第7話 黒花は魔族の呪いではない
黒花は、魔族の呪い。
王国で育った者なら、誰でもそう教えられる。
黒い花を見たら近づいてはいけない。
触れれば魂を吸われる。
その花が咲く場所には魔王の瘴気が満ち、人間は二度と戻れない。
子どもを寝かしつける時の脅し文句にも使われるほど、黒花は不吉なものだった。
だが、勇者カイゼルはその花びらを握って死んでいた。
魔王に殺されたはずの勇者が。
魔族の呪いとされる花を、最期まで手放さなかった。
それが、どうしても引っかかった。
「黒花について調べたい?」
エリシアは俺の言葉を聞くと、小さく頷いた。
俺たちは清拭室に戻り、勇者の遺体を白布で覆い直したところだった。
国葬まで、残された時間は一日もない。
勇者パーティーの生存者に会う必要もある。
近衛騎士レオンを調べる必要もある。
だが、黒花を後回しにしてはいけない気がした。
「英雄管理局は、魔王領由来の異物を提出しろと言っていました」
俺は胸元の内ポケットに入れた薬包紙を押さえた。
「つまり、この花びらを探している」
「兄が最期に握っていたものだから?」
「それだけなら、遺品として処理すればいい。わざわざ命令書に書くほどではありません」
エリシアは考え込んだ。
「黒花そのものに、知られたくない意味がある……」
「そう考えています」
「なら、禁書庫へ行きましょう」
迷いのない声だった。
「禁書庫?」
「王城礼拝堂の奥にあります。教会が管理している古い記録の保管庫です。魔王領や魔族に関する記録も、表向きには焼却されたことになっていますが、一部は残されています」
「聖女なら入れるんですか」
「本来なら」
エリシアは、少しだけ苦い顔をした。
「今の私は、監視されているかもしれません。でも、入る方法はあります」
「方法?」
「兄が昔、説教から逃げるために使っていた通路です」
こんな状況でなければ、笑っていたかもしれない。
完璧な勇者ではなかった。
先ほど彼女が言った言葉を思い出す。
王国が語る英雄ではなく、礼拝堂の説教から逃げる兄。
その姿の方が、ずっと人間らしかった。
俺たちは清拭室を出た。
夜の王城へ向かう通路は、国葬の準備で慌ただしかった。
白百合の束を運ぶ侍女。
喪章をつけた兵士。
大広場へ設置する旗を抱えた職人たち。
誰もが勇者の死を悼む顔をしている。
だが、その悲しみの中に、どこか祭りの前のような熱も混じっていた。
勇者の死は、すでに人々の感情を動かす大きな舞台になっている。
その舞台裏で、勇者本人の真実だけが置き去りにされていた。
エリシアはフードを深くかぶり、人目を避けて礼拝堂の裏手へ回った。
古い石壁の一部を押すと、小さな隙間が開いた。
「ここを通ります」
「勇者様は、よくこんな場所を見つけましたね」
「兄は祈りより抜け道を探す方が得意でした」
エリシアはそう言ってから、ほんの少しだけ目を伏せた。
思い出すことは、痛みでもあるのだろう。
狭い通路を抜けると、埃っぽい部屋に出た。
そこには古い書棚が並んでいた。
窓はなく、壁の魔石灯だけが弱く光っている。
禁書庫。
王国が民に見せない記録が眠る場所。
「黒花……黒花……」
エリシアは慣れた様子で棚を探し始めた。
俺も手伝おうとしたが、古い文字ばかりで読めないものが多い。
葬儀記録や処置記録なら読める。
だが、神学書や魔族研究の古文書は専門外だ。
エリシアは一冊の革表紙の本を抜き出した。
「ありました」
表紙には、古い文字でこう記されていた。
『魔王領植生記録』
彼女は慎重にページをめくった。
乾いた紙が、かすかに音を立てる。
しばらく読んでいたエリシアの顔色が変わった。
「……おかしい」
「何が書いてあるんですか」
「黒花は、瘴気を生む花ではない、と」
俺は眉をひそめた。
「瘴気を生むのではない?」
「はい。ここには、逆に書かれています。黒花は大地に溜まった瘴気を吸い上げ、花弁に封じる植物だと」
「では、呪いではなく……」
「浄化です」
その言葉は、静かに落ちた。
黒花は魔族の呪いではない。
大地の瘴気を吸う花。
俺は胸元の薬包紙を取り出した。
中の黒い花びらは、相変わらず光を吸うように沈黙している。
だが、見え方が変わった。
