第十九話 深層――話せる魔物、話せない呪い
# 第十九話 深層――話せる魔物、話せない呪い
中層最深部へ到達した《希望の夜明け》は、そこまで二年間ダンジョンへ通い続けてきた経験があるからこそ、深層と書かれた扉をその場で開けるような真似はしなかった。冒険者組合に残る記録を調べ、深層経験者から話を聞き、学校でも魔物や罠について調べてみると、浅層や中層とは危険の種類そのものが違うことが分かってきた。
「魔物が強くなるだけなら、まだ分かりやすかったんだけどな。地図が変わる場所がある、呪われてる場所がある、知能の高い魔物が住み着いてる、冒険者組合の巡回もほとんど来ない……これ、本当に初級ダンジョンなのか?」
「深層まで潜る者が少ないから初級のままなのであろう。少なくとも、初めてダンジョンへ入った者が気軽に散歩する場所ではないことだけは確かであるな」
ルウの言葉にアルトも頷き、七人は装備を見直し、食料と水、治療用品、ロープ、予備武器だけでなく、途中で一晩過ごす可能性まで考えた準備を整えてから深層へ向かった。
扉を越えて最初に起きたのは、意外にも戦闘ではなかった。
《嫌》
《怖い》
《行かない》
いつも先行探索を手伝ってくれるネズミたちが、深層への階段を前にして一斉に足を止めたのである。
「そっか。嫌なら無理しなくていいよ。ここまでいつもありがとな。ご褒美はちゃんと渡すから、今日は帰っていいぞ」
《帰る》
《アルト。気をつける》
「おう」
ネズミたちが戻っていくのを見送り、アルトが立ち上がると、トウが胸を張った。
「ここからはトウが近くをちゃんと見るな。二十メートル以内なら任せていいぞ。うん」
「頼む。俺は広く見るけど、細かいところはトウの方がずっと正確だからな」
「うん。任せろ」
ネズミの力を借りられなくなったからといって、索敵がなくなったわけではない。むしろ今まで頼っていた方法が一つ減ったことで、七人はそれぞれの役割を改めて意識するようになった。
◇
深層へ入ってすぐ、甲殻に覆われた大きな獣と遭遇した。
《フェンリルの友》
「そうだ。向こうへ通りたいんだけど、いい?」
《なら敵ではない。通れ》
「ありがとう」
あっさり通れたので、ガルドが笑う。
「深層でも半分くらいはこれで済むなら助かるのう」
「そうだといいけど、たぶん次くらいで裏切られるぞ」
アルトの予想はすぐ当たった。
次の通路を守っていた四足の魔獣は、《フェンリルの友》だと理解したうえで、低く唸った。
《知っている》
「じゃあ、通してくれる?」
《駄目》
「縄張り?」
《命令》
「誰の?」
《分からない》
「分からない相手の命令でも守るのか?」
《ここを守れ。それだけ知る》
アルトは少し考えてから剣を抜いた。
「退く気は?」
《ない》
「そっか。じゃあ仕方ないな。ガルド前、レオン左、フィーネは相手の動きを見てから撃ってくれ。トウは周囲に追加が来ないか確認、ノエルは後ろ、ルウは俺たちが崩れたところを頼む」
「承知であります!」
深層の魔獣は強かった。ガルドの盾を正面から押し込み、レオンの剣を厚い毛皮で受け、フィーネの矢さえ浅くしか刺さらない。
「硬いな!」
「正面から斬っても浅いであります!」
「じゃあ開ける!」
アルトは左手を振る。
「ファイアボール!」
火球を放つが、魔獣は横へ跳んでかわした。
「やっぱ速いか……だったら風なら?」
これまで風は、身体を浮かせたり、矢や火球の軌道を補助したりする使い方が中心だった。だが、横へ押すだけではなく、もっと狭く、もっと薄く、刃のようにまとめたらどうなるのか。
腕を振る。
風を一点へ集める。
「エアカッター!」
ヒュンッ!
