第三話 蟻さん
アルトの蟻研究は、それからも毎日のように続いた。もちろん、それまでの日課をやめたわけではなく、朝になれば木剣を振り、父マックスと打ち合い、走って身体を鍛え、それが終われば目を閉じて身体の中にあるかもしれない何かを探し、ようやく全部終わったところで庭の隅へしゃがみ込み、砂糖やパン屑を並べて蟻たちへ話しかけるという、五歳の子供としては妙に忙しい毎日を送っていた。
「お兄ちゃん、何してるの?」
「研究」
庭へ出てきたアーニャが、しゃがみ込んでいる兄の背中から覗き込む。
「何の?」
「蟻さん」
「蟻さん?」
「うん。こいつら、俺の言ってること分かってるかもしれないんだ」
横からタクトまで顔を出した。
「兄ちゃん、蟻と喋ってるの?」
「喋ってるぞ」
「返事する?」
「それを調べてる」
「返事してないじゃん」
「だから調べてるんだって」
タクトはしばらく兄と蟻を見比べた後、アーニャへ小声で言った。
「(ボソッ)やっぱ兄ちゃん変だよ」
「おーい、聞こえてるぞ」
「あ、えへへ」
店の中からそのやり取りを聞いていたハイネが笑った。
「アルト、研究もいいけど朝ご飯冷めるわよ」
「これだけ見たら行く!」
「昨日もそう言って、パンを硬くしたでしょう」
「じゃあこれ見たら絶対行く!」
「はいはい」
アルトは蟻の前へ小さな砂糖の欠片を置いた。
「ほら。食べていいぞ」
蟻が砂糖へ近づく。
「これは普通だな」
「兄ちゃん、蟻は砂糖好きだよ」
「んなこたあ知ってるよ」
今度は少し離れた場所を指差した。
「じゃあ、こっち来てみろ」
一匹の蟻が動く。
少し迷うように左右へ揺れた後、アルトの指した方へ進んできた。
「ほら!」
「うーん、偶然じゃない?」
「アーニャまでそんなこと言うのか」
「ぐうぜんってなに?」
「……誰に教わったんだよ」
ハイネの笑い声が店の中から聞こえてきた。
まだ確信はない。
右へ行けと言えば右へ行くこともあるが、無視されることもある。止まれと言ってもほとんど止まらないし、集まれと言ったところで集まってくれるわけでもない。
しかし、何日も試しているうちに一つだけ気づいたことがあった。
アルトが本当に伝えたいと思ったときほど、蟻たちの反応がいい。
危ないから逃げろ。
ここに食べ物がある。
そっちへ行くと水がある。
そういうことは、不思議なくらい伝わることがあった。
「命令じゃないのかな」
その日の午後、アルトは町外れの草地で蟻の行列を眺めながら呟いた。
「ん?何がだ?」
すぐ横には、当然のようにルウがいた。ルウは地面へ座るのを嫌がって近くの石に腰掛け、アルトが持ってきたパンの残りを少しずつ食べている。
「俺が言ったこと、分かってても、やりたくなかったらやらないのかも」
「なるほど。それなら不思議ではないな」
「不思議じゃない?」
「我とて、お主に『あちらへ行け』と言われたからといって、理由もなく従うつもりはないぞ。言葉が分かることと、命令に従うことは別であろう?」
アルトは蟻を見た。
「……そっか」
「むしろ、その方が話が通じている可能性はあるのではないか?」
「どういうこと?」
「本当に何でも命令通りに動くのであれば、お主が操っているだけかもしれぬ。だが、聞くときもあれば聞かぬときもあるのなら、向こうが考えて決めている可能性もある」
「おお……」
アルトが勢いよく振り返る。
「ルウ、それ頭いいな!」
「我は元から頭がよい」
「自分で言う?」
「事実である」
「じゃあ確かめよう!」
「はあ、そうなると思った」
ルウは苦笑したものの、石から降りてアルトの隣へしゃがみ込んだ。
「どうやって確かめる?」
「まず、こいつらが何してるのか見る」
「それだけか?」
「だって俺の言葉が分かるなら、俺もこいつらの言ってること分かるようになるかもしれないだろ」
「ほう、なるほど。それは面白そうだな」
二人は並んで蟻を眺め始めた。
蟻同士が触角を合わせる。
「今、喋った?」
「何か伝えているようには見えるな」
一匹が餌を見つけ、しばらくすると別の蟻たちが同じ場所へ集まってくる。
「今の絶対『こっちに食べ物あるぞ』だろ」
「その可能性は高そうだ」
「じゃあ、これは?」
