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勇者は背中から死んでいた  作者: swingout777


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第38話 世界で一番やさしい花

 黒花は、王都の石畳の隙間から芽を出した。


 最初は、誰も声を上げなかった。


 広場の中央水路に植えた一株の黒花。

 その細い根が地下へ潜り、濁った水路へ触れ、魔王城へ続く黒花の根とつながった。


 すると、王都のあちこちで同じことが起きた。


 井戸の脇。

 枯れた白百合の下。

 側溝の割れ目。

 王城前広場の石畳。

 勇者カイゼルの棺のそば。


 小さな黒い芽が、静かに顔を出した。


 民衆は息を呑んだ。


「黒花……」


 誰かが呟いた。


 けれど、その声には先ほどまでの憎しみがなかった。


 黒花は人を襲わなかった。

 火を噴かなかった。

 悲鳴を上げることも、呪いの言葉を吐くこともなかった。


 ただ、そこに咲いた。


 黒い花びらを広げ、王都に漂う瘴気を少しずつ吸っていた。


 黒い霧は花へ寄り、花びらの奥へ沈んでいく。

 濁った水は、根に触れたところから薄く澄み始める。

 腐りかけていた白百合の下で、土だけが静かに息を吹き返していく。


 王都の民は、その光景を見ていた。


 ずっと呪いだと教えられてきた花が、自分たちの水を救っている。


 魔王の残滓だと恐れてきた花が、誰も責めずに汚れを引き受けている。


 それは、美しいというより痛ましい光景だった。


 黒花は、汚れを吸うたびに黒さを増していく。


 王都の罪を、王都の恐怖を、王都の嘘を、花びらの中へ沈めていく。


 まるで、誰かが泣く代わりに黒くなっているようだった。


「……こんな花を、私たちは焼いてきたのか」


 年老いた男が膝をついた。


 彼は白百合の花輪を抱えていた。

 勇者の国葬に捧げるはずだったものだ。


 だが花輪は半分腐り、黒い水を含んで重くなっていた。


 男はそれを地面に置き、震える手で黒花へ触れようとした。


「触らない方がいい」


 俺は思わず声をかけた。


 男は手を止める。


「呪われるからか」


「違います」


 俺は首を横に振った。


「今は、瘴気を吸った直後です。花が苦しんでいるかもしれない」


 男は目を見開いた。


 花が苦しむ。


 その発想は、王都の誰にもなかったのだろう。


 黒花は、呪い。

 魔王の印。

 焼くべきもの。


 そう教えられてきた花に、苦しみがあるなど考えもしなかった。


 エリシアが、勇者の棺の前に膝をついた。


 棺のそばにも、一輪の黒花が咲いていた。


 小さな花だった。


 国葬のために用意された白百合よりずっと小さい。

 金糸の布にも、王国旗にも、聖堂の香にも似合わない。


 けれど、その黒花は勇者カイゼルの棺に一番近い場所で咲いていた。


 まるで、最初からそこにいるべきだったように。


「兄さん」


 エリシアは静かに言った。


「あなたが最後に握っていた花が、王都に咲きました」


 彼女の声は、広場によく届いた。


 誰も遮らなかった。


 バルドでさえ、言葉を失っていた。


 いや、言葉を失ったのではない。

 言葉を選べなくなっていたのだ。


 黒花が王都を救っている光景を前にして、魔王の呪いという物語はもう簡単には通じない。


 エリシアは、兄の棺へ手を置いた。


「私はずっと、兄を取り戻したいと思っていました」


 その言葉に、民衆が静まる。


「もう一度声を聞きたい。もう一度笑ってほしい。間違いだったと言ってほしい。兄はまだどこかにいるのだと、そう思いたかった」


 彼女は黒花を見つめた。


