第39話 死体鑑定士ではなく
王都に黒花が咲いてから、三日が過ぎた。
井戸の水は、まだ完全には澄んでいない。
けれど、黒い濁りは少しずつ薄れていた。
王城前広場の中央水路には、黒花の根が伸びている。
石畳の隙間から咲いた小さな花は、王都の民に踏まれないよう、低い柵で囲われていた。
最初、その柵に近づく者はいなかった。
呪いの花だと教えられてきたものに、すぐ手を合わせられるほど、人の心は簡単ではない。
それでも、朝になると誰かが水を置くようになった。
昼には、枯れた白百合の代わりに、小さな石が供えられた。
夕方には、名前を書いた木片を置いていく者もいた。
剣聖アーロン。
賢者リディア。
竜騎士バラム。
治癒術師セリア。
名前を知られなかった第七歩兵隊の誰か。
そして、勇者カイゼル。
王国が長い間消してきた名前が、少しずつ王都に戻ってきていた。
英雄管理局は、解体された。
少なくとも、王女ミラはそう宣言した。
黒外套の職員たちは拘束され、保管庫は封鎖された。
英雄管理局第五保管庫からは、死因を書き換えられた遺体記録、押収された黒花の根、遺族への沈黙誓約書、国葬演出用の祭具が次々に見つかった。
宰相バルド・ガルヴェインも拘束された。
彼は最後まで、自分は国家を守っただけだと言い続けた。
民には物語が必要だ。
敵がいなければ国はまとまらない。
死者には意味を与えてやらねばならない。
その言葉を聞いた時、俺は思った。
この男は、最後まで死者を見ていないのだ、と。
死者に意味を与える必要などない。
死者には、すでに生きた時間がある。
愛した人がいる。
間違えたことがある。
言えなかった言葉がある。
傷がある。
それを生者が勝手に削り、美しく磨き、都合のいい像に作り替えることを、弔いとは呼ばない。
その日の午後、俺は王城へ呼ばれた。
謁見の間ではない。
王女ミラの執務室だった。
窓辺には、黒花の小さな鉢が置かれていた。
まだ王城の者たちは、その花に近づくたび緊張するらしい。
だがミラ王女は、水差しを手にして、その鉢へ丁寧に水を注いでいた。
「怖くないのですか」
俺が尋ねると、彼女は少し笑った。
「怖くないと言えば嘘になります」
水差しを置き、黒花を見つめる。
「でも、怖いからこそ見なければならないのだと思います。王家は、長い間それをしませんでした」
部屋には、エリシアもいた。
彼女は白い聖女服ではなく、簡素な黒い喪服を着ていた。
聖女資格は停止されたままだ。
けれど、王都の民の中には、今も彼女を聖女と呼ぶ者がいる。
彼女自身は、その呼び名にまだ答えていない。
レオンはいなかった。
彼は王宮地下の拘束室にいる。
勇者殺害の実行犯として、正式な裁きの場に立つことが決まっていた。
逃げなかった。
死を望むことも許されず、生きて証言する道を選ばされた男。
それが救いか罰か、俺にはまだわからない。
「ノア・アーベル」
ミラ王女が、机の上の書類を俺へ差し出した。
「あなたに、新しい役職を用意しました」
俺は書類を受け取った。
そこには、まだ乾ききっていないインクでこう書かれていた。
『王国死体鑑定官』
胸の奥が、少し冷えた。
「死体鑑定官、ですか」
「はい」
ミラは真剣な顔で頷いた。
「英雄管理局の解体後、王国には死因を独立して調べる機関が必要です。王都葬儀局だけでは、政治権力から守りきれない。あなたには、その中心に立ってほしいのです」
正しい提案だと思った。
王国が本当に変わるなら、死者の記録を守る仕組みは必要だ。
死因を書き換えられない制度。
遺族が遺体に会う権利。
国葬や英雄認定を政治から切り離す手続き。
すべて必要だ。
けれど、書類の文字を見た瞬間、俺の手は止まっていた。
死体鑑定官。
死者を調べる役職。
王国に認められ、権限を与えられ、記録を残す者。
それはきっと、父が望んだ未来の一部なのかもしれない。
だが、俺はその肩書きに、どこか違和感を覚えていた。
「光栄です」
俺は言った。
「でも、お受けできません」
ミラは驚いた顔をした。
エリシアも、静かに俺を見た。
「理由を聞いても?」
「俺は、死体を鑑定したいわけではありません」
自分の言葉を探すように、ゆっくり続けた。
「死因を読むことはできます。傷も、腐敗も、魔力残滓も見る。嘘を暴くために必要なら、いくらでも記録します」
俺は書類を机へ戻した。
「でも、俺の仕事は、死者を調べることで終わりではありません」
地下清拭室を思い出す。
雨の日に届いた勇者の棺。
冷たい肌。
胸の偽りの傷。
背中の本当の致命傷。
右手に残っていた黒花。
あの日、俺はただ死因を見つけたのではない。
一人の死者を、王国の嘘から取り戻そうとした。
「葬儀屋は、死者を裁く仕事ではありません。利用する仕事でもありません。死者を、死者自身の形で送る仕事です」
ミラは黙って聞いていた。
