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勇者は背中から死んでいた  作者: swingout777


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第9話 死者の記録簿

 王都の旧共同墓地は、城壁の東端にあった。


 今では使われていない。


 新しい墓地が王城の北に整備されてから、ここへ足を運ぶ者はほとんどいなくなった。

 石碑は傾き、雑草は伸び、雨水を吸った土は靴底に重くまとわりつく。


 かつて王国に名を残した者たちは、立派な霊廟に眠る。

 だが、名を残せなかった者たちは、この旧共同墓地に押し込められた。


 無縁の兵士。

 身元不明の旅人。

 疫病で家族を失った子ども。

 そして、誰かに忘れられることを望まれた死者たち。


 俺とエリシアは、雨の中を歩いていた。


 王城から逃げ出してから、まだ一刻も経っていない。

 だが、すでに街の空気は変わっていた。


 巡回兵が増えている。

 英雄管理局の黒い外套も、何度か見かけた。


 聖女エリシア失踪。

 葬儀官ノア・アーベル逃亡。


 おそらく、もう手配は回っている。


「本当に、ここにあるのでしょうか」


 エリシアが小声で尋ねた。


「局長は、父の記録簿が無縁納骨堂の地下にあると言いました」


「お父様は、なぜそんな場所に」


「死者のそばが、一番安全だと思ったのかもしれません」


 冗談のつもりで言ったが、笑えなかった。


 父は、死者の記録を残して消えた。


 俺はずっと、父が余計なことをしたのだと思っていた。

 母の言葉を、そのまま受け取っていた。


 お父さんは、書かなくていいことを書いたのだ、と。


 だが今ならわかる。


 書かなくていいことなどではない。


 誰かが、書かせたくなかったことだ。


 無縁納骨堂は、墓地の奥にあった。


 低い石造りの建物で、扉には錆びた鉄の鎖が巻かれている。

 だが鍵は壊れていた。


 中に入ると、湿った土と古い骨の匂いがした。


 壁には小さな納骨棚が並び、名前のない骨壺がいくつも置かれている。

 魔石灯はない。

 俺は携帯用の灯りを掲げた。


「地下への入口は……」


 床を調べる。


 石板の一枚だけ、他よりわずかに浮いていた。


 俺は指をかけ、力を込める。


 石板がずれ、暗い穴が現れた。


 細い階段が下へ続いている。


 エリシアが息を呑む。


「こんな場所が……」


「行きましょう」


 階段を下りると、空気がさらに冷えた。


 地下室は小さかった。


 中央に古い木箱が一つ置かれている。

 箱の上には、乾ききった白百合が一本。


 父が好きだった花だ。


 俺は膝をついた。


 木箱の蓋に、見覚えのある印が刻まれていた。


 葬儀屋の印。


 死者の名を忘れないための、簡素な十字と羽根。


「父さん……」


 声が漏れた。


 蓋を開ける。


 中には、油紙に包まれた分厚い帳面があった。


 表紙には、父の字でこう書かれていた。


『死者記録簿 公記録より削除された者たち』


 指先が震えた。


 削除された者たち。


 それはつまり、王国の記録から消された死者という意味だ。


 俺は最初のページを開いた。


 そこには、整った文字で死者の名前と死因が記されていた。


『剣聖アーロン。公式死因、魔族軍との戦闘による名誉の戦死。実際の死因、王国製毒物による中毒死。右頸部に注射痕あり』


 グラント局長が言っていた名前だ。


 剣聖アーロン。


 教本では、魔族の大軍を一人で食い止めて死んだ英雄とされている。


 だが、父の記録では毒殺だった。


 俺はページをめくった。


『賢者リディア。公式死因、禁呪暴走による自滅。実際の死因、拘束後の魔力封鎖による衰弱死。両手首に拘束痕』


 さらにめくる。


『竜騎士バラム。公式死因、竜の暴走を止めるための殉職。実際の死因、処刑。背部に王国騎士団式の斬撃痕』


 息が詰まった。


 名前を知っている者ばかりだった。


 どの英雄も、王国では美しい物語として語られている。