「でも、兄は帰ってきません」


 広場に、誰かのすすり泣く声が落ちた。


「祈っても、兄の魂は棺に戻りませんでした。黒花に残っていたのは、兄そのものではなく、兄が最後に届けようとした意志でした」


 エリシアは顔を上げた。


 その目は赤い。


 けれど、もう泣き崩れるための涙ではなかった。


「だから私は、兄を取り戻すことをやめます」


 その言葉は、痛いほど静かだった。


「兄が守ろうとしたものを、守ります」


 黒花が、彼女の足元で揺れた。


 風はない。


 花が応えたように見えた。


 マリナが祈りの杖を握りしめ、涙を流していた。


「私は、この花を呪いとして祓う祈りを何度も捧げました」


 彼女は民衆へ向き直った。


「黒花が咲けば焼けと教えられました。魔族の死者のそばに咲いた花を、聖なる火で焼いたこともあります」


 彼女の声は震えていた。


「そのたびに、私は世界を清めていると思っていました。でも違いました。私は、死者のそばで汚れを引き受けていた花を、焼いていたのです」


 彼女は黒花の前に膝をついた。


「ごめんなさい」


 神官補佐が、花に謝った。


 その姿を見て、民衆の中から別の声が上がった。


「うちの村にも咲いていた」


 中年の女だった。


「井戸のそばに咲いていて、気味が悪いから焼いた。その後、水が濁った」


 別の男が言う。


「戦場跡で黒花を焼いたことがある。あの後、馬が次々倒れた」


「魔族の呪いだと思っていた」


「王国がそう言ったから」


 声が少しずつ増えていく。


 後悔。

 戸惑い。

 怒り。

 悲しみ。


 それらが混ざり合い、王城前広場の空気を変えていく。


 黒花は、その声にも反応するように揺れていた。


 サイラスが記録石を手に、低く言った。


「黒花は、瘴気だけを吸うのではないのかもしれません」


「どういう意味ですか」


 俺が尋ねると、彼は広場を見渡した。


「死者の未練、遺された者の痛み、言葉にできなかった悔恨。そうしたものも、記憶として抱くのかもしれない」


 俺は黒花を見た。


 勇者カイゼルが最期に握っていた花。

 魔王の心臓へ瘴気を運ぶ花。

 死者の記憶を抱く花。


 この花は、ただ汚れを吸っていたのではない。


 誰かが抱えきれなかったものを、黙って受け止めていたのだ。


 人間の罪も。

 魔族の憎しみも。

 王国の嘘も。

 死者の名も。


 すべてを黒くなりながら抱えていた。


「世界で一番やさしい花ですね」


 エリシアが言った。


 その声は、兄へ語りかけるようだった。


「誰も責めずに、ただ苦しみを吸っていた」


 俺は頷いた。


「やさしいから、黒いのかもしれません」


 白く美しいものだけが清らかなのではない。


 黒く染まってでも、誰かの汚れを引き受けるものがある。


 王国はそれを呪いと呼んだ。


 自分たちの汚れを見たくなかったから。


 バルドが、ようやく口を開いた。


「感傷だ」


 声はかすれていた。


「花に心などない。黒花は魔王領の異物だ。王都に根づかせれば、いずれ王国は魔王に呑まれる」


 ミラ王女が彼を見た。


「王国を呑んでいたのは、黒花ではありません」


 彼女は帳簿を抱えたまま、一歩前へ出る。


「嘘です。死者を飾り、敵を作り、恐怖で民を動かしてきた嘘です」


「王女が国家を否定するか」


「いいえ」


 ミラは首を横に振った。


「国家を、嘘から取り戻します」


 その言葉に、民衆がざわめいた。


 バルドの背後にいた英雄管理局の黒外套たちが動こうとする。


 だが、今度は王国軍の兵士たちが彼らを止めた。


 まだ完全に寝返ったわけではない。


 それでも、何人もの兵士が槍を横に構え、黒外套の前に立った。


「命令は?」


 黒外套の一人が怒鳴る。


