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勇者は背中から死んでいた  作者: swingout777


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第4話 聖女は泣かなかった

 黒花の花びらは、もう何も語らなかった。


 清拭室に残ったのは、雨音と、俺たちの荒い呼吸だけだった。


 ――英雄として帰ってきたら、その物語を疑え。


 確かに聞こえた。


 声だったのか。

 記憶だったのか。

 それとも、俺たちがそう聞きたかっただけなのか。


 わからない。


 だが、聖女エリシアの顔を見れば、それが偶然でないことだけはわかった。


 彼女は兄の遺体を見つめていた。


 白い頬は青ざめている。

 唇も震えている。

 それでも、泣いてはいなかった。


 俺は思わず尋ねた。


「泣かないんですか」


 口にしてから、無神経だったと気づいた。


 兄の遺体を前にした妹に、かける言葉ではない。


 だがエリシアは怒らなかった。


 ただ、静かに首を横に振った。


「泣いたら、兄が本当に英雄にされてしまう気がするんです」


「英雄にされる?」


「はい」


 エリシアは勇者カイゼルの手を、両手で包んだ。


 その手はもう、温もりを返さない。


「明日の国葬で、兄はきっと美しい言葉で飾られます。勇敢だった。気高かった。世界を救った。魔王と相討ちになった。民のために命を捧げた」


 彼女の声は震えていた。


 だが、折れてはいなかった。


「でも、私は知っています。兄は、そんなにきれいな人ではありませんでした」


 俺は黙って聞いた。


「寝起きは悪いし、食事の作法は雑だし、神官長の説教中に居眠りするし、私が泣くと困った顔をして逃げるような人でした。民が思っているような、完璧な勇者ではありません」


 エリシアの口元に、ほんの少しだけ笑みが浮かんだ。


 それはすぐに消えた。


「でも、誰かを見捨てる人でもありませんでした」


 彼女は兄の胸元に目を落とした。


 黒く焼けた偽りの傷。

 魔王の黒槍に貫かれたように作られた、死後の傷。


「兄は、魔王を倒した英雄として帰ってきた。王国はそう言っています。でも兄は、出発前に私へ言いました」


 エリシアは、ゆっくりと顔を上げた。


「もし俺が英雄として帰ってきたら、その物語を疑え、と」


 俺は胸の奥が冷えるのを感じた。


 黒花から聞こえた言葉と、同じだ。


「それは、いつ聞いたんですか」


「魔王領へ向かう前夜です」


 エリシアは記憶をたどるように、遠い目をした。


「王城の礼拝堂でした。兄は聖剣を受け取ったあと、私にだけ会いに来ました。いつものように軽口を言って、心配するなと笑って……それから急に、真面目な顔になったんです」


