第十二話 犬の鼻
# 第十二話 犬の鼻
八歳になった翌日、アルトは昨日知り合った犬のポチと一緒に町の外れまで来ていた。もちろん「森にいる大きな何か」が気になって仕方なかったのだが、ポチが《怖い》と言っていた以上、いきなり森へ入るつもりはなく、まずはいつもの小鳥たちから情報を集めることにした。
「森の奥に大きい奴がいるんだって?」
枝に止まった鳥が首を傾げる。
《いる》
「どんな奴?」
《大きい》
「それは聞いた」
《強い》
「それも聞いたなあ。何なんだ?」
《森。奥》
「だから名前とか分からない?」
《名前?》
「やっぱ無理か」
横にいたルウが少し考えてから口を開いた。
「我らが使っておる種族名を、鳥も同じように使っているとは限らぬであろう。鳥にとっては、大きくて強くて森の奥にいるもの、それで十分なのかもしれぬ」
「そっか。じゃあ鳥に『熊か?』って聞いても、熊って名前を知らなかったら分かんないのか」
「そういうことだと思うぞ」
「じゃあポチは?」
アルトが足元を見る。
「森の大きい奴、襲ってくるのか?」
《怖い》
「怖いのは分かった。見つかったら襲われる?」
ポチは少し考えるように鼻を動かした。
《たぶん。違う》
「違う?」
《近づかない。みんな》
「みんな避けてるから、襲うかどうか分からないってことか?」
《そう》
「なるほどな」
アルトは森を見た。
「じゃあ今は行かない」
「それでよい」
ルウがすぐに頷く。
「危険かどうかも分からぬ相手へ、興味があるという理由だけで会いに行く必要はないからな」
「うん。鳥に見てもらうくらいにしとく」
「ずいぶん慎重になったではないか」
「父さんと先生に何回も言われたからな」
「成長したということだ」
「褒めてる?」
「もちろんだ」
アルトは少し嬉しくなった。
そのとき、ポチが急に地面へ鼻を近づけた。
《猫》
「猫?」
《昨日》
「昨日?」
《ここ。通った》
アルトは地面を見た。
ただの土である。
「昨日通った猫の匂いが残ってるの?」
《ある》
「どれ?」
《これ》
「俺には何も分かんないぞ」
ポチが不思議そうにアルトを見る。
《鼻。弱い》
「人の鼻はこんなもんなんだよ」
するとアルトの目が少しずつ輝き始めた。
「……ルウ」
「その顔は何か思いついたな」
「鳥の目と耳、借りられただろ?」
「うむ」
「犬の鼻も借りられるかな」
ルウは一瞬だけ考えた。
「理屈だけなら、試してみる価値はありそうだな」
「だろ?」
「ただし、鳥の視覚を初めて借りたときのことを忘れるな。いきなり大量の情報が入れば、また倒れるかもしれぬ」
「じゃあ座ってやる」
「それならよかろう」
アルトは草の上へ腰を下ろし、ポチへ意識を向けた。
「ポチ、鼻で感じてるやつ、俺にも分けてくれる?」
《鼻?》
「匂い。俺も感じたい」
《いい》
「ありがとな」
鳥のときと同じように、自分から何かを送り込むのではなく、ポチから流れてくるものを受け取ろうとする。
最初は何も起こらない。
もう一度。
(ポチが感じてる匂いを、俺にも)
次の瞬間だった。
「うわっ!」
アルトは思わず鼻を押さえた。
「どうした?」
「く、臭い!」
《普通》
「普通じゃないって!」
土の匂い。
草。
木。
鳥。
人。
遠くを通った馬。
昨日ここを歩いたらしい猫。
どこかから漂ってくる食事。
さらには町の方角から肉を焼く匂いまで、今までなら一つか二つしか意識出来なかったものが、一気に押し寄せてくる。
「うわあ……情報多すぎる」
ルウが笑いを堪えながら尋ねる。
「便利なのであろう?」
「便利だけど、最初はすごいぞ、これ」
「鳥の目のときも似たようなことを言っておったな」
「でもちょっと待って……」
