったんだな、うん」
ルウはしばらく黙ったあと、深くため息をついた。
「お主も聞こえておるではないか。それを棚に上げて我だけを追及するのはどうかと思うぞ」
「トウは聞こえないとは言ってないんだな、うん」
「……まったく、お主はこういうときだけ妙に正直であるな」
二人の視線の先では、アルトとフィーネがまだ焚き火の前に並んで座っていた。
「……あの二人も、少しずつ変わってきたようであるな」
「アルトが嬉しいなら、トウも嬉しいんだな、うん」
「そうであったな。お主はそういうやつであった」
ルウはそれ以上恋愛の話を広げず、森の奥へ視線を向けた。
「ところで夕方に感じた、あの気配。お主には心当たりがあるのであろう?」
「あるような気はするんだな。でも、まだトウから言わない方がいいと思うんだな、うん。アルトが自分で感じて、自分で思い出す方がいいんだな」
焚き火がほとんど熾火になり、フィーネが休みに戻ったあと、アルトとトウは野営地点から離れない範囲で、天蓋大森林の奥へ意識を向けた。
アルトは紙の式神を数体だけ周囲へ出し、さらに近くの鳥たちの感覚も借りる。だが、夕方に感じた気配は浅層のもっと先、中層よりさらに奥から届いているように思えた。
「トウ。やっぱり誰かいるな。さっきよりはっきり感じる」
「トウも懐かしいんだな、うん」
「誰か分かる?」
「たぶん。でも、まだ言わないんだな。焦らなくていいんだな、うん」
「そうか。なら待つよ。中層へ入るわけにもいかないしな」
アルトが静かに意識を伸ばす。
すると、巨大な木々のさらに向こうから。
夕方より、ほんの少しだけ強く。
懐かしい返事が返ってきた。
まだ名前は出てこない。
それでも、そこに誰かがいることだけは、もう疑わなかった。
次回更新は明日の12時の予定です。
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