目にはほとんど見えない風の刃が走り、魔獣の頬の毛をまとめて切り裂いた。
《痛い!》
「おお、切れた!」
「喜ぶのは後にせよ!」
「分かってる!」
魔獣がアルトへ顔を向けた瞬間、ガルドが盾で押し返し、レオンが脇へ回る。
「今なら入るであります!」
「フィーネ、同じところ!」
「分かった!」
アルトがもう一度エアカッターで毛皮を裂き、その傷へフィーネの矢が突き刺さる。最後はレオンの剣が同じ場所へ入り、ようやく魔獣が倒れた。
戦いが終わると、アルトは自分の手を見る。
「これ、かなり便利だな。火みたいに燃え移らないし、遠くまで届くし、細いところも狙える」
「ただし、今のところ威力はファイアボールより低そうであるな」
「じゃあ毎日練習すればいいだろ」
「聞くまでもなかった」
それ以降、エアカッターは《希望の夜明け》の戦闘で頻繁に使われるようになった。ロープを切る、蜘蛛の糸を断つ、草や蔓を払うといった探索用途にも便利で、アルト自身も「風って思ったより何でも出来るな」と気に入っていった。
◇
深層を何度か探索した頃、今までとはまるで違う相手に出会った。
2メートルを超える大きな身体で二足歩行し、粗末ながら槍や革の防具まで身につけた魔物の集団が、分岐路の一つを塞いでいたのである。オークである。
「人……じゃないよね?」
フィーネが小声で言う。
「魔物だと思う。でも、待ってくれ」
アルトは武器を下げたまま話しかける。
「俺の言葉、分かる?」
先頭にいた魔物がアルトを見る。
《分かる。人間、何しに来た》
アルトは思わず目を丸くした。
「めちゃくちゃ話せるな」
《お前も我らの言葉を分かる。変な人間》
「それはよく言われる。俺たちは奥へ行きたいだけで、そっちの巣を荒らすつもりはない」
《我らの住処へ入るなら戦う》
「住処じゃない道は?」
魔物は右側の通路を指した。
《そちらなら構わない。ただし奥は変だ》
「変?」
《地面が怒っている》
「地面が?」
《仲間、何匹か行った。戻らない。嫌なものがある》
フィーネがアルトの袖を引く。
「普通に会話してるね……」
「俺もびっくりしてる」
ルウも魔物を観察しながら言う。
「ここまで明確に意思を交わせるなら、もはやお主は魔物の通訳まで出来るということであるな」
「同じ魔物でも全然違うんだな。喋れる奴もいれば、腹減ったしか言わない奴もいるし、命令を守る奴もいる」
アルトは少し考えた。
「『魔物』ってまとめて呼んでるけど、中身は全然同じじゃないじゃん」
その疑問は、まだ小さなものだった。
しかし後にアルトが、人族と魔族の争いそのものを見るようになったとき、この深層で感じた違和感は大きな意味を持つことになる。
◇
土の力が現れたのは、そのさらに奥でのことだった。
大型魔獣との戦闘が終わった直後、天井から低い音が響く。
「崩れる!」
トウが叫ぶより早く、岩が落ち始めた。
「ガルド!」
「受けるぞ!」
ガルドが盾を構えるが、落ちてくる岩の量が多すぎる。ルウも魔法を使おうとしたが、アルトは反射的に地面へ掌を向けていた。
「止まれ!」
ドンッ!
目の前の床が大きく盛り上がり、土と石が重なった壁となって立ち上がる。
次の瞬間、落石が激しくぶつかった。
ドドドドドッ!
