第40話 黒花の村で、朝を待つ
勇者カイゼルの棺は、王国旗ではなく、黒花に囲まれていた。
王都を出たのは、夜明け前だった。
国葬のために用意された金糸の布も、白百合の花輪も、勇者の勲章も、すべて外した。
棺に掛けたのは、エリシアが持っていた兄のマントの切れ端だけだった。
その布は、魔族の子どもの傷を包んだものだという。
焦げ跡があり、端はほつれ、王国の紋章も半分焼けていた。
けれど、それが一番ふさわしいと思った。
王国の勇者としてではなく、誰かの傷を塞ごうとした一人の人間として送るには。
黒花の村へ着いた時、空はまだ暗かった。
村の木柵には、戦いの跡が残っている。
焼けた板。
折れた槍。
火矢の焦げ跡。
それでも村は残っていた。
井戸のそばでは、黒花が静かに咲いている。
墓地の木札も、燃えずに残った。
カイゼル。
その名が書かれた木札の前に、エリシアはしばらく立ち尽くしていた。
「兄さん、帰ってきましたよ」
小さな声だった。
けれど、村の誰もが聞いていた。
村人たちは、少しずつ集まってきた。
人間。
魔族。
混血の子ども。
元王国兵の老人。
片方の角が折れた少女。
戦争で家族を失った者たち。
王都からも、何人かが来ていた。
剣聖アーロンの娘。
賢者リディアの弟子。
竜騎士バラムの従者の孫。
名もなき兵士の遺族。
ミラ王女もいた。
王族の礼服ではなく、黒い外套を着ている。
護衛は少ない。
彼女は今日、王女としてではなく、王家の罪を背負う者として来ていた。
レオンはいない。
彼は王都で拘束されたままだ。
正式な裁きの場で、何度も証言することになる。
エリシアは昨夜、彼に会ったらしい。
許したわけではない。
救ったわけでもない。
ただ、兄の葬儀を黒花の村で行うと伝えた。
レオンは何も言わず、深く頭を下げたという。
俺は棺を村の墓地へ運んだ。
大きな祭壇はない。
香も、聖歌隊も、王国軍の弔砲もない。
ただ、黒花の咲く土の上に、木で組んだ低い台を置き、その上に棺を載せた。
風が吹く。
黒花が、いっせいに揺れた。
まるで、死者の名を呼ぶ前に、村全体が息を整えているようだった。
「始めます」
俺は言った。
誰も返事をしない。
けれど、全員が静かに頭を下げた。
俺は棺の前に立つ。
王都葬儀局の正装ではない。
泥と黒花の花粉が落ち切らない、いつもの葬儀服だった。
それでいい。
これは王国の式典ではない。
葬儀だ。
「カイゼル・レインフォード」
俺は名前を呼んだ。
勇者、とは付けなかった。
まず、一人の人間の名として。
「王国レインフォード家の長男。エリシア・レインフォードの兄。王国より勇者の称号を与えられ、魔王討伐の任を負って魔王領へ向かった」
エリシアが目を伏せる。
「公式発表では、魔王ゼルグレイスとの相討ちにより胸部を貫かれて死亡」
俺は一度、息を吸った。
「実際の死因は、背部刺創。近衛騎士レオン・クラウスにより背後から刺され、心臓を損傷。命令者は宰相バルド・ガルヴェイン。死後、胸部に偽装傷を形成され、魔王を討った英雄として国葬に供される予定だった」
村人たちは黙って聞いていた。
死者の死因を読み上げることは、時に残酷だ。
けれど、これを避ければ、また美しい嘘に戻ってしまう。
「カイゼルは魔王を殺さなかった」
俺は続けた。
「殺せなかったのではない。魔王の心臓が黒花の根を通じて世界の瘴気を引き受けていることを知り、殺してはいけないと判断した」
黒花が揺れる。
「彼は、自分の過ちを認めた。魔族を悪と決めつけ、黒花を呪いと信じ、多くを傷つけてきたことを悔いた。そのうえで、魔王を討った英雄としてではなく、真実を持ち帰る一人の人間として王都へ戻ろうとした」
俺は棺へ手を置いた。
「そのために殺された」
エリシアの肩が震えた。
だが、彼女は泣き崩れなかった。
泣かないためではない。
兄の死を、最後まで聞くために立っていた。
「カイゼル・レインフォード」
俺はもう一度、名前を呼んだ。
「あなたは、魔王を殺した英雄ではない」
風が止まった。
「世界の嘘を止めようとした、一人の人間です」
その言葉を言い終えた時、黒花の村に朝の光が差した。
まだ太陽は地平線の下にある。
けれど、空の端が淡く白み始めていた。
エリシアが棺の前に進み出た。
彼女は手に、小さな黒花を持っている。
王都の水路に咲いた最初の黒花から、自然に落ちた花びらを包んできたものだ。
「兄さん」
彼女は棺に花びらを置いた。
「私は、まだあなたに言いたいことがたくさんあります」
声は震えていた。
「勝手に死なないでほしかった。私を置いて行かないでほしかった。最後に笑って帰ってくるって、言ってほしかった」
涙が落ちる。
黒花の花びらの上に、一滴。
「でも、あなたが最後に選んだものを、私は見ました」
彼女は顔を上げた。
「あなたは、英雄として称えられることより、間違いを認めることを選んだ。魔王を殺すことより、世界を壊さないことを選んだ」
村の子どもたちが、じっと聞いている。
「だから私は、あなたを英雄として送りません」
エリシアは微笑んだ。
泣きながら。
「私の兄として送ります」
その言葉に、村人の何人かが泣いた。
魔族の少女が、両手で顔を覆う。
元王国兵の老人は、義足の足元に槍を置き、深く頭を下げた。
ミラ王女が前へ出た。