「おいおい、我に聞くなよ。お主の研究であろう」
「一緒に考えてよ」
「もう。仕方ない奴だ。では、あの二匹は何をしていると思う?」
こうなるとアルトは止まらなかった。
蟻が触角を合わせれば意味を予想し、進む方向が変われば理由を考え、巣へ戻る個体と外へ向かう個体の違いまで観察する。ルウも時々「それならこちらも見てみればよいのではないか」「同じ条件で何度か試さなければ分からぬだろう」と口を挟み、気がつけば二人とも地面へ這いつくばるようにして蟻の行列を眺めていた。
「お前も結構楽しんでるじゃん」
「ふっ、お主一人に任せておくと、いつまで経っても同じ蟻に話しかけていそうだからな」
「素直に面白いって言えよ」
「……まあ、少しは面白い」
「ほら」
「ほらじゃない。調子に乗るでないわ」
そんな日々が続いた。
蟻を見つければ話しかけ、反応を覚え、家へ帰れば思い出せる範囲で紙へ印をつける。まだ文字を十分に使いこなせないので、右へ動けば丸、反応しなければ横線、何か伝わってきた気がすれば星のような印を描いた。
マックスはその紙を見て首を傾げた。
「お?これは何だ?」
「蟻さんの記録」
「剣の練習より真面目に記録してないか?」
「剣は身体が覚えるだろ。蟻さんは忘れるから」
「なるほど?……分かるような分からんような?」
「父さんもやる?」
「え?いやあ、遠慮しとく」
「面白いのに」
「あー、ほら、父さんは蟻より人間の相手で十分忙しいからな」
それでもマックスは、息子が何かに夢中になっていること自体は嬉しいらしく、仕事から帰ると「今日は蟻さん何て言ってた?」と聞くようになった。
そして季節が一つ、また一つと巡り、アルトは六歳になった。
身体は少し大きくなり、以前は両手で振るだけでも大変だった木剣も、今ではかなり軽く感じるようになった。父との朝稽古でも、ただ転ばされるだけだった頃とは違い、何度か木剣を受け、時には身体をずらして攻撃をかわすこともできる。
「いくぞ」
「おう!」
マックスが木剣を振り下ろす。
アルトは肩を見る。
腰を見る。
足を見る。
半歩ずれる。
ブンッ!
木剣が目の前を通り過ぎた。
「よし!」
「喜ぶのはまだ早いぞ」
二撃目。
カンッ!
今度は自分の木剣で受ける。
力では勝てないので、そのまま二歩ほど後ろへ押された。
「お前、本当にかわすの上手くなったな」
「毎日やってるからじゃない?」
「まあ、それはそうなんだろうけどな」
「父さんも毎日やったらもっと強くなるぞ」
「お前に言われるようになったか」
「昨日休んでただろ」
「大人には休みも必要なんだよ」
「俺も大人になったら休むの?」
「お前は休まない気がする」
「俺もそんな気がする」
二人で笑った。
朝稽古を終えたところで、タクトとアーニャが店の裏から顔を出した。
「兄ちゃん、今日も蟻さん?」
「あとでな」
「鳥さんは?」
「鳥はまだよく分かんない」
「喋れたら教えてね!」
「おう」
アルト自身は気づいていなかったが、家族にとっても、いつの間にか「アルトが蟻と話している」という妙な光景は日常の一部になっていた。
◇
その日の午後、アルトはルウと一緒に町外れへ出ていた。
「今日はこっちの巣を見る」
「昨日とは別の巣か?」
「うん。同じ蟻さんだけだと、その巣だけ変なのかもしれないだろ」
「ほう。随分と研究らしくなってきたではないか」
「だろ?」
「全く、褒めるとすぐこれだ」
「でも褒めたんだろ?」
「まあな。最初よりはずっと考えておるな」
「よし」
アルトが嬉しそうに笑うので、ルウも小さく笑った。
町外れの古い木の根元に、大きな蟻の巣があった。いつものようにアルトがしゃがみ込み、ルウも隣から覗き込む。
しかし、その日は少し様子が違った。
「あれ?」
「どうした?」
「みんな変だ」
普段なら餌を運んだり外へ向かったりしている蟻たちが、今日は妙に慌ただしく、ほとんど同じ方向へ動いている。
「ふむ。巣を移しているようにも見えるな」
「うん。でも……」
アルトは黙った。
胸の奥がざわつく。
蟻たちの動きをじっと見ているうちに、以前雨を察したときよりも強い何かが頭へ流れ込んできた。
声ではない。