アルトは目を閉じ、匂いを一つずつ意識してみた。
すると、ただ全部が強烈なのではないことに気づく。
「これ、分かれてる」
「何が?」
「匂い。土は土、草は草、ポチはポチ、ルウはルウって別々に分かる」
「我の匂いまで分かるのか?」
「うん」
「……妙なことを言うでない」
「違うって! 人によって全部違うんだよ」
「余計に妙である」
「そういう意味じゃないって!」
アルトが慌てるので、とうとうルウは声を出して笑った。
◇
学校では、当然エレウスが実験を提案した。
いくつか同じ形の袋を用意し、そのうち一つだけをフィーネに触ってもらう。アルトは後ろを向き、袋の位置を変えてから、ポチの嗅覚だけを借りて一つずつ確かめた。
「これ」
「正解です」
「おお!」
ガルドが感心する。
「見た目は全部同じじゃぞ」
「匂いが違うんだ。フィーネが触ったやつだけフィーネっぽい」
「わ、わたしっぽい匂い?」
フィーネが急にアルトを見る。
「うん」
「どんな匂い?」
「フィーネの匂い」
「それ答えになってないよぉ」
「だってそうとしか言えないんだよ」
ルウが横から口を挟んだ。
「それ以上聞いても無駄だぞ。アルトに気の利いた答えを期待する方が間違っておる」
「なんでだよ!」
「ふふっ。でも、アルト君らしいかも」
フィーネはなぜか嬉しそうだった。
次の実験ではレオンが校庭から外へ出て、途中で何度か曲がりながら歩いた。ポチが最初の場所の匂いを嗅ぎ、アルトがその嗅覚を借りる。
「こっち」
匂いを追う。
途中で別の子供の匂いと重なるが、それでもレオンのものだけを意識すれば辿れる。
「右」
しばらく進み、校舎の裏で待っていたレオンを見つけた。
「本当に来たであります!」
「犬すごいな」
「アルト殿もすごいであります」
「俺は借りてるだけだぞ」
「借りられること自体がすごいと思うであります」
「そっか」
そこへトウが近づいてきた。
「アルトが匂いで追う。トウが近くに来たら《探知》で位置を探す。人を探すなら、かなり見つけやすくなると思うな。うん」
「またトウと相性いいな」
「うん。便利だな」
エレウスも頷く。
「空からの視覚、犬の嗅覚、トウさんの探知。この三つを組み合わせれば、探し物や人探しにはかなり役立ちそうですね」
「ダンジョンとかでも使えそうだな」
「ダンジョン?」
フィーネが聞き返す。
「大きくなったら行ってみたいじゃん」
「アルト君、もうそんなこと考えてるの?」
「面白そうだろ」
ルウが呆れたように笑った。
「まず初等科を終えてから考えよ」
「分かってるって」
まだそのときの七人は知らなかったが、この何気ない会話は、後に中等部へ進んだ彼らが正式にパーティーを組み、ダンジョンへ挑むときの役割分担へそのままつながっていくことになる。
◇
それから数か月が過ぎ、アルトは九歳になった。
犬との意思疎通は、鳥よりずっと会話らしくなっていた。ポチ以外の犬とも話せるようになり、話してみれば犬にも一匹ずつ性格があることがよく分かる。食べ物の話ばかりする犬もいれば、飼い主の自慢を延々とする犬もいて、見知らぬ人間には警戒するのにアルトには妙に馴れ馴れしい犬もいた。
ある日の帰り道、町の入口で見慣れない犬が一匹、落ち着かない様子で行ったり来たりしていた。
《家。ない》
「家がない?」
《分からない》
「迷ったのか?」
《人。探す》
「飼い主?」
《そう》
アルトは首輪を見る。
「飼い主の匂い、残ってる?」
《ある》
「じゃあ探してみるか」
たまたま一緒にいたルウとトウも付き合うことになり、アルトが犬の嗅覚を借りながら匂いを追い、近づいたところでトウが《探知》を使う。
「人が何人かいるな。うん。そのうち一人、ずっと同じところを行ったり来たりしてる」
