第4話 聖女は泣かなかった
黒花の花びらは、もう何も語らなかった。
清拭室に残ったのは、雨音と、俺たちの荒い呼吸だけだった。
――英雄として帰ってきたら、その物語を疑え。
確かに聞こえた。
声だったのか。
記憶だったのか。
それとも、俺たちがそう聞きたかっただけなのか。
わからない。
だが、聖女エリシアの顔を見れば、それが偶然でないことだけはわかった。
彼女は兄の遺体を見つめていた。
白い頬は青ざめている。
唇も震えている。
それでも、泣いてはいなかった。
俺は思わず尋ねた。
「泣かないんですか」
口にしてから、無神経だったと気づいた。
兄の遺体を前にした妹に、かける言葉ではない。
だがエリシアは怒らなかった。
ただ、静かに首を横に振った。
「泣いたら、兄が本当に英雄にされてしまう気がするんです」
「英雄にされる?」
「はい」
エリシアは勇者カイゼルの手を、両手で包んだ。
その手はもう、温もりを返さない。
「明日の国葬で、兄はきっと美しい言葉で飾られます。勇敢だった。気高かった。世界を救った。魔王と相討ちになった。民のために命を捧げた」
彼女の声は震えていた。
だが、折れてはいなかった。
「でも、私は知っています。兄は、そんなにきれいな人ではありませんでした」
俺は黙って聞いた。
「寝起きは悪いし、食事の作法は雑だし、神官長の説教中に居眠りするし、私が泣くと困った顔をして逃げるような人でした。民が思っているような、完璧な勇者ではありません」
エリシアの口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。
それはすぐに消えた。
「でも、誰かを見捨てる人でもありませんでした」
彼女は兄の胸元に目を落とした。
黒く焼けた偽りの傷。
魔王の黒槍に貫かれたように作られた、死後の傷。
「兄は、魔王を倒した英雄として帰ってきた。王国はそう言っています。でも兄は、出発前に私へ言いました」
エリシアは、ゆっくりと顔を上げた。
「もし俺が英雄として帰ってきたら、その物語を疑え、と」
俺は胸の奥が冷えるのを感じた。
黒花から聞こえた言葉と、同じだ。
「それは、いつ聞いたんですか」
「魔王領へ向かう前夜です」
エリシアは記憶をたどるように、遠い目をした。
「王城の礼拝堂でした。兄は聖剣を受け取ったあと、私にだけ会いに来ました。いつものように軽口を言って、心配するなと笑って……それから急に、真面目な顔になったんです」
「何かを知っていた?」
「たぶん。けれど、その時は教えてくれませんでした。ただ、こう言いました」
エリシアは兄の手を握り直した。
「王国が作る物語は、いつもきれいすぎる。きれいすぎる話には、誰かの血が隠れている」
地下清拭室の空気が、さらに冷えた気がした。
きれいすぎる話には、誰かの血が隠れている。
葬儀屋として、その言葉の意味は嫌というほどわかる。
立派な戦死。
名誉ある殉職。
病による静かな最期。
神に召された清らかな死。
そう記録された遺体の中に、本当は毒や暴力や裏切りが隠れていたことを、俺は何度も見てきた。
死者の体は、物語より正直だ。
「エリシア様」
「様はいりません」
彼女はすぐに言った。
「ここにいる私は聖女ではありません。勇者の妹です」
「……では、エリシアさん」
「はい」
「あなたは、兄上が魔王に殺されたとは思っていないんですね」
「思っていません」
即答だった。
「理由は?」
「兄は、背中を見せて逃げる人ではありません」
その一言に、俺は息を呑んだ。
「魔王と戦ったなら、兄は正面から向かいます。怖くても、無茶でも、そうする人です。兄が背中を刺されたのなら、それは逃げたからではない」
「信頼していた相手に、背を向けた」
「はい」
エリシアの目に、怒りが宿った。
「兄を刺したのは、兄が背を向けても大丈夫だと思った相手です」
鋭い。
彼女はただの遺族ではなかった。
兄をよく知る者だからこそ、傷の意味を理解している。
俺が遺体から読んだことを、彼女は兄の性格から読んでいた。
「勇者パーティーの中に、犯人がいると?」
「わかりません」
エリシアは首を横に振った。
「でも、少なくとも兄の近くにいた人です。背後に立つことを許されるほど、兄に近かった人」
俺は勇者の背中の傷を思い出した。
刃は迷いなく入っていた。
ためらい傷ではない。
けれど、真正面から襲ったものでもない。
近づける相手。
疑われない相手。
そして、聖属性の刃を持てる相手。
候補は限られてくる。
「勇者パーティーの生存者は?」
「三人です」
エリシアは答えた。
「近衛騎士レオン。宮廷魔術師サイラス。神官補佐マリナ」