それでも、意味がある。
《熱い》
《危ない》
《逃げる》
アルトが勢いよく顔を上げた。
「ルウ」
「どうした?」
「今、分かった」
「蟻の言っていることが?」
「たぶん。熱いって。危ないから逃げてる」
ルウは蟻の動きを見てから、周囲を見回した。
「ならば、何か熱を出すものが近くにあるのかもしれぬな。風向きも見てみるか?」
「風?」
「煙や臭いがあるなら、風上に原因があるかもしれぬ」
「それだ!」
二人で立ち上がる。
アルトは鼻を動かした。
「……なんか臭わない?」
「少し焦げ臭いな」
ルウが指差す。
「向こうだ」
そこには、町外れに建てられた古い物置小屋があった。外から見た限り煙はほとんど出ていないが、近づくにつれて焦げ臭さが強くなってくる。
「ちょっと見てくる」
「我も行く。ただし、中には入るなよ。火なら危険だ」
「分かってる」
扉の隙間から中を覗く。
積まれている干し草の一部が赤く燻っていた。
その下から、小さな炎が上がる。
「火だ!」
「アルト、大人を呼ぶぞ!」
「うん!」
二人はすぐに町へ向かって走った。
「火事だ! 誰か来て!」
最初に気づいたのは、近くで荷物を運んでいた男だった。
「火事? どこだ?」
「あっちの物置! まだ小さいけど燃えてる!」
ルウもすぐに続ける。
「我も確認した。干し草に火が移っておる。急いだ方がよい」
「本当か!?」
男が走り出し、声を聞いた町の人たちも集まってくる。
「水を持ってこい!」
「桶だ! 井戸から汲め!」
「干し草を外へ出せ!」
騒ぎはすぐに広がった。
アルトも水桶を持とうとしたが、大人用の桶は重すぎて持ち上がらない。
「くそ、重い!」
「アルトちゃん!」
聞き覚えのある声に振り返ると、オウサカおばちゃんが小さな桶を持って走ってきた。
「これ使い!」
「おばちゃん!」
「小さいけど、あんたにはこっちや!」
「ありがとう!」
「無茶したらあかんで!」
「分かってる!」
反対側からはダンおじさんも駆けつけていた。
「アルト! 火の近くまで行くなよ! 水は俺らに渡せ!」
「おう!」
昨日、自分に飴やリンゴをくれた人たちが、今度は火を消すために走り回っている。
アルトは小さな桶へ水を汲み、大人のところまで何度も運んだ。ルウも隣で同じように動き、二人で何往復したか分からなくなった頃、ようやく火は完全に消えた。
「消えた……」
アルトは地面へ座り込み、大きく息を吐いた。
幸い、物置の一部と干し草が焼けただけで済んだ。もしもう少し発見が遅れていれば、乾いた草へ一気に燃え広がり、近くの建物にまで火が移っていたかもしれないらしい。
「アルト!」
騒ぎを聞きつけたマックスが走ってくる。
「父さん!」
「お前、怪我してないか!?」
「してないぞ。ルウも大丈夫」
「そうか……よかった」
マックスは息を吐き、それから息子の頭を少し乱暴に撫でた。
「お前が見つけたんだって?」
「うん。でも最初に教えてくれたのは蟻さん」
「……蟻?」
「蟻さんが逃げてて、《熱い》《危ない》《逃げる》って言ってたんだ。それでルウが、何か熱いものがあるなら風向きを見てみようって言ってくれて、そしたら焦げ臭くて」
「待て待て待て」
マックスが両手を上げた。
「最初からもう一回いいか?」
「だから、蟻さんが――」
「そこは聞いた。そこが分からん」
「なんで?」
「普通は蟻が喋らないからだよ」
「声が聞こえるんじゃないぞ。なんとなく分かるんだ」
「それをもっと早く言え」
「言ったと思うけど」
「父さんは初耳だ」
「そうだっけ?」
アルトが首を傾げると、隣にいたルウが小さく笑った。
「アルトの言うことは本当だと思うぞ。少なくとも、蟻の動きがおかしいことに最初に気づいたのはアルトだ。その後、熱い、危ないと感じたと言い出したので周囲を調べたら、実際に火が見つかった。偶然だけで片づけるには、少々出来すぎておる」
「ルウもそう思う?」
「うむ。お主が何を感じているのかまでは我には分からぬが、何かを感じ取っている可能性は十分にあると思う」
「やっぱり!」
自分一人の思い込みではないかと、心のどこかではまだ少し不安だっただけに、ルウにそう言ってもらえたことがアルトには嬉しかった。
