第37話 レオンの断罪
黒花は、王都の水路に根を下ろした。
広場に満ちていた黒い瘴気が、ゆっくりと薄れていく。
誰もが、その光景を見ていた。
呪いと呼ばれてきた花が、王都の汚れを吸っている。
魔王の残滓と恐れられたものが、人々の喉を焼いていた霧を静めている。
民衆の目から、少しずつ恐怖が剥がれていった。
その代わりに現れたのは、戸惑いだった。
自分たちは何を信じていたのか。
誰の言葉に怒り、誰を憎み、何を焼こうとしていたのか。
王城前広場に、重い沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、宰相バルドだけがまだ立っていた。
「……見事な術だ」
彼は低く言った。
「黒花が瘴気を吸ったように見せるとは。民を惑わせるには十分だろう」
だが、声は前ほど広がらなかった。
民衆はもう、ただ頷くだけではない。
黒花が霧を吸ったのを見た。
勇者の背中の傷を見た。
記録石に残された声を聞いた。
聖剣が偽りの勇者を拒むのを見た。
事実は、すでに彼らの目の中にあった。
バルドはそれを感じ取ったのだろう。
次に彼が向けた視線は、俺ではなく、レオンだった。
「すべては近衛騎士レオン・クラウスの罪である」
その言葉に、広場がざわめいた。
レオンは勇者の棺の前に立っていた。
焼けた右手には包帯が巻かれ、剣は腰にない。
彼は自分で剣を地面に置いていた。
逃げるつもりはないという意思表示だった。
「彼は勇者カイゼルを背後から刺した。本人もそう認めた。ならば、これ以上何を語る必要がある?」
バルドは両手を広げる。
「勇者殺しをこの場で処刑し、国葬を改めて行う。それで民の怒りは鎮まる。王国は再び一つになれる」
俺は息を呑んだ。
そう来ると思っていた。
バルドはレオンを切り捨てるつもりだ。
勇者殺しという、わかりやすい罪人。
民の怒りを向けやすい相手。
彼一人を処刑すれば、宰相も英雄管理局も、国家の仕組みも残せる。
死者の死因を書き換えてきた男は、今度は生きている罪人の意味を書き換えようとしている。
レオンは静かに笑った。
諦めたような笑いではなかった。
むしろ、ようやく来るべきものが来たという顔だった。
「そうだ」
彼は言った。
「俺は勇者カイゼルを刺した」
広場が静まる。
レオンはゆっくりと膝をついた。
勇者の棺へ向かって。
「カイゼルは俺を信じて背を向けた。その背中を、俺は刺した」
エリシアの顔が強張る。
その言葉は、何度聞いても痛みを失わない。
「妹を人質に取られていた。治療を止めると脅された。命令したのは宰相バルド。英雄管理局も関わっていた」
レオンは一度、そこで言葉を切った。
そして、深く息を吐いた。
「だが、それは理由であって、免罪ではない」
広場の空気が変わった。
「刺したのは俺の手だ。カイゼルが最後に俺を友と呼んだことも、俺は知っている。それでも刺した。だから俺は、許されるべきではない」
エリシアが唇を噛んだ。
彼女の目には涙があった。
けれど、頷かなかった。
許さないために。
レオンはさらに続けた。