 子どもたちが憧れ、吟遊詩人が歌い、祝祭で名を呼ばれる者たち。


 だが、その死は違っていた。


 毒殺。

 拘束死。

 処刑。

 口封じ。


 ページをめくるたびに、王国の美談が剥がれていく。


 エリシアは隣で、両手を握りしめていた。


「こんなに……」


「父は、ずっと記録していたんだ」


 俺の声はかすれていた。


「消された死者を」


 最後の方のページは、ところどころ空白があった。


 おそらく、父が書き切れなかったものだ。


 その中に、見慣れた形式の未完成項目があった。


『勇者候補カイゼル・レインフォード。監視対象。英雄管理局より特記事項あり』


 俺は目を見開いた。


「カイゼル様の名前が……」


 エリシアが震える声で言った。


「兄は、遠征前から監視されていたのですか」


「この記録では、そう見えます」


 項目の横には、小さな書き込みがあった。


『王国公式物語に疑義。魔王領調査後、処理対象となる恐れあり』


 処理対象。


 その言葉の冷たさに、胃が沈んだ。


 勇者カイゼルは、魔王を倒した後に殺されたのではない。


 殺される可能性は、遠征前から想定されていた。


 王国の物語に疑いを持つ者。

 真実を知れば、邪魔になる者。

 だから、あらかじめ監視されていた。


 エリシアの頬を、雨ではない涙が一筋だけ伝った。


 だが、彼女は泣き崩れなかった。


「兄は、最初から利用されていたのですね」


 俺は答えられなかった。


 記録簿を閉じようとした時、帳面の奥から一枚の紙が落ちた。


 古びた封書だった。


 宛名は、俺の名だった。


『ノアへ』


 父の字だ。


 俺は息を止めた。


 封を切る。


 中には、短い手紙が入っていた。


『ノア。お前がこれを読んでいるなら、私はもう記録を守れなかったのだと思う。

 だが覚えていてほしい。葬儀屋の仕事は、死者をきれいに飾ることではない。

 死者が最後に残した真実を、生者の都合で消させないことだ。

 死者は声を持たない。だから我々が記録する。

 お前がいつか、書かなくていいことを書く日が来たなら、それはきっと、書かなければならないことだ』


 文字が滲んで見えた。


 雨のせいではない。


 俺は手紙を握りしめた。


 父は、余計なことを書いたのではなかった。


 葬儀屋として、書かなければならないことを書いたのだ。


「ノアさん」


 エリシアが静かに呼んだ。


 俺は顔を上げた。


 地下室の天井の向こうで、かすかに足音がした。


 一つではない。


 複数。


 旧共同墓地の地上に、誰かが来ている。


 エリシアが灯りを消そうとする。


 だが遅かった。


 上から声が響いた。


「地下にいます」


 英雄管理局の声だった。


「死者記録簿を確保しろ。聖女と葬儀官は、生かして連れて行け」


 俺は記録簿を抱えた。


 父の手紙を胸元へ入れる。


 エリシアが俺の横に立った。


「逃げ道は?」


「探します」


 地下室の壁を照らす。


 奥に、古い排水口があった。

 人一人がぎりぎり通れるほどの幅。


 水路につながっているかもしれない。


 俺は記録簿を布で包み、背負った。


 階段の上から、足音が近づいてくる。


 王国は、死者の記録を恐れている。


 剣聖も、賢者も、竜騎士も、勇者カイゼルも。

 すべての死者が、王国の美談を壊す証人になるからだ。


 俺はエリシアを見た。


「行きましょう」


「はい」


 俺たちは排水口へ身を滑り込ませた。


 背後で地下室の扉が破られる音がした。


 もう戻れない。


 だが、俺の背には父の記録簿がある。


 それは武器ではない。

 魔法でもない。


 けれど、王国が最も恐れるものだった。


 死者たちの本当の名前と、本当の死に方。


 俺は初めて、自分が何を背負ったのかを理解した。


 これは勇者一人の葬儀ではない。


 王国に消されたすべての死者を、もう一度弔う物語なのだ。


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