不吉な呪いの証ではない。
勇者が最期まで握っていた、浄化の花。
「王国は、このことを知っていたんですか」
「この本がここにあるということは、少なくとも教会か王城の誰かは知っていたはずです」
エリシアはページをさらにめくった。
「ここも見てください。黒花は、死者の記憶を吸うことがある、と書かれています」
「死者の記憶?」
「正確には、強い未練や魔力残滓を吸着する、と」
俺は息を呑んだ。
勇者の手の中にあった黒花。
そこから聞こえた、あの声。
――英雄として帰ってきたら、その物語を疑え。
あれは幻聴ではなかったのかもしれない。
黒花が、勇者の最期の記憶を吸っていたのだとしたら。
「エリシアさん」
「はい」
「この花びらには、カイゼル様の最期が残っている可能性があります」
エリシアの瞳が揺れた。
「兄の……最期」
「まだ断定はできません。でも、英雄管理局が探している理由はそれかもしれない」
「黒花に記憶が残っていると知っているから」
「はい」
だから、魔王領由来の異物を提出しろと命じた。
黒花を回収し、勇者の記憶を消すために。
胸の傷を作り、背中の傷を隠し、遺体を物語に合わせる。
それでも足りない。
勇者自身が残した記憶があるなら、それも奪わなければならない。
エリシアは震える手で、本を握りしめた。
「兄は、これを知ったのでしょうか」
「黒花が呪いではないことを?」
「はい。そして、魔王領が王国の言うような場所ではないことを」
俺は答えられなかった。
だが、その可能性は高い。
勇者は魔王領で何かを見た。
黒花の本当の役割を知った。
そして、王国が語る魔王討伐の物語に疑問を持った。
だから殺されたのか。
魔王を倒したからではなく。
魔王を倒してはいけない理由を知ったから。
その時、禁書庫の外で足音がした。
俺たちは同時に顔を上げた。
誰かが近づいてくる。
エリシアは本を閉じ、俺に目で合図した。
俺は魔石灯の明かりを手で覆い、部屋を暗くする。
扉の隙間から、細い光が差し込んだ。
声が聞こえる。
「聖女様は見つかったか」
「いいえ。礼拝堂にも私室にもおられません」
英雄管理局の者だ。
エリシアの肩が強張る。
さらに別の声が続いた。
「禁書庫も確認しろ。あの方が黒花の記録にたどり着く前に」
俺は息を止めた。
やはり、彼らは知っている。
黒花の記録が危険だと。
聖女がそれを知れば、勇者の死に疑問を持つと。
扉の取っ手が動いた。
俺はとっさに、エリシアを本棚の陰へ押し込む。
自分もその隣に身を潜めた。
扉が開く。
黒い外套の男が一人、禁書庫に入ってきた。
手には小さな灯り。
胸元には英雄管理局の紋章。
男は棚を一つずつ照らしていく。
俺は息を殺した。
エリシアの肩が、俺の腕に触れている。
震えていた。
恐怖ではない。
怒りだ。
目の前に、自分の兄の真実を消そうとする者がいる。
それでも声を上げられない。
男は、さきほどエリシアが抜き出した棚の前で止まった。
「……ない」
低く呟く。
そして、俺たちが隠れている本棚の方へ振り向いた。
まずい。
その時、胸元の薬包紙が熱を帯びた。
黒花の花びらだ。
内ポケットの中で、かすかに震えている。
俺は思わず押さえた。
すると、頭の奥に映像の断片が流れ込んだ。
黒い花畑。
剣を下ろす勇者。
その前に立つ、巨大な影。
魔王。
そして勇者カイゼルの声。
――違う。こいつは世界を滅ぼしているんじゃない。
映像は一瞬で途切れた。
俺は膝から崩れかけた。
エリシアが俺を支える。
物音に、英雄管理局の男が振り向いた。
「誰だ」
灯りがこちらへ向く。
もう隠れられない。
俺はエリシアの前に立った。
男の目が、俺たちを捉える。
「聖女様……それに、葬儀官」
男の口元が歪んだ。
「やはり、黒花を持っていましたか」
エリシアが一歩前へ出た。
その顔に、涙はなかった。
「黒花は、魔族の呪いではありません」
男の表情が消える。
エリシアは、はっきりと言った。
「王国は、嘘をついていたのですね」
禁書庫の空気が凍りついた。
俺は胸元の黒花を握った。
この花は、呪いではない。
死者の記憶を抱き、世界の瘴気を吸う花。
そして勇者が命をかけて残した、最初の真実だった。