「ただし」
「なんだよ」
「一度上手くいったからといって、何でも分かると思うでないぞ。今日のことをきちんと記録して、また同じようなことが起きるか確かめた方がよい」
「分かってるって。帰ったら書く」
「ならばよい」
マックスは二人を交互に見てから、何とも言えない顔で頭を掻いた。
「蟻かあ……」
「父さんもやってみる?」
「何を?」
「話す」
「えー?遠慮しとく」
「面白いのに」
「父さんは、お前の話を聞くだけで十分面白いよ」
そこへ、消火を終えたダンおじさんがやって来た。
「おい、アルト」
「ん?」
「お前が見つけたんだってな」
「蟻さんが教えてくれた」
「……まあ、その辺はよく分からねえけど、お前が見つけてくれたのは間違いねえんだろ。助かったぞ」
ダンおじさんはそう言うと、大きな手でアルトの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「いてて。髪ぐちゃぐちゃになるって」
「昨日のリンゴ一個じゃ足りなかったな。今度二個やる」
「またくれるの?」
「今度は元気出せじゃねえぞ。火事見つけてくれた礼だ」
「じゃあ三個」
「調子乗んな。一個に戻すぞ」
「二個でいい!」
「最初からそう言ってんだろ!」
周りの大人たちから笑い声が上がった。
「アルトちゃん、よう見つけたなあ」
オウサカおばちゃんも小さな桶を抱えたまま近づいてくる。
「昨日は飴ちゃんやったけど、今日は何がええ?」
「また飴ちゃん!」
「結局それかいな」
「だって美味しかったし」
「ほな、また店おいで。ルウちゃんにもあげるわ」
「我にもか?」
「一緒に見つけたんやろ? ほんなら二人ともや」
「それはありがたい」
「ルウ、俺の分まで食うなよ」
「誰がお主の分まで食べると言った」
「昨日二個目欲しがってたじゃん」
「それはそれ、これはこれだ」
「なんだよ、それ」
「お主が昨日言っておったではないか」
「……言ったっけ?」
「言っておったぞ」
「なら仕方ないな」
「何が仕方ないのだ」
また笑い声が起きた。
アルトも一緒になって笑った。
そのとき、昨日のことを思い出した。
腕いっぱいの飴やリンゴやパンを抱え、なぜか涙が止まらなくなったこと。
この町が好きだと思ったこと。
いつか強くなったら、困っている人を助けられるだろうかと母に聞いたこと。
アルトは黒く焦げた物置を見た。
別に強くなったわけではない。
剣で何かを倒したわけでもない。
魔法を使ったわけでもない。
水桶だって大人用のものは持てず、オウサカおばちゃんに小さな桶を貸してもらった。
それでも今日は、自分が最初に火事へ気づいたことで、ほんの少しだけ町の役に立てた。
「……母さんに言わなきゃ」
「何をだ?」
マックスが聞く。
「昨日、強くなったらみんなに何か返せるかなって話したんだ。でも俺、まだ強くないのにちょっと返せた」
マックスは一瞬黙り、それから笑った。
「そうか」
「うん」
「じゃあ帰ったら自分で話してやれ。母さん、喜ぶぞ」
「おう!」
アルトは元気よく答えた。
◇
家へ帰ると、話を聞いたハイネは最初こそ青ざめた。
「火事!?」
「うん。でも中には入ってないぞ。ルウにも止められたし」
「当たり前でしょう! 絶対に入っちゃ駄目よ!」
「分かってるって」
「本当に怪我してない?」
「ないよ。ほら」
アルトが両腕を広げてみせると、ハイネはようやく安心したらしく、大きく息を吐いた。
「もう……心配させないでよ」
「でも母さん」
「何?」
「昨日言っただろ。強くなったら、町のみんなが困ってるとき助けられるかなって」
「言ってたわね」
「今日、俺まだ強くないけど、ちょっとだけ助けられたぞ」
ハイネは息子を見つめた。
「蟻さんのおかげだけどな」
「そう」
ハイネは笑うと、アルトの頭を撫でた。
「じゃあ、ちゃんと蟻さんにもお礼しないとね」
「あ、そうか!」
「そこは今まで考えてなかったの?」
「研究のことで頭いっぱいだった」
「誰かさんのギフトを見てなかったときと同じね」
「母さん、それルウから聞いた?」
「聞いたわよ」
「ルウー!」
「我は事実を話しただけだ!」