土壁は大きくひび割れたものの、その数秒で七人が安全な位置へ逃げ込むには十分だった。
「アルト君、今のも魔法?」
「……たぶん?」
ガルドが土壁を叩く。
「こんなものまで作れるなら、ワシの盾と合わせればかなり守りやすくなるぞ」
「それだな。あと崩れそうなところ補強したり、足場作ったり出来るかもしれない」
ルウは呆れたように息を吐いた。
「火、風、水の次は土か。本当に節操なく増えていくな」
「使えるもの増えるのはいいことだろ?」
「それは否定せぬ」
それからアルトは、土壁を作るだけでなく、地面に小さな段差を作ったり、石を少しだけ動かしたり、崩れやすい足場を固めたりする練習を始めた。派手な攻撃には向かなかったが、ダンジョンではむしろその方が役に立つ場面が多かった。
◇
深層で最も奇妙だったのは、魔物たちが避けている区画だった。
「ここから先、反応が急になくなるな。うん。何もいないというより、みんな近づかない感じがする」
トウの言葉どおり、その区域には魔物の気配が一切ない。壁や床には見慣れない線が何重にも刻まれ、円や文字のような形が複雑につながっている。
「魔法陣か?」
ルウがしゃがみ込む。
「似てるけど……なんか違う」
「お主には分かるのか?」
「よく分からない。でも、この線は……ここから外へ出さないためのもの、みたいに見える」
アルト自身、なぜそう思うのか説明出来なかった。
そのとき、床の一部から黒い霧のようなものが滲み出した。
「下がれ!」
ルウがアルトを引く。
黒い霧に近づいただけで頭が重くなり、気分が悪くなる。
「これ、嫌な感じするな」
「普通の魔法とは違うかもしれぬ。触れるな」
霧が少しずつこちらへ広がってくる。
アルトは床の線を見る。
意味は分からない。
でも、何となく「境目」が必要な気がした。
指で床へ一本の線を引く。
(ここから出るな)
そう強く思った瞬間、空気がわずかに震えた。
ピンッ。
何もないはずの場所へ透明な膜でも張られたように、黒い霧が線のところで止まった。
「……止まった?」
フィーネが息を呑む。
「アルト、今何をした?」
「俺も分かんない。出てくるなって思って、線引いただけ」
「壁もないのに止まっておるぞ」
十秒ほどで膜の感覚は消え、霧が再び広がり始めたため、七人はすぐにその区画を離れた。
◇
学校へ戻って線や紋様を写した紙をエレウスたちに見せると、専門の教師から「呪術系の術式に似ている」と教えられた。
「呪術?」
「害を与えるものだけを呪術と呼ぶわけではありません。対象へ作用を残したり、特定の条件で効果を起こしたりする術もあります。ただ、この形は私の知る一般的な術式とは少し違いますね」
アルトは何枚も写した線を机へ広げた。
「この線は流れを止めてる気がする。こっちは外へ向いてるから、何かを押し返すのかな」
エレウスが驚く。
「読めるんですか?」
「文字は読めない。でも、見てると何となく役割が分かるような気がする」
ルウはその横でずっと黙っていたが、帰り道になってから口を開いた。
「アルト。火、風、水、土までなら、我も妙な魔法だと思えばまだ納得出来た」
「うん」
「だが、あの境界は我の知る魔法とはかなり違う。お主が使っているものを、すべて同じ《魔法》と呼んでよいのか、我にはますます分からなくなってきた」
「じゃあ何なんだろ」
「それが分かれば苦労せぬ。ただ、いつか答えは出るかもしれぬな」
「じゃあ分かるまで練習するか」
「結局そこへ戻るのだな」
「他に出来ることないだろ?」
ルウは少し笑った。
「そうであるな」
◇
季節が巡り、アルトは十五歳になった。この頃には一回あたり一人二十万ガルを下らない報酬を得られるようになっていた。
深層へ潜り続けるうちに、火、風、水、土はいずれも実戦でかなり安定して使えるようになり、エアカッターもファイアボールと並ぶアルトの主要な遠距離攻撃になっていた。風による浮遊も、数秒ではなく数十秒なら維持出来るようになり、前後左右へゆっくり移動する程度なら可能になっている。
「ルウ、もうこれは飛んでるだろ?」
地面から数メートル浮いたアルトが得意げに聞く。
ルウはしばらく見上げてから頷いた。
「今回は認めてもよかろう。少なくとも跳んでいるだけとは言えぬ」
「やった!」
「ただし調子に乗って天井へ頭をぶつけるなよ」
「そんなこと――」
ゴンッ!
