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勇者は背中から死んでいた  作者: swingout777


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第10話 国葬前夜の襲撃

 排水口の中は、冷たい水で満ちていた。


 膝まで泥水に浸かりながら、俺とエリシアは暗い水路を進んだ。


 背中には、父の死者記録簿がある。


 油紙と布で包んではいるが、濡らすわけにはいかない。

 これには、王国が消してきた死者たちの本当の死因が記されている。


 剣聖アーロン。

 賢者リディア。

 竜騎士バラム。

 そして、勇者カイゼル。


 王国が美談に変えた死者たち。


 その記録を背負っていると思うだけで、肩が重かった。


 だが、不思議と足は止まらなかった。


「ノアさん、大丈夫ですか」


 前を行くエリシアが振り返った。


 フードの端から雨水が滴っている。

 白い修道服の裾は泥に汚れていた。


 王国の聖女とは思えない姿だった。


 それでも彼女の目は、まだ折れていない。


「大丈夫です」


 俺は短く答えた。


「この水路は、どこへ出るんですか」


「旧共同墓地の外れから、葬儀局の裏手へ続いています。昔は遺体搬送用に使われていたと聞いたことがあります」


「葬儀局へ戻るのですか」


「一度、清拭室へ戻ります」


 エリシアの表情が強張る。


「危険では」


「危険です。でも、勇者様の遺体をそのままにはできません」


 英雄管理局は、明朝に再確認すると言っていた。


 その前に国葬用の衣装を着せられれば、背中の傷も、胸の偽装傷も隠される。

 黒花はすでにこちらにあるが、遺体そのものはまだ彼らの手の中だ。


「国葬が始まれば、勇者様は完全に物語にされます」


 俺は水路の先を見た。


「その前に、もう一度だけ遺体を確認したい。記録簿の内容と照らし合わせれば、見落としていた痕があるかもしれません」


 エリシアは黙って頷いた。


 水路を抜けると、葬儀局の裏庭に出た。


 雨は弱まっていたが、空は重く曇っている。

 遠くでは、国葬のための鐘が鳴っていた。


 明日の正午。

 王都中の民が勇者の棺を見送る。


 誰もが、魔王に胸を貫かれた英雄だと信じて。


 俺たちは裏口から葬儀局へ入った。


 建物の中は、妙に静かだった。


 夜間担当の職員がいてもいい時間だ。

 だが、廊下に人の気配がない。


 その静けさが、かえって不気味だった。


「誰もいませんね」


 エリシアが小声で言った。


「いないのではなく、遠ざけられたのかもしれません」


 俺は灯りを消したまま進んだ。


 地下清拭室へ向かう階段に差しかかった時、鉄の匂いがした。


 血だ。


 俺は足を止めた。


 石段の端に、赤黒い滴が落ちている。


 乾ききってはいない。


 ついさっきのものだ。


「下がってください」


 俺はエリシアに囁いた。


 階段を一段ずつ下りる。


 地下清拭室の扉は、半開きになっていた。


 中から、かすかな物音が聞こえる。


 金属が擦れる音。


 誰かが、遺体に触れている。


 俺は扉の隙間から中を覗いた。


 黒い外套の男が二人いた。


 英雄管理局の人間ではない。

 紋章がない。


 だが、動きは役人のものではなかった。


 暗殺者だ。


 一人は勇者の遺体のそばに立ち、白布を剥がそうとしている。

 もう一人は作業台の引き出しを荒らしていた。


 記録紙を探している。


 黒花を探している。


 あるいは、勇者の遺体に残る証拠を消そうとしている。


 俺の中で、何かが冷たく固まった。


 死者に手を出すな。


 恐怖より先に、その怒りが来た。


「何をしている」


 俺は扉を開けた。


 暗殺者たちが振り返る。


 一瞬の沈黙。


 次の瞬間、作業台の男が短剣を抜いた。


「逃げてください!」


 俺はエリシアを押し戻した。


 短剣が目前をかすめる。


 俺は身を引いたが、肩に鋭い痛みが走った。


 刃先が布と皮膚を裂いたのだ。


「ノアさん!」


「来るな!」


 俺は近くにあった香油瓶を掴み、暗殺者へ投げつけた。


 瓶が割れ、床に油が広がる。


 相手の足が滑った。


 その隙に、俺は勇者の棺台へ走った。


 遺体を盾にするわけにはいかない。

 だが、遺体から離れさせなければならない。


 もう一人の暗殺者が、勇者の背中へ手を伸ばしていた。


 背部刺創を潰すつもりだ。


 俺は考えるより先に、その腕に飛びついた。


「触るな!」


 相手は舌打ちし、俺の腹を蹴った。


 息が詰まる。


 床に倒れた俺の前に、刃が振り下ろされる。


 終わった。


 そう思った瞬間、清拭室の入口から鋭い金属音が響いた。


 短剣が弾かれた。


 俺の前に、銀の剣が差し込まれていた。


 その剣を握っていたのは、白い手袋の男だった。


「ここで騒ぎを起こすな」


 低い声。


 黒髪。

 雨に濡れた外套。

 胸元には、近衛騎士の紋章。


 レオンだった。


 勇者パーティーの帰還者。

 勇者カイゼルが背中を預けた騎士。

 そして、勇者の背中を刺した可能性がある男。