「王国死体鑑定官になれば、俺はきっと権限を持つでしょう。でも同時に、王国の役職になります」
「王国が、またあなたに圧力をかけると?」
「王国だけではありません」
俺は首を横に振った。
「遺族も、民も、時には正義を求める人たちも、死者に都合のいい言葉を求めます。誰かを罰するための死体。誰かを英雄にするための死体。誰かを赦すための死体」
それは、バルドだけの罪ではない。
人は誰でも、死者に意味を求める。
耐えられない悲しみを、物語にして抱えようとする。
それ自体は、悪ではない。
けれど、死者の形を変えてまで求めるなら、それはまた同じ過ちになる。
「だから俺は、王国の鑑定官ではなく、葬儀屋でいたい」
エリシアが小さく息を吐いた。
「ノアさんらしいです」
「すみません」
「謝ることではありません」
ミラは書類を見つめ、やがて静かに頷いた。
「わかりました。では、役職名を変えましょう」
「え?」
「王国死体鑑定官ではなく、王都葬儀局の独立性を保証します。葬儀官が死因に疑義を持った場合、いかなる政治機関も記録の破棄や改竄を命じられない。遺族には、遺体と記録を確認する権利を認める」
彼女は新しい紙を取り出した。
「あなたが役職を受けないなら、仕組みを変えます」
俺は言葉を失った。
ミラは微笑んだ。
「私も、良い王女でいることをやめましたから」
エリシアが少しだけ笑った。
久しぶりに見る、静かな笑みだった。
「それなら、兄も少しは安心するかもしれません」
「カイゼル様なら、何と言うでしょう」
俺が尋ねると、エリシアは少し考えた。
「たぶん、照れくさそうに笑ってから言います」
彼女は兄の声を思い出すように目を細めた。
「面倒なことを増やして悪いな、と」
俺も、つい笑ってしまった。
きっとそう言う気がした。
その後、俺は王城を出て、王都葬儀局へ戻った。
地下清拭室は、以前と同じように冷えていた。
石の台。
水桶。
白布。
記録棚。
だが、部屋の隅には小さな黒花の鉢が置かれていた。
グラント局長が置いたらしい。
局長は相変わらず眉間に皺を寄せていた。
「王城の役職を断ったそうだな」
「早いですね」
「王都は噂が速い」
「怒っていますか」
「半分はな」
局長は腕を組んだ。
「もう半分は、少し安心している」
「局長が安心することもあるんですね」
「口が減らないな」
そう言いながら、局長は古い記録棚を開いた。
そこには、父の記録簿と同じ形式の新しい帳面が用意されていた。
表紙には、まだ何も書かれていない。
「お前の父親が残した記録は、王国の再調査に使われる」
局長は言った。
「だが、それだけでは足りない。これからも、記録しなければならない死者は出る」
「はい」
「英雄でなくてもだ」
「もちろんです」
「王国に都合が悪くてもだ」
「それも、もちろんです」
局長は新しい帳面を俺に渡した。
「なら、書け」
俺は帳面を受け取った。
重かった。
紙の束の重さではない。
これからここに記される死者たちの重さだ。
表紙に、俺はゆっくりと書いた。
『王都葬儀局 死者記録簿』
少し迷って、下にもう一文加えた。
『死者を飾らず、消さず、送るために』
局長はそれを見て、何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
その夜、俺は勇者カイゼルの棺の前に立った。
国葬用の白い飾りはすべて外されている。
金糸の布も、偽りの花輪も、英雄の勲章もない。
棺の上にあるのは、黒花が一輪。
そして、エリシアが置いた兄のマントの切れ端だけだった。
明日、俺たちは王都を出る。
勇者の遺体を、黒花の村へ運ぶために。
国葬ではなく、彼を知る者たちだけの小さな葬儀を行うために。
俺は棺に手を置いた。
「カイゼル様」
冷たい木の感触が掌に伝わる。
「俺は、死体鑑定士にはなりませんでした」
返事はない。
当然だ。
死者は喋らない。
けれど、死者は黙っていても多くを残す。
「あなたの傷を読んだことは、間違いではなかったと思います。でも、俺は傷だけを読む者にはなりたくありません」
黒花が静かに揺れた。
「あなたを、ちゃんと送ります」
胸の奥に、ようやくその言葉が落ちた。
事件を暴くためではない。
王国を変えるためでもない。
誰かを裁くためでもない。
ただ、死者を送るために。
俺は葬儀屋だ。
死体鑑定士ではなく。
死者の傷を読み、死者の名を呼び、遺された者が嘘ではなく本当の悲しみを抱けるようにする者。
それ以上でも、それ以下でもない。
地下清拭室の小さな窓から、夜明け前の青い光が差し込んでいた。
王都のどこかで、黒花が静かに咲いている。
明日、その花の咲く村で、勇者カイゼルの本当の葬儀を行う。
俺は新しい記録簿を開き、最初のページに日付を書いた。
そして、名前を書く。
『カイゼル・レインフォード』
勇者ではなく。
まず、一人の人間の名として。




