第8話 葬儀屋ノア、反逆者になる
「黒花は、魔族の呪いではありません」
聖女エリシアの声が、禁書庫に響いた。
英雄管理局の男は、表情を消した。
胸元の紋章が、魔石灯の光を受けて鈍く光る。
「その言葉、取り消していただきましょう」
「取り消しません」
エリシアは一歩も引かなかった。
「この記録には、黒花が瘴気を吸う植物だと書かれています。魔族の呪いではなく、大地を浄化する花だと」
「禁書の記述を、王国の公式見解より信じると?」
「兄は、その黒花を握って死んでいました」
男の目が、俺へ向いた。
正確には、俺の胸元へ。
内ポケットに隠した薬包紙。
その中にある黒花の花びら。
やはり、彼らの目的はこれだ。
「葬儀官ノア・アーベル」
男は低く言った。
「勇者カイゼルの遺体より回収した魔王領由来の異物を提出しなさい」
「お断りします」
言ってから、自分でも驚いた。
口が勝手に動いた。
いつもの俺なら、そんなことは言わなかった。
命令に従い、視線を伏せ、面倒を避ける。
そうして生きてきた。
だが、もう無理だった。
勇者の背中の傷を見た。
胸に作られた偽りの傷を見た。
黒花が呪いではないと知った。
それでも黙るなら、俺は葬儀屋ではなく、嘘を塗る職人になる。
「それは王国への反逆と受け取ります」
「死者の遺品を、理由も告げずに奪う方が反逆です」
「反逆?」
男の口元がわずかに歪んだ。
「誰に対する反逆ですか」
「死者に対する、です」
男は笑わなかった。
代わりに、背後の扉へ視線を向ける。
禁書庫の外で、複数の足音が近づいていた。
呼ばれた。
もう逃げ道はない。
「聖女エリシア様。あなたは一時的に混乱している。勇者を失った悲しみが、判断を誤らせているのでしょう」
「私は混乱していません」
「いいえ。しています。だから、我々が保護します」
保護。
その言葉の冷たさに、俺は背筋が粟立った。
保護とは、閉じ込めるという意味だ。
記録を消す者たちは、いつも優しい言葉を使う。
「葬儀官は拘束しろ」
男が言った。
扉が開き、黒外套の局員が二人入ってくる。
逃げ場は棚の間しかない。
俺はエリシアの手首を掴んだ。
「走ります」
「え?」
「勇者様の抜け道、他にもありますか」
エリシアは一瞬だけ目を見開き、それから頷いた。
「奥の壁に、礼拝堂裏へ抜ける扉があります」
「なら、そこへ」
俺たちは同時に走った。
「止まれ!」
怒号が飛ぶ。
本棚の間を抜ける。
古い書物が肩に当たり、埃が舞った。
背後で何かが床に落ちる音がした。
振り返る余裕はない。
エリシアが奥の壁に手を伸ばす。
石壁の一部を押すと、低い音を立てて隠し扉が開いた。
俺たちは狭い通路へ飛び込んだ。
直後、背後で剣が石壁を叩く音がした。
間一髪だった。
通路は暗く、低かった。
俺は頭をぶつけそうになりながら進む。
エリシアは迷いなく先を行く。
「兄は本当に、こんなところを通っていたんですか」
「説教が長い日は、必ず」
「勇者様の伝説に加えるべきですね」
「本人は嫌がると思います」
こんな時なのに、エリシアが少しだけ笑った。
だが、その笑みはすぐ消えた。
出口の向こうに、人の気配があったからだ。
俺たちは礼拝堂裏の小部屋へ出た。
そこに立っていたのは、グラント局長だった。
灰色の髭。
深い皺。
葬儀局の黒い外套。
俺は足を止めた。
「局長……」
「愚か者が」
低い声だった。
エリシアが身構える。
俺も反射的に黒花の薬包紙を押さえた。
グラント局長は、俺たちを睨んだ。
「禁書庫へ忍び込み、英雄管理局に追われ、聖女様まで巻き込む。お前は自分が何をしているかわかっているのか」
「わかっています」
「なら、戻れ」
「戻れません」
俺は首を横に振った。
「勇者カイゼル様の死因は偽装されています。黒花も、魔族の呪いではありません。英雄管理局はそれを隠そうとしている」
「それを口にすれば、お前は死ぬ」
「口にしなければ、勇者様の死が二度殺されます」
局長の目が、わずかに揺れた。
その反応を、俺は見逃さなかった。
「局長は、知っていたんですね」
「何をだ」
「父のことです」
小部屋の空気が止まった。
背後からは、英雄管理局の足音が近づいている。
時間はない。
それでも、俺は聞かずにはいられなかった。
「父は、英雄管理局に連れて行かれたんですか」
グラント局長は黙った。
その沈黙が答えだった。
「父は何を記録したんです」
「今ここで話すことではない」
「今でなければ、もう聞けないかもしれません」
局長は歯を食いしばった。
それから、短く言った。
「お前の父は、剣聖アーロンの死因を書き換える命令に逆らった」
剣聖アーロン。
十年前、魔族との国境で戦死したとされる英雄だ。
王国の教本にも載っている。
「剣聖は戦死ではなかったのですか」
「毒殺だった」
エリシアが息を呑む。
「しかも、王国側の毒でな」
局長の声は苦かった。
「お前の父はそれを記録した。死者の名誉を守るためだと言ってな。だが記録は消され、父親も葬儀局から消えた」
「局長は……止めなかったんですか」
言ってから、残酷な問いだと思った。
だが、引っ込められなかった。
グラント局長は目を閉じた。
「止められなかった」
その声は、初めて老いて聞こえた。
「だから今度は、せめて逃がす」
局長は小部屋の奥にある扉を開けた。
外へ続く裏口だった。
「ここから東側の水路へ出ろ。葬儀局へは戻るな」
「局長」
「清拭室の遺体は、私が時間を稼ぐ」
「でも、それでは局長が」
「老い先短い葬儀屋一人だ。若い馬鹿一人より安い」
その言い方が、ひどく局長らしくて、胸が詰まった。
背後の通路から声がした。
「こちらです! 聖女様と葬儀官が逃走しました!」
もう猶予はない。
局長は俺の胸を拳で軽く叩いた。
「ノア」
「はい」
「死者の声を聞くなら、最後まで聞け」
俺は頷いた。
言葉にすると、何かが崩れそうだった。
エリシアと共に裏口へ向かう。
扉を抜ける直前、局長が低く言った。
「父親の記録簿を探せ」
俺は振り返った。
「記録簿?」
「お前の父が消される前に残したものだ。王都の旧共同墓地、無縁納骨堂の地下に隠してある」
父の記録簿。
消された死因。
英雄管理局に都合の悪い死者たち。
それは、勇者カイゼルの死だけではない。
もっと古くから続く、王国の嘘の記録かもしれなかった。
「行け!」
局長が叫んだ。
俺たちは外へ飛び出した。
雨が顔を打つ。
王城の裏手には、暗い水路が流れていた。
遠くで鐘が鳴っている。
明日の国葬を告げる鐘。
その音を背に、俺は走った。
葬儀局の葬儀官としてではない。
英雄管理局の命令に従う者としてでもない。
死者の記録を抱え、聖女を連れ、王国の嘘から逃げる者として。
もう戻れない。
俺は、反逆者になった。
それでも胸元の黒花は、かすかに温かかった。
まるで、死者がまだ見ていると言うように。