「痛っ!」
「言ったそばから何をしておる!」
深層で出会う知性の高い魔物との意思疎通も、さらに明瞭になっていた。人間とほとんど変わらないほど会話出来る相手もいれば、感情しか伝わらない相手、捕食欲しかない相手もいる。
「やっぱ魔物って名前だけでまとめるの、変な気がするな」
アルトのその感想に、フィーネが少しだけ考え込むような顔をした。
◇
そして十五歳になってしばらくした頃、《希望の夜明け》はついに深層の最奥近くへ到達した。
そこにあったのは、冒険者組合が設置したものではない巨大な扉だった。
古い。
何年前のものなのかさえ分からない。
表面には、深層で見た呪術らしき紋様よりさらに複雑な線と、誰にも読めない文字が刻まれている。
「……これ」
アルトが立ち止まった。
「どうしたの、アルト君?」
「見たことある気がする」
ルウが扉を見る。
「どこでだ?」
「分かんない。でも……なんか知ってる」
トウが扉の向こうへ意識を向ける。
「向こうに何かあるな。でも探知が通らない。こんなの初めてだな。うん」
ルウも表情を引き締めた。
「我も嫌な感じがする。この扉は今までのものとは違うぞ」
フィーネがアルトを見る。
「開ける?」
アルトはしばらく扉を見つめた。
猛烈に開けたい。
この向こうに何があるのか知りたい。
それでも首を横に振った。
「今日は帰ろう。これは情報がなさすぎる。扉の模様を全部写して、装備も見直して、それでも大丈夫だと思ってから七人で来ようぜ」
レオンが頷く。
「その判断が最善であると思うであります」
「ワシも賛成じゃ。ここまで来て無理して全滅したら笑えんからのう」
七人は扉の紋様を出来る限り記録し、その日は引き返した。
◇
その夜、アルトは現在の記録をまとめた。
【《希望の夜明け》――十五歳・深層最奥到達時】
《アルト Lv82》
《剣術 熟練度8》
《体術 熟練度7》
《意思疎通 熟練度9》
《加護 神獣の友》
火――火球、連射、広範囲火炎。
風――飛行、落下制御、軌道補助、《エアカッター》。
水――水球、水流操作、消火、足止め。
土――土壁、足場作成、小規模な地形操作。
結界らしきもの――短時間の境界形成。
呪術らしきもの――簡単な術式の解析。
《魔力操作 熟練度――》
《レオン Lv70》
《剣術 熟練度8》
《ギフト 剣技(小)》
《ガルド Lv69》
《防御 熟練度8》
《ギフト 盾(小)》
《トウ Lv67》
《探知 熟練度8》
《ギフト 探知(小)》
ただし、ときどき表示が《――》になる。
《フィーネ Lv65》
《弓術 熟練度8》
《ギフト 弓力(微)》
《ノエル Lv62》
《回復 熟練度7》
《薬草 熟練度9》
《ギフト 回復(小)》
《ルウ Lv――》
《魔力操作 熟練度――》
《ギフト 魔力(小)》
「ルウは今日も壊れてるな」
もう驚きもしない。
アルトは記録帳の横へ、深層最奥で写した扉の模様を置いた。
じっと見る。
知らない文字。
知らない模様。
知らないはずなのに、胸の奥が妙にざわついた。
「……これ、何なんだろ」
その瞬間だった。
夜。
見たこともない大きな都。
星空。
白い装束。
細い指が、紙の上へ何かを書いている。
ほんの一瞬だけそんな光景が頭をよぎり、すぐ消えた。
「……今の、何?」
答えは出なかった。
ただ、十五年間ずっと何かを思い出せずにいた扉が、ほんの少しだけ開いたような気がした。
次回更新は明日の12時の予定です。
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