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勇者は背中から死んでいた  作者: swingout777


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第39話 死体鑑定士ではなく

 王都に黒花が咲いてから、三日が過ぎた。


 井戸の水は、まだ完全には澄んでいない。


 けれど、黒い濁りは少しずつ薄れていた。


 王城前広場の中央水路には、黒花の根が伸びている。

 石畳の隙間から咲いた小さな花は、王都の民に踏まれないよう、低い柵で囲われていた。


 最初、その柵に近づく者はいなかった。


 呪いの花だと教えられてきたものに、すぐ手を合わせられるほど、人の心は簡単ではない。


 それでも、朝になると誰かが水を置くようになった。


 昼には、枯れた白百合の代わりに、小さな石が供えられた。


 夕方には、名前を書いた木片を置いていく者もいた。


 剣聖アーロン。

 賢者リディア。

 竜騎士バラム。

 治癒術師セリア。

 名前を知られなかった第七歩兵隊の誰か。


 そして、勇者カイゼル。


 王国が長い間消してきた名前が、少しずつ王都に戻ってきていた。


 英雄管理局は、解体された。


 少なくとも、王女ミラはそう宣言した。


 黒外套の職員たちは拘束され、保管庫は封鎖された。

 英雄管理局第五保管庫からは、死因を書き換えられた遺体記録、押収された黒花の根、遺族への沈黙誓約書、国葬演出用の祭具が次々に見つかった。


 宰相バルド・ガルヴェインも拘束された。


 彼は最後まで、自分は国家を守っただけだと言い続けた。


 民には物語が必要だ。

 敵がいなければ国はまとまらない。

 死者には意味を与えてやらねばならない。


 その言葉を聞いた時、俺は思った。


 この男は、最後まで死者を見ていないのだ、と。


 死者に意味を与える必要などない。


 死者には、すでに生きた時間がある。

 愛した人がいる。

 間違えたことがある。

 言えなかった言葉がある。

 傷がある。


 それを生者が勝手に削り、美しく磨き、都合のいい像に作り替えることを、弔いとは呼ばない。


 その日の午後、俺は王城へ呼ばれた。


 謁見の間ではない。


 王女ミラの執務室だった。


 窓辺には、黒花の小さな鉢が置かれていた。


 まだ王城の者たちは、その花に近づくたび緊張するらしい。

 だがミラ王女は、水差しを手にして、その鉢へ丁寧に水を注いでいた。


「怖くないのですか」


 俺が尋ねると、彼女は少し笑った。


「怖くないと言えば嘘になります」


 水差しを置き、黒花を見つめる。


「でも、怖いからこそ見なければならないのだと思います。王家は、長い間それをしませんでした」


 部屋には、エリシアもいた。


 彼女は白い聖女服ではなく、簡素な黒い喪服を着ていた。

 聖女資格は停止されたままだ。


 けれど、王都の民の中には、今も彼女を聖女と呼ぶ者がいる。


 彼女自身は、その呼び名にまだ答えていない。


 レオンはいなかった。


 彼は王宮地下の拘束室にいる。

 勇者殺害の実行犯として、正式な裁きの場に立つことが決まっていた。


 逃げなかった。


 死を望むことも許されず、生きて証言する道を選ばされた男。


 それが救いか罰か、俺にはまだわからない。


「ノア・アーベル」


 ミラ王女が、机の上の書類を俺へ差し出した。


「あなたに、新しい役職を用意しました」


 俺は書類を受け取った。


 そこには、まだ乾ききっていないインクでこう書かれていた。


『王国死体鑑定官』


 胸の奥が、少し冷えた。


「死体鑑定官、ですか」


「はい」


 ミラは真剣な顔で頷いた。


「英雄管理局の解体後、王国には死因を独立して調べる機関が必要です。王都葬儀局だけでは、政治権力から守りきれない。あなたには、その中心に立ってほしいのです」


 正しい提案だと思った。


 王国が本当に変わるなら、死者の記録を守る仕組みは必要だ。

 死因を書き換えられない制度。

 遺族が遺体に会う権利。

 国葬や英雄認定を政治から切り離す手続き。


 すべて必要だ。


 けれど、書類の文字を見た瞬間、俺の手は止まっていた。


 死体鑑定官。


 死者を調べる役職。


 王国に認められ、権限を与えられ、記録を残す者。


 それはきっと、父が望んだ未来の一部なのかもしれない。


 だが、俺はその肩書きに、どこか違和感を覚えていた。


「光栄です」


 俺は言った。


「でも、お受けできません」


 ミラは驚いた顔をした。


 エリシアも、静かに俺を見た。


「理由を聞いても?」


「俺は、死体を鑑定したいわけではありません」


 自分の言葉を探すように、ゆっくり続けた。


「死因を読むことはできます。傷も、腐敗も、魔力残滓も見る。嘘を暴くために必要なら、いくらでも記録します」


 俺は書類を机へ戻した。


「でも、俺の仕事は、死者を調べることで終わりではありません」


 地下清拭室を思い出す。


 雨の日に届いた勇者の棺。

 冷たい肌。

 胸の偽りの傷。

 背中の本当の致命傷。

 右手に残っていた黒花。


 あの日、俺はただ死因を見つけたのではない。


 一人の死者を、王国の嘘から取り戻そうとした。


「葬儀屋は、死者を裁く仕事ではありません。利用する仕事でもありません。死者を、死者自身の形で送る仕事です」