「何かを知っていた?」


「たぶん。けれど、その時は教えてくれませんでした。ただ、こう言いました」


 エリシアは兄の手を握り直した。


「王国が作る物語は、いつもきれいすぎる。きれいすぎる話には、誰かの血が隠れている」


 地下清拭室の空気が、さらに冷えた気がした。


 きれいすぎる話には、誰かの血が隠れている。


 葬儀屋として、その言葉の意味は嫌というほどわかる。


 立派な戦死。

 名誉ある殉職。

 病による静かな最期。

 神に召された清らかな死。


 そう記録された遺体の中に、本当は毒や暴力や裏切りが隠れていたことを、俺は何度も見てきた。


 死者の体は、物語より正直だ。


「エリシア様」


「様はいりません」


 彼女はすぐに言った。


「ここにいる私は聖女ではありません。勇者の妹です」


「……では、エリシアさん」


「はい」


「あなたは、兄上が魔王に殺されたとは思っていないんですね」


「思っていません」


 即答だった。


「理由は?」


「兄は、背中を見せて逃げる人ではありません」


 その一言に、俺は息を呑んだ。


「魔王と戦ったなら、兄は正面から向かいます。怖くても、無茶でも、そうする人です。兄が背中を刺されたのなら、それは逃げたからではない」


「信頼していた相手に、背を向けた」


「はい」


 エリシアの目に、怒りが宿った。


「兄を刺したのは、兄が背を向けても大丈夫だと思った相手です」


 鋭い。


 彼女はただの遺族ではなかった。


 兄をよく知る者だからこそ、傷の意味を理解している。


 俺が遺体から読んだことを、彼女は兄の性格から読んでいた。


「勇者パーティーの中に、犯人がいると?」


「わかりません」


 エリシアは首を横に振った。


「でも、少なくとも兄の近くにいた人です。背後に立つことを許されるほど、兄に近かった人」


 俺は勇者の背中の傷を思い出した。


 刃は迷いなく入っていた。

 ためらい傷ではない。

 けれど、真正面から襲ったものでもない。


 近づける相手。

 疑われない相手。

 そして、聖属性の刃を持てる相手。


 候補は限られてくる。


「勇者パーティーの生存者は?」


「三人です」


 エリシアは答えた。


「近衛騎士レオン。宮廷魔術師サイラス。神官補佐マリナ」


「その三人は、今どこに?」


「王城にいるはずです。ですが、私は会わせてもらえませんでした」


「聖女であるあなたが?」


「私は、兄の妹でもありますから」


 皮肉な言い方だった。


「遺族は、余計なことを聞くと思われたのでしょう」


 その言葉に、俺は英雄管理局の監査官ディートの顔を思い出した。


 遺族への説明も不要。

 勇者はすでに個人ではない。

 王国の象徴だ。


 あの男なら、そう考えるだろう。


「ノアさん」


 エリシアが、まっすぐに俺を見た。


「兄の死因を、調べてください」


「俺は葬儀屋です」


「はい」


「探偵ではありません。騎士でもない。王城へ自由に出入りできる立場でもない」


「それでも、あなたにしか頼めません」


「なぜです」


 エリシアは、兄の遺体へ視線を戻した。


「騎士は王に従います。神官は教会に従います。役人は記録に従います」


 そして、俺を見た。


「でも葬儀屋だけは、死者に従うのでしょう?」


 言葉が出なかった。


 その一言は、刃より深く胸に入った。


 葬儀屋だけは、死者に従う。


 そんな立派なものだっただろうか。

 俺は今日まで、命令に従い、記録に合わせ、都合の悪い傷を隠してきた。


 死者に従うどころか、生者の嘘に手を貸してきたのではないか。


 父は違った。


 書かなくていいことを書いた。

 母はそう言った。


 だが本当に、書かなくてよかったのか。


 死者が残した傷を、なかったことにしなかっただけではないのか。


「……危険です」


 俺は言った。


「あなたも、俺も」


「知っています」


「聖女の立場を失うかもしれない」


「兄の死を嘘にされるより、ましです」


「命を狙われるかもしれない」


「兄はもう殺されました」


 静かな声だった。


「これ以上、何を恐れればいいのですか」


 俺は答えられなかった。


 聖女は泣かなかった。


 泣く代わりに、覚悟を決めていた。


 俺は作業台に置いた記録紙を見た。


 勇者カイゼル。

 実際の致命傷、背部刺創。

 英雄管理局より、背部外傷の隠蔽命令あり。


 ここから先を書けば、俺はもう、ただの葬儀屋ではいられない。


 それでも、ペンを取った。


「国葬は明日の正午です」


「はい」


「それまでに、確かめられることは限られています」


「何をすればいいですか」


「まず、胸の傷をもう一度調べます」


 エリシアが眉を寄せた。


「偽装傷、ですか」


「はい。あの傷を作った者がわかれば、勇者の遺体に触れた人間を絞れるかもしれません」


「私にできることは?」


「兄上のことを教えてください」


「兄のこと?」


「癖、持ち物、信頼していた人間、疑っていた人間。どんな些細なことでもいい」


 俺は勇者の遺体を見た。


「死者の傷は、死に方を教えてくれます。でも、生きていた時のことは、遺された人にしかわからない」


 エリシアは小さく頷いた。


「わかりました。全部、話します」


 その瞬間だった。


 勇者の右手が、かすかに動いた。


 いや、動いたように見えた。


 死後硬直の変化か。

 清拭室の冷気による錯覚か。


 だが、エリシアも同時に息を呑んだ。


 俺たちは勇者の手元を見た。


 指先に、黒い粉が付いていた。


 さっきまでは、なかったはずだ。


 黒花の花びらから落ちたものではない。

 もっと粒が細かく、金属のように鈍く光っている。


 俺は慎重に、それを紙片に取った。


「これは……」


 見覚えがあった。


 儀礼用短剣の柄に使われる、聖銀粉。


 教会や王国儀式で用いられる刃の装飾材だ。


 魔王の武器には、絶対に使われない。


 エリシアの瞳が鋭くなる。


「兄を刺した刃のものですか」


「おそらく」


「では、兄は最期に……」


「刺した相手か、刃に触れた可能性があります」


 勇者は、ただ殺されたのではない。


 最期の瞬間、証拠を残そうとしていた。


 俺は胸の奥に震えを感じた。


 この死者は、黙っていない。


 口は閉ざされても、傷で、手で、黒花で、まだ語ろうとしている。


 俺は記録紙に、新たな一文を書いた。


『右手指先に聖銀粉。犯行凶器は聖属性を帯びた儀礼用短剣の可能性あり』


 エリシアは、その文字をじっと見つめた。


 そして初めて、ほんの少しだけ笑った。


 悲しい笑みだった。


 けれど、弱い笑みではなかった。


「兄らしいです」


「え?」


「死んでも、黙って殺される人じゃありません」


 俺も、勇者の手を見た。


 冷たく、硬く、もう剣を握ることはない手。


 だが、その手は確かに、真実への糸を残していた。


 俺は静かに白布をめくり、胸の偽装傷を見た。


「始めましょう」


 エリシアが頷いた。


「兄の本当の葬儀を」


 雨はまだ降っていた。


 だがその音は、さっきまでとは違って聞こえた。


 何かが終わる音ではない。


 嘘に覆われた死者が、もう一度名を取り戻すための、始まりの音だった。


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