 若い兵士は震えながら答えた。


「誰の命令に従えばいいのか、今は見極める」


「兵士が命令を疑うな!」


「勇者様は疑った」


 その一言で、黒外套は黙った。


 勇者カイゼルは、疑った。


 王国の物語を。

 魔王を殺せば世界が救われるという教えを。

 黒花は呪いだという常識を。


 そして、疑ったからこそ、本当の勇者になった。


 民衆の中から、剣聖アーロンの娘が進み出た。


 彼女は黒花の一輪を見つめ、古い剣の柄を地面に置いた。


「父の墓に、この花を植えたい」


 賢者リディアの弟子も頷いた。


「先生の名を刻み直す時、白い花ではなく黒花を添えます」


 竜騎士バラムの従者の孫が言った。


「祖父が守ろうとした人たちの名も、調べたい」


 死者の名前が、また広がっていく。


 黒花は、その一つ一つを聞いているように揺れていた。


 俺は勇者の棺へ向かった。


 カイゼルの胸の偽りの傷は、もう布で隠していない。

 背中の本当の傷も、記録された。


 彼は英雄の像ではなく、傷を持った死者としてそこにいる。


 俺は棺のそばに咲いた黒花を摘もうとして、手を止めた。


 摘むべきではない気がした。


 代わりに、エリシアが魔王城から持ち帰った黒花の小さな花びらを、兄の胸元に置いた。


 偽りの傷の上ではない。


 心臓の上に。


「兄さん」


 彼女は囁いた。


「あなたを、魔王を殺した英雄としては送りません」


 黒花が、かすかに光った。


「間違いに気づき、剣を下ろし、世界の嘘を止めようとした一人の人間として送ります」


 広場の民衆が、その言葉を聞いていた。


 誰かが膝をつく。


 また一人、頭を下げる。


 それは王国に命じられた礼ではなかった。


 国葬の儀礼でもない。


 初めて、民が自分の意思で勇者の死を悼んでいた。


 俺は記録紙を開いた。


『王都に黒花が開花。黒花、瘴気を吸収し、民衆の前で浄化作用を示す。聖女エリシア、勇者カイゼルを英雄としてではなく、一人の人間として弔う意志を表明』


 ペンを止める。


 少し考えて、もう一文書き足した。


『黒花。魔族の呪いにあらず。死者の記憶と世界の汚れを抱く、最もやさしい花』


 書いた瞬間、胸の奥が少し熱くなった。


 父なら、こんな主観的な記録は叱ったかもしれない。


 だが、今だけは許してほしかった。


 これは、ただの検死記録ではない。


 葬儀の記録なのだから。


 バルドは、民衆が黒花へ向ける視線を見ていた。


 もう、その顔には余裕がなかった。


 恐怖を敵へ向けることができない。

 死者を美談に閉じ込めることができない。

 黒花を呪いと呼んでも、民は目の前で浄化を見てしまった。


 彼の物語は、音を立てて崩れていた。


「まだ終わっていない」


 バルドは低く呟いた。


 誰に言ったのかはわからない。


 だが、俺には聞こえた。


 確かに、まだ終わっていない。


 英雄管理局は残っている。

 王国の記録はまだ訂正されていない。

 レオンの裁きも、バルドの裁きもこれからだ。

 黒花を受け入れられない者も、きっと多い。


 それでも、王都に黒花は咲いた。


 勇者カイゼルが持ち帰ろうとしたものが、ようやくこの街に根を下ろした。


 エリシアは兄の棺に黒花を添え、静かに目を閉じた。


 その祈りは、もう届く必要がなかった。


 兄を呼び戻すための祈りではない。


 兄を、正しく送るための祈りだった。


 黒花が、王都の風に揺れる。


 黒く、静かで、やさしい花。


 世界の汚れを抱きながら、それでも咲く花。


 その花の前で、勇者カイゼルの本当の葬儀が、ようやく始まった。


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