 ミラは黙って聞いていた。


「王国死体鑑定官になれば、俺はきっと権限を持つでしょう。でも同時に、王国の役職になります」


「王国が、またあなたに圧力をかけると?」


「王国だけではありません」


 俺は首を横に振った。


「遺族も、民も、時には正義を求める人たちも、死者に都合のいい言葉を求めます。誰かを罰するための死体。誰かを英雄にするための死体。誰かを赦すための死体」


 それは、バルドだけの罪ではない。


 人は誰でも、死者に意味を求める。

 耐えられない悲しみを、物語にして抱えようとする。


 それ自体は、悪ではない。


 けれど、死者の形を変えてまで求めるなら、それはまた同じ過ちになる。


「だから俺は、王国の鑑定官ではなく、葬儀屋でいたい」


 エリシアが小さく息を吐いた。


「ノアさんらしいです」


「すみません」


「謝ることではありません」


 ミラは書類を見つめ、やがて静かに頷いた。


「わかりました。では、役職名を変えましょう」


「え?」


「王国死体鑑定官ではなく、王都葬儀局の独立性を保証します。葬儀官が死因に疑義を持った場合、いかなる政治機関も記録の破棄や改竄を命じられない。遺族には、遺体と記録を確認する権利を認める」


 彼女は新しい紙を取り出した。


「あなたが役職を受けないなら、仕組みを変えます」


 俺は言葉を失った。


 ミラは微笑んだ。


「私も、良い王女でいることをやめましたから」


 エリシアが少しだけ笑った。


 久しぶりに見る、静かな笑みだった。


「それなら、兄も少しは安心するかもしれません」


「カイゼル様なら、何と言うでしょう」


 俺が尋ねると、エリシアは少し考えた。


「たぶん、照れくさそうに笑ってから言います」


 彼女は兄の声を思い出すように目を細めた。


「面倒なことを増やして悪いな、と」


 俺も、つい笑ってしまった。


 きっとそう言う気がした。


 その後、俺は王城を出て、王都葬儀局へ戻った。


 地下清拭室は、以前と同じように冷えていた。


 石の台。

 水桶。

 白布。

 記録棚。


 だが、部屋の隅には小さな黒花の鉢が置かれていた。


 グラント局長が置いたらしい。


 局長は相変わらず眉間に皺を寄せていた。


「王城の役職を断ったそうだな」


「早いですね」


「王都は噂が速い」


「怒っていますか」


「半分はな」


 局長は腕を組んだ。


「もう半分は、少し安心している」


「局長が安心することもあるんですね」


「口が減らないな」


 そう言いながら、局長は古い記録棚を開いた。


 そこには、父の記録簿と同じ形式の新しい帳面が用意されていた。


 表紙には、まだ何も書かれていない。


「お前の父親が残した記録は、王国の再調査に使われる」


 局長は言った。


「だが、それだけでは足りない。これからも、記録しなければならない死者は出る」


「はい」


「英雄でなくてもだ」


「もちろんです」


「王国に都合が悪くてもだ」


「それも、もちろんです」


 局長は新しい帳面を俺に渡した。


「なら、書け」


 俺は帳面を受け取った。


 重かった。


 紙の束の重さではない。


 これからここに記される死者たちの重さだ。


 表紙に、俺はゆっくりと書いた。


『王都葬儀局 死者記録簿』


 少し迷って、下にもう一文加えた。


『死者を飾らず、消さず、送るために』


 局長はそれを見て、何も言わなかった。


 ただ、静かに頷いた。


 その夜、俺は勇者カイゼルの棺の前に立った。


 国葬用の白い飾りはすべて外されている。

 金糸の布も、偽りの花輪も、英雄の勲章もない。


 棺の上にあるのは、黒花が一輪。


 そして、エリシアが置いた兄のマントの切れ端だけだった。


 明日、俺たちは王都を出る。


 勇者の遺体を、黒花の村へ運ぶために。


 国葬ではなく、彼を知る者たちだけの小さな葬儀を行うために。


 俺は棺に手を置いた。


「カイゼル様」


 冷たい木の感触が掌に伝わる。


「俺は、死体鑑定士にはなりませんでした」


 返事はない。


 当然だ。


 死者は喋らない。


 けれど、死者は黙っていても多くを残す。


「あなたの傷を読んだことは、間違いではなかったと思います。でも、俺は傷だけを読む者にはなりたくありません」


 黒花が静かに揺れた。


「あなたを、ちゃんと送ります」


 胸の奥に、ようやくその言葉が落ちた。


 事件を暴くためではない。

 王国を変えるためでもない。

 誰かを裁くためでもない。


 ただ、死者を送るために。


 俺は葬儀屋だ。


 死体鑑定士ではなく。


 死者の傷を読み、死者の名を呼び、遺された者が嘘ではなく本当の悲しみを抱けるようにする者。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 地下清拭室の小さな窓から、夜明け前の青い光が差し込んでいた。


 王都のどこかで、黒花が静かに咲いている。


 明日、その花の咲く村で、勇者カイゼルの本当の葬儀を行う。


 俺は新しい記録簿を開き、最初のページに日付を書いた。


 そして、名前を書く。


『カイゼル・レインフォード』


 勇者ではなく。


 まず、一人の人間の名として。


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