第10話 国葬前夜の襲撃
排水口の中は、冷たい水で満ちていた。
膝まで泥水に浸かりながら、俺とエリシアは暗い水路を進んだ。
背中には、父の死者記録簿がある。
油紙と布で包んではいるが、濡らすわけにはいかない。
これには、王国が消してきた死者たちの本当の死因が記されている。
剣聖アーロン。
賢者リディア。
竜騎士バラム。
そして、勇者カイゼル。
王国が美談に変えた死者たち。
その記録を背負っていると思うだけで、肩が重かった。
だが、不思議と足は止まらなかった。
「ノアさん、大丈夫ですか」
前を行くエリシアが振り返った。
フードの端から雨水が滴っている。
白い修道服の裾は泥に汚れていた。
王国の聖女とは思えない姿だった。
それでも彼女の目は、まだ折れていない。
「大丈夫です」
俺は短く答えた。
「この水路は、どこへ出るんですか」
「旧共同墓地の外れから、葬儀局の裏手へ続いています。昔は遺体搬送用に使われていたと聞いたことがあります」
「葬儀局へ戻るのですか」
「一度、清拭室へ戻ります」
エリシアの表情が強張る。
「危険では」
「危険です。でも、勇者様の遺体をそのままにはできません」
英雄管理局は、明朝に再確認すると言っていた。
その前に国葬用の衣装を着せられれば、背中の傷も、胸の偽装傷も隠される。
黒花はすでにこちらにあるが、遺体そのものはまだ彼らの手の中だ。
「国葬が始まれば、勇者様は完全に物語にされます」
俺は水路の先を見た。
「その前に、もう一度だけ遺体を確認したい。記録簿の内容と照らし合わせれば、見落としていた痕があるかもしれません」
エリシアは黙って頷いた。
水路を抜けると、葬儀局の裏庭に出た。
雨は弱まっていたが、空は重く曇っている。
遠くでは、国葬のための鐘が鳴っていた。
明日の正午。
王都中の民が勇者の棺を見送る。
誰もが、魔王に胸を貫かれた英雄だと信じて。
俺たちは裏口から葬儀局へ入った。
建物の中は、妙に静かだった。
夜間担当の職員がいてもいい時間だ。
だが、廊下に人の気配がない。
その静けさが、かえって不気味だった。
「誰もいませんね」
エリシアが小声で言った。
「いないのではなく、遠ざけられたのかもしれません」
俺は灯りを消したまま進んだ。
地下清拭室へ向かう階段に差しかかった時、鉄の匂いがした。
血だ。
俺は足を止めた。
石段の端に、赤黒い滴が落ちている。
乾ききってはいない。
ついさっきのものだ。
「下がってください」
俺はエリシアに囁いた。
階段を一段ずつ下りる。
地下清拭室の扉は、半開きになっていた。
中から、かすかな物音が聞こえる。
金属が擦れる音。
誰かが、遺体に触れている。
俺は扉の隙間から中を覗いた。
黒い外套の男が二人いた。
英雄管理局の人間ではない。
紋章がない。
だが、動きは役人のものではなかった。
暗殺者だ。
一人は勇者の遺体のそばに立ち、白布を剥がそうとしている。
もう一人は作業台の引き出しを荒らしていた。
記録紙を探している。
黒花を探している。
あるいは、勇者の遺体に残る証拠を消そうとしている。
俺の中で、何かが冷たく固まった。
死者に手を出すな。
恐怖より先に、その怒りが来た。
「何をしている」
俺は扉を開けた。
暗殺者たちが振り返る。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、作業台の男が短剣を抜いた。
「逃げてください!」
俺はエリシアを押し戻した。
短剣が目前をかすめる。
俺は身を引いたが、肩に鋭い痛みが走った。
刃先が布と皮膚を裂いたのだ。
「ノアさん!」
「来るな!」
俺は近くにあった香油瓶を掴み、暗殺者へ投げつけた。
瓶が割れ、床に油が広がる。
相手の足が滑った。
その隙に、俺は勇者の棺台へ走った。
遺体を盾にするわけにはいかない。
だが、遺体から離れさせなければならない。
もう一人の暗殺者が、勇者の背中へ手を伸ばしていた。
背部刺創を潰すつもりだ。
俺は考えるより先に、その腕に飛びついた。
「触るな!」
相手は舌打ちし、俺の腹を蹴った。
息が詰まる。
床に倒れた俺の前に、刃が振り下ろされる。
終わった。
そう思った瞬間、清拭室の入口から鋭い金属音が響いた。
短剣が弾かれた。
俺の前に、銀の剣が差し込まれていた。
その剣を握っていたのは、白い手袋の男だった。
「ここで騒ぎを起こすな」
低い声。
黒髪。
雨に濡れた外套。
胸元には、近衛騎士の紋章。
レオンだった。
勇者パーティーの帰還者。
勇者カイゼルが背中を預けた騎士。
そして、勇者の背中を刺した可能性がある男。