いつの間にか一緒に家まで来ていたルウが、店先から答える。
「なんでも母さんに言うなよ!」
「別に秘密にしろとは聞いておらぬ」
「そうだけど!」
ハイネは二人を見ながら楽しそうに笑った。
「それで、蟻さんへのお礼はどうするの?」
「砂糖あげる」
「店の商品を勝手に持っていかないでね」
「ちょっとだけ!」
「ちょっとでも駄目」
「母さん、お願い!」
「お手伝いしたら少しだけあげる」
「何すればいい?」
「店の前を掃いてきて」
「分かった!」
「我も手伝おう」
「ルウはいいのよ?」
「我も蟻を調べておったからな。礼をするなら一緒にした方がよかろう」
「じゃあ二人でお願いね」
「おう!」
「承知した」
二人は箒を持って店の前へ飛び出していった。
◇
その日の夕方、アルトとルウは町外れの蟻の巣へ戻った。
火事の騒ぎはすっかり収まり、いつもの静けさが戻っている。逃げていた蟻たちも少しずつ巣の周辺へ戻り始めていた。
アルトはハイネからもらった砂糖を、巣穴から少し離れたところへ置いた。
「ありがとな、蟻さん」
蟻たちが少しずつ集まってくる。
「これで礼になるかな」
「少なくとも喜んではおるように見えるぞ」
「ルウにも分かる?」
「見れば分かる程度にはな。ずいぶん集まっておるではないか」
「そっか」
アルトは嬉しそうに蟻たちを眺めた。
しばらくして、一匹の蟻が砂糖から離れ、アルトの方へ歩いてきた。指先を地面へ置いてみると、その蟻は逃げることなく指へ登ってくる。
「お?」
「随分と懐かれたものだな」
「蟻って懐くの?」
「我に聞かれても知らぬ」
「お前、結構知らないことあるよな」
「お主よりは少ないと思うぞ」
「ほんとか?」
「おそらく」
「おそらくじゃん」
二人で笑った。
そのときだった。
指先に乗った蟻から、ごく小さな何かが伝わってきた。
今までの《危ない》《熱い》よりもずっと弱く、気を抜けば見逃してしまいそうなほど淡い感覚だった。
《また》
「…………」
「どうした?」
「今、なんか聞こえた」
「何と?」
「《また》って」
ルウはアルトの指先にいる蟻を見た。
「ならば、また来ればよいではないか」
「うん」
アルトは指を地面へ下ろし、蟻が降りるのを待った。
「またな」
蟻は砂糖の方へ戻っていく。
アルトは立ち上がり、膝についた土を払った。
「帰ろうぜ」
「うむ。そろそろ夕食の時間だな」
「今日何かな」
「我に聞くな」
「ルウも食ってく?」
「よいのか?」
「母さんに聞いてみる」
「ならば行くとしよう」
二人が並んで歩き始めたとき、頭の上から小さな鳴き声がした。
チチッ。
「ん?」
アルトが見上げる。
木の枝に、一羽の小鳥が止まっていた。
茶色い羽をした、どこにでもいそうな小さな鳥である。
チチッ。
アルトと鳥の目が合った。
その瞬間、頭の中に何かが浮かんだ。
《腹減った》
「…………」
アルトは立ち止まった。
「どうした、アルト?」
「ルウ」
「なんだ?」
アルトは木の上を指差した。
「今、あいつ……腹減ったって言わなかった?」
ルウも鳥を見上げる。
鳥はもう一度、小さく鳴いた。
チチッ。
《腹減った》
アルトはしばらく黙っていたが、やがて眉を寄せた。
「……蟻さんだけじゃないのか?」
ルウは少し驚いた顔でアルトを見てから、鳥へ視線を戻した。
「どうやら、また研究することが増えたようだな」
「……うん」
アルトの顔から驚きが消えた。
代わりに、いつもの好奇心に満ちた笑顔が浮かぶ。
「明日、パン持ってこようぜ!」
「くくく。そう言うと思った」
二人は顔を見合わせて笑った。
今日一日で、アルトには分かったことが二つあった。
蟻たちは、本当に何かを伝えているらしいこと。
そして、自分にも町のみんなの役に立てることがあるということ。
ただし三つ目については、まだ何も分かっていなかった。
なぜ、ギフトを持たず、魔力さえないはずの自分に、蟻や鳥の言葉が分かるのか。
その答えを知るには、まだずっと長い時間が必要だった。
次回更新は明日の12時の予定です。
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