彼女は棺の前で膝をついた。
「カイゼル様」
王女の声は低かった。
「王家は、あなたの死を止められませんでした。あなたの死を利用しようとする仕組みも、長く見過ごしてきました」
彼女は額を地面につけた。
「王家の一人として、謝罪します」
誰も、許すとは言わなかった。
死者の前で軽々しく許しを口にする者はいなかった。
それでよかった。
謝罪は、許されるためにするものではない。
罪の場所を間違えないためにするものだ。
次に、黒花の村の老人が進み出た。
「勇者様」
彼はそう呼んでから、首を横に振った。
「いや、カイゼル殿」
老人は苦笑した。
「わしらは、あなたに助けられた。この村を焼くなと、あなたは王国兵の前に立った。あの時、わしはあなたを信用していなかった」
彼はカイゼルの木札を見た。
「王国の勇者など、いつか裏切ると思っていた」
沈黙。
「だが、あなたは最後まで裏切らなかった。裏切ったのは、あなたの国の方だった」
老人は黒花を一輪、棺に添えた。
「この村に、あなたの名を置きます。英雄としてではなく、村を守ろうとした人として」
それから、村人たちが一人ずつ花を置いた。
黒花。
小さな石。
木札。
包帯の切れ端。
焦げたマントの糸。
豪華な供物は何もない。
けれど、どれも誰かの記憶だった。
俺は棺の横で、それを見ていた。
国葬では、勇者の死を民に見せる予定だった。
ここでは、死者が生きていたことを、遺された者たちが思い出している。
その違いが、今ならはっきりわかる。
葬儀とは、死者を高く掲げることではない。
死者を、遺された者の手の届く場所へ戻すことだ。
すべての花が添えられた後、俺は新しい死者記録簿を開いた。
最初のページ。
すでに名前は書いてある。
『カイゼル・レインフォード』
その下に、俺はゆっくりと書き足した。
『王国公称、勇者。実際には、魔王を殺した英雄ではなく、世界の嘘を止めようとした一人の人間。魔王ゼルグレイスの心臓が世界の瘴気循環を支えていることを知り、討伐を中止。王都への黒花移植と停戦を望む』
さらに書く。
『死後、王国により英雄物語へ加工されるも、黒花、聖剣、記録石、遺体の傷、関係者の証言により真実を回復』
ペン先が止まる。
最後の一文を、俺は迷わず書いた。
『ここに眠る。英雄としてではなく、カイゼル・レインフォードとして』
書き終えた瞬間、朝日が地平線から顔を出した。
黒花が、光を受けて揺れる。
黒い花びらは、朝日に照らされても白くはならない。
それでも、美しかった。
黒いまま。
汚れを抱えたまま。
誰かの悲しみを吸ったまま。
それでも咲いている。
「ノアさん」
エリシアが隣に立った。
「終わったのでしょうか」
俺はしばらく考えた。
バルドの裁きはこれからだ。
レオンの証言も続く。
英雄管理局の記録は、まだすべて開かれていない。
黒花を受け入れられない者もいる。
王国と魔王領の停戦も、簡単には進まない。
だから、終わったとは言えない。
「カイゼル様の葬儀は、終わりました」
俺は答えた。
「でも、死者の名前を取り戻す仕事は、まだ続きます」
エリシアは頷いた。
「私も手伝います」
「聖女としてですか」
彼女は少し笑った。
「妹として。それから、たぶん、私自身として」
その答えが、彼女に一番似合っていた。
ミラ王女が近づいてくる。
「王都に戻ったら、英雄管理局の保管庫を開きます」
「すべてですか」
「すべてです」
彼女の顔には、疲れがあった。
けれど、目は逸らしていない。
「王国が消した名前を、ひとつずつ戻します。時間はかかりますが」
「葬儀局も協力します」
俺は言った。
「ただし、死者を政治の道具にはしません」
「ええ」
ミラは静かに頷いた。
「だから、あなたに頼みます。死体鑑定士ではなく、葬儀屋のあなたに」
その時、村の入口から馬の足音が聞こえた。
一人の使者だった。
王都葬儀局の印がある。
彼は息を切らし、俺の前で手紙を差し出した。
「ノア・アーベル様へ。グラント局長より」
俺は封を切った。
短い手紙だった。
『旧英雄管理局第五保管庫より、剣聖アーロンの遺体所在に関する未整理記録を発見。帰還次第、確認されたし』
俺は手紙を読み終え、空を見た。
朝日はもう、黒花の村全体を照らしている。
カイゼルの棺のそばで、黒花が揺れていた。
ひとつの葬儀が終わったばかりだ。
それなのに、次の死者が待っている。
王国に名前を奪われた死者たちが、まだ地下の記録の奥で眠っている。
エリシアが手紙を覗き込み、静かに言った。
「行くのですね」
「はい」
俺は記録簿を閉じた。
「誰かが読まなければ、死者は二度殺されますから」
彼女は微笑んだ。
「兄が、あなたに頼んだ理由がわかります」
俺は答えなかった。
ただ、カイゼルの棺へ最後に一礼した。
黒花の村に、朝が来た。
世界はまだ、完全に救われてはいない。
嘘はまだ残っている。
傷も、罪も、消えない。
けれど、黒花は咲いている。
死者の名を抱き、世界の汚れを吸いながら、朝の光の中で静かに揺れている。
俺は葬儀屋だ。
英雄を作る者ではない。
死者を利用する者でもない。
死者の傷を読み、名前を呼び、正しく送る者。
だから俺は、また歩き出す。
次の死者の名を呼ぶために。
黒花の村で、朝を待った俺たちは、ようやく夜の終わりを見た。