「その三人は、今どこに?」
「王城にいるはずです。ですが、私は会わせてもらえませんでした」
「聖女であるあなたが?」
「私は、兄の妹でもありますから」
皮肉な言い方だった。
「遺族は、余計なことを聞くと思われたのでしょう」
その言葉に、俺は英雄管理局の監査官ディートの顔を思い出した。
遺族への説明も不要。
勇者はすでに個人ではない。
王国の象徴だ。
あの男なら、そう考えるだろう。
「ノアさん」
エリシアが、まっすぐに俺を見た。
「兄の死因を、調べてください」
「俺は葬儀屋です」
「はい」
「探偵ではありません。騎士でもない。王城へ自由に出入りできる立場でもない」
「それでも、あなたにしか頼めません」
「なぜです」
エリシアは、兄の遺体へ視線を戻した。
「騎士は王に従います。神官は教会に従います。役人は記録に従います」
そして、俺を見た。
「でも葬儀屋だけは、死者に従うのでしょう?」
言葉が出なかった。
その一言は、刃より深く胸に入った。
葬儀屋だけは、死者に従う。
そんな立派なものだっただろうか。
俺は今日まで、命令に従い、記録に合わせ、都合の悪い傷を隠してきた。
死者に従うどころか、生者の嘘に手を貸してきたのではないか。
父は違った。
書かなくていいことを書いた。
母はそう言った。
だが本当に、書かなくてよかったのか。
死者が残した傷を、なかったことにしなかっただけではないのか。
「……危険です」
俺は言った。
「あなたも、俺も」
「知っています」
「聖女の立場を失うかもしれない」
「兄の死を嘘にされるより、ましです」
「命を狙われるかもしれない」
「兄はもう殺されました」
静かな声だった。
「これ以上、何を恐れればいいのですか」
俺は答えられなかった。
聖女は泣かなかった。
泣く代わりに、覚悟を決めていた。
俺は作業台に置いた記録紙を見た。
勇者カイゼル。
実際の致命傷、背部刺創。
英雄管理局より、背部外傷の隠蔽命令あり。
ここから先を書けば、俺はもう、ただの葬儀屋ではいられない。
それでも、ペンを取った。
「国葬は明日の正午です」
「はい」
「それまでに、確かめられることは限られています」
「何をすればいいですか」
「まず、胸の傷をもう一度調べます」
エリシアが眉を寄せた。
「偽装傷、ですか」
「はい。あの傷を作った者がわかれば、勇者の遺体に触れた人間を絞れるかもしれません」
「私にできることは?」
「兄上のことを教えてください」
「兄のこと?」
「癖、持ち物、信頼していた人間、疑っていた人間。どんな些細なことでもいい」
俺は勇者の遺体を見た。
「死者の傷は、死に方を教えてくれます。でも、生きていた時のことは、遺された人にしかわからない」
エリシアは小さく頷いた。
「わかりました。全部、話します」
その瞬間だった。
勇者の右手が、かすかに動いた。
いや、動いたように見えた。
死後硬直の変化か。
清拭室の冷気による錯覚か。
だが、エリシアも同時に息を呑んだ。
俺たちは勇者の手元を見た。
指先に、黒い粉が付いていた。
さっきまでは、なかったはずだ。
黒花の花びらから落ちたものではない。
もっと粒が細かく、金属のように鈍く光っている。
俺は慎重に、それを紙片に取った。
「これは……」
見覚えがあった。
儀礼用短剣の柄に使われる、聖銀粉。
教会や王国儀式で用いられる刃の装飾材だ。
魔王の武器には、絶対に使われない。
エリシアの瞳が鋭くなる。
「兄を刺した刃のものですか」
「おそらく」
「では、兄は最期に……」
「刺した相手か、刃に触れた可能性があります」
勇者は、ただ殺されたのではない。
最期の瞬間、証拠を残そうとしていた。
俺は胸の奥に震えを感じた。
この死者は、黙っていない。
口は閉ざされても、傷で、手で、黒花で、まだ語ろうとしている。
俺は記録紙に、新たな一文を書いた。
『右手指先に聖銀粉。犯行凶器は聖属性を帯びた儀礼用短剣の可能性あり』
エリシアは、その文字をじっと見つめた。
そして初めて、ほんの少しだけ笑った。
悲しい笑みだった。
けれど、弱い笑みではなかった。
「兄らしいです」
「え?」
「死んでも、黙って殺される人じゃありません」
俺も、勇者の手を見た。
冷たく、硬く、もう剣を握ることはない手。
だが、その手は確かに、真実への糸を残していた。
俺は静かに白布をめくり、胸の偽装傷を見た。
「始めましょう」
エリシアが頷いた。
「兄の本当の葬儀を」
雨はまだ降っていた。
だがその音は、さっきまでとは違って聞こえた。
何かが終わる音ではない。
嘘に覆われた死者が、もう一度名を取り戻すための、始まりの音だった。