 レオンは迷いなく踏み込み、暗殺者の手首を剣の柄で打った。


 短剣が床に落ちる。


 もう一人の暗殺者が背後から襲いかかるが、レオンは振り返りもせず、半歩だけ体をずらした。


 敵の刃が空を切る。


 次の瞬間、レオンの剣が相手の喉元で止まった。


 速い。


 殺すつもりなら、もう死んでいた。


 暗殺者たちは互いに目配せし、煙玉のようなものを床に叩きつけた。


 白い煙が広がる。


 咳き込む間に、二人の気配は消えた。


 清拭室に残ったのは、割れた瓶、乱れた白布、そして荒い息だけだった。


「無事か」


 レオンが俺を見下ろした。


 俺は腹を押さえながら立ち上がる。


「助けてくれたことには、礼を言います」


「礼はいらない。ここで勇者の遺体を傷つけられるわけにはいかない」


 その言葉に、俺は目を細めた。


「なぜですか」


 レオンは答えなかった。


 エリシアが清拭室へ入ってくる。


 レオンの顔を見た瞬間、彼女の表情が硬くなった。


「レオン卿」


「聖女様。なぜここに」


「それはこちらの台詞です」


 エリシアの声は冷たかった。


「あなたは王城にいるはずでは?」


「勇者の国葬前に、遺体の警備を確認しに来ただけです」


「警備?」


 エリシアは勇者の遺体を見た。


「兄の遺体を守るために?」


「そうです」


「それとも、兄の遺体が何かを語らないように見張るためですか」


 レオンの表情が一瞬だけ動いた。


 ほんのわずか。

 だが、確かに動揺した。


 俺はその反応を見逃さなかった。


 レオンはすぐに無表情へ戻った。


「聖女様は、疲れておられる」


「その言い方は英雄管理局の方々と同じですね」


「あなたのためを思って言っています」


「兄も、そう言われて殺されたのですか」


 沈黙。


 清拭室の空気が凍った。


 レオンの白い手袋が、剣の柄を握り直した。


 俺は、その動きに目を奪われた。


 右手の親指が、柄の飾りを一度だけなぞる。


 その動きに、見覚えがあった。


 勇者の背中の傷。


 刃が入った角度。

 手首の返し。

 迷いのない突き。


 遺体に残った傷跡から想像した犯人の動きと、今のレオンの癖が重なった。


 胸の奥が冷えた。


 この男だ。


 まだ証拠はない。

 だが、勇者の背中に刃を入れた手は、この動きをしていた。


「ノア・アーベル」


 レオンが俺を見た。


「君は、何を見た」


「葬儀屋ですから」


 俺は肩の痛みをこらえながら答えた。


「死者の傷を見ました」


「それ以上見るな」


 その声は、脅しではなかった。


 むしろ、懇願に近かった。


「見れば、戻れなくなる」


「もう戻れません」


 俺は勇者の遺体を見た。


 白布の下には、まだ背中の傷がある。

 胸には偽りの傷がある。

 右手には聖銀粉の痕が残っている。


 そして俺の背には、父の記録簿がある。


「あなたは、カイゼル様の最期を見たのですか」


 俺が尋ねると、レオンは沈黙した。


 エリシアが一歩前へ出る。


「答えてください。兄は、本当に魔王に殺されたのですか」


 レオンは目を伏せた。


 長い沈黙のあと、彼は言った。


「勇者は、魔王と戦った」


「質問に答えていません」


「それが、答えられるすべてです」


 エリシアの手が震えた。


 レオンは踵を返した。


「今夜のことは忘れろ。国葬が終われば、すべて終わる」


「終わりません」


 俺は言った。


 レオンが足を止める。


「死者の傷は、消えません」


 振り返ったレオンの顔には、怒りではなく、苦痛が浮かんでいた。


 それが、かえって疑いを深めた。


 彼は何かを知っている。


 ただ知っているだけではない。

 罪の中心にいる。


 レオンは何も言わず、清拭室を出ていった。


 足音が遠ざかる。


 俺は勇者の遺体へ向き直った。


 暗殺者たちに荒らされた白布を整える。

 背中の傷は無事だった。


 だが、胸の偽装傷の横に、新しい傷がついていた。


 暗殺者が消そうとして失敗した痕だ。


 そこから、薄い金色の粉がこぼれている。


 聖銀粉。


 俺はそれを紙に取った。


 エリシアが、震える声で言った。


「レオン卿は、何かを隠しています」


「はい」


「兄を殺したのでしょうか」


 俺はすぐには答えられなかった。


 証拠はまだ足りない。


 だが、俺の中で結論は形を取り始めていた。


 近衛騎士レオン。


 白い手袋。

 白銀の儀礼用短剣。

 勇者の背後に立てる信頼。

 そして、剣を握る時のあの手首の癖。


「少なくとも」


 俺は記録紙を取り出した。


「勇者様の死に、深く関わっています」


 俺は新たな一文を書いた。


『国葬前夜、遺体損壊を目的とした襲撃あり。近衛騎士レオンが介入。剣の動作に、背部刺創と一致する手首の癖を確認』


 ペンを置いた時、王都の鐘が鳴った。


 夜明けまで、あとわずか。


 国葬は、もう目前だった。


 そして俺たちはまだ、勇者を殺した本当の理由を知らない。


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