「それかも」
道を曲がった先で、一人の女性が泣きそうな顔をして犬を探していた。
「いた!」
「コロ!」
犬が勢いよく走り出す。
《いた!》
女性は駆け寄ってきた犬を抱き締め、何度もアルトたちへ礼を言った。
「本当にありがとう。朝からずっと探してたの」
「俺たちも匂いを追っただけだから」
「匂い?」
「犬の鼻ってすごいんだぞ」
「アルト、それを説明すると長くなるぞ」
ルウに止められ、アルトは笑った。
◇
帰り道、アルトは少し考えながら歩いていた。
「鳥と犬って、全然違うな」
「鳥には鳥の得意があり、犬には犬の得意があるということであろう」
「じゃあ他の動物も、違うこと出来るのかな」
「おそらくな」
「狼とか?」
「いきなり危険な方へ行くでない」
「見るだけだって」
「まず安全に調べよ。ポチのときのように、町の近くで確かめられるものからだ」
「分かってる」
「本当であろうな?」
「たぶん」
「そこは断言せよ」
三人で笑った。
◇
動物の研究が面白くなっても、アルトは魔力らしきものを探す練習を一日もやめていなかった。
夜になると、ルウにも付き合ってもらい、彼女が魔力を胸の辺りから腕へ、腕から掌へ集める感覚を何度も見せてもらう。
「今日はどうだ?」
「うーん……何かあるような、ないような」
「どこに?」
「胸から腕に流そうとすると、ちょっと温かい気がする」
「昨日は?」
「昨日はよく分からなかった」
「ならば書いておけばよい」
「うん」
水面に映る自分を見る。
《アルト Lv14》
《意思疎通 熟練度4》
《剣術 熟練度4》
《体術 熟練度3》
そして魔力を強く意識すると、
《魔力操作 熟練度――》
一瞬だけ現れて、消える。
「やっぱり出るんだよな」
「数値はないか?」
「うん。でも文字は出る」
「ならば、お主が続けておることに何らかの意味はあるのかもしれぬ」
「俺もそう思う」
「明日もやるのであろう?」
「もちろん」
「なら、焦る必要もあるまい」
「ルウって時々すごくいいこと言うな」
「時々とは何だ」
「いつも?」
「それでよい」
ルウは満足そうに笑った。
◇
翌朝。
いつもの剣の稽古を終えた後、アルトは庭の隅へ座り、掌を上へ向けた。
目を閉じる。
胸の辺りに意識を向ける。
何かがある。
そう思う。
それを腕へ。
肘。
手首。
指先。
「…………」
何も起こらない。
もう一度。
やはり何もない。
「今日も駄目か」
それでもやめず、三度目。
胸から腕へ流す。
掌へ集める。
指先へ。
「熱っ!」
アルトは思わず手を引いた。
指先を見る。
何もない。
「どうした?」
近くで見ていたルウが立ち上がる。
「今、指が熱かった」
「木剣で擦ったのではないか?」
「いや……たぶん違うと思う。内側から急に熱くなった」
「痛みは?」
「もうない」
アルトは自分の指先をじっと見た。
「もう一回やってみる」
「無理はするなよ」
「分かってる」
同じように集中する。
しかし、今度は何も起こらなかった。
「……出ないな」
「なら今日はそこまでにしておけ。また明日確かめればよい」
「そうだな」
アルトは指先を見ながら立ち上がった。
九歳になったアルトは、まだ魔法を一つも使えなかった。
神殿で告げられた通り、魔力さえないはずだった。
それでも今朝、確かに指先が熱くなった。
たったそれだけの出来事だったが、アルトにとっては十分だった。
昨日まで感じなかったものを、今日は一度だけ感じた。
ならば、明日も試してみればいい。
その熱が何なのか分かるまで。
次回更新は明日の12時の予定です。
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