レオンは迷いなく踏み込み、暗殺者の手首を剣の柄で打った。
短剣が床に落ちる。
もう一人の暗殺者が背後から襲いかかるが、レオンは振り返りもせず、半歩だけ体をずらした。
敵の刃が空を切る。
次の瞬間、レオンの剣が相手の喉元で止まった。
速い。
殺すつもりなら、もう死んでいた。
暗殺者たちは互いに目配せし、煙玉のようなものを床に叩きつけた。
白い煙が広がる。
咳き込む間に、二人の気配は消えた。
清拭室に残ったのは、割れた瓶、乱れた白布、そして荒い息だけだった。
「無事か」
レオンが俺を見下ろした。
俺は腹を押さえながら立ち上がる。
「助けてくれたことには、礼を言います」
「礼はいらない。ここで勇者の遺体を傷つけられるわけにはいかない」
その言葉に、俺は目を細めた。
「なぜですか」
レオンは答えなかった。
エリシアが清拭室へ入ってくる。
レオンの顔を見た瞬間、彼女の表情が硬くなった。
「レオン卿」
「聖女様。なぜここに」
「それはこちらの台詞です」
エリシアの声は冷たかった。
「あなたは王城にいるはずでは?」
「勇者の国葬前に、遺体の警備を確認しに来ただけです」
「警備?」
エリシアは勇者の遺体を見た。
「兄の遺体を守るために?」
「そうです」
「それとも、兄の遺体が何かを語らないように見張るためですか」
レオンの表情が一瞬だけ動いた。
ほんのわずか。
だが、確かに動揺した。
俺はその反応を見逃さなかった。
レオンはすぐに無表情へ戻った。
「聖女様は、疲れておられる」
「その言い方は英雄管理局の方々と同じですね」
「あなたのためを思って言っています」
「兄も、そう言われて殺されたのですか」
沈黙。
清拭室の空気が凍った。
レオンの白い手袋が、剣の柄を握り直した。
俺は、その動きに目を奪われた。
右手の親指が、柄の飾りを一度だけなぞる。
その動きに、見覚えがあった。
勇者の背中の傷。
刃が入った角度。
手首の返し。
迷いのない突き。
遺体に残った傷跡から想像した犯人の動きと、今のレオンの癖が重なった。
胸の奥が冷えた。
この男だ。
まだ証拠はない。
だが、勇者の背中に刃を入れた手は、この動きをしていた。
「ノア・アーベル」
レオンが俺を見た。
「君は、何を見た」
「葬儀屋ですから」
俺は肩の痛みをこらえながら答えた。
「死者の傷を見ました」
「それ以上見るな」
その声は、脅しではなかった。
むしろ、懇願に近かった。
「見れば、戻れなくなる」
「もう戻れません」
俺は勇者の遺体を見た。
白布の下には、まだ背中の傷がある。
胸には偽りの傷がある。
右手には聖銀粉の痕が残っている。
そして俺の背には、父の記録簿がある。
「あなたは、カイゼル様の最期を見たのですか」
俺が尋ねると、レオンは沈黙した。
エリシアが一歩前へ出る。
「答えてください。兄は、本当に魔王に殺されたのですか」
レオンは目を伏せた。
長い沈黙のあと、彼は言った。
「勇者は、魔王と戦った」
「質問に答えていません」
「それが、答えられるすべてです」
エリシアの手が震えた。
レオンは踵を返した。
「今夜のことは忘れろ。国葬が終われば、すべて終わる」
「終わりません」
俺は言った。
レオンが足を止める。
「死者の傷は、消えません」
振り返ったレオンの顔には、怒りではなく、苦痛が浮かんでいた。
それが、かえって疑いを深めた。
彼は何かを知っている。
ただ知っているだけではない。
罪の中心にいる。
レオンは何も言わず、清拭室を出ていった。
足音が遠ざかる。
俺は勇者の遺体へ向き直った。
暗殺者たちに荒らされた白布を整える。
背中の傷は無事だった。
だが、胸の偽装傷の横に、新しい傷がついていた。
暗殺者が消そうとして失敗した痕だ。
そこから、薄い金色の粉がこぼれている。
聖銀粉。
俺はそれを紙に取った。
エリシアが、震える声で言った。
「レオン卿は、何かを隠しています」
「はい」
「兄を殺したのでしょうか」
俺はすぐには答えられなかった。
証拠はまだ足りない。
だが、俺の中で結論は形を取り始めていた。
近衛騎士レオン。
白い手袋。
白銀の儀礼用短剣。
勇者の背後に立てる信頼。
そして、剣を握る時のあの手首の癖。
「少なくとも」
俺は記録紙を取り出した。
「勇者様の死に、深く関わっています」
俺は新たな一文を書いた。
『国葬前夜、遺体損壊を目的とした襲撃あり。近衛騎士レオンが介入。剣の動作に、背部刺創と一致する手首の癖を確認』
ペンを置いた時、王都の鐘が鳴った。
夜明けまで、あとわずか。
国葬は、もう目前だった。
そして俺たちはまだ、勇者を殺した本当の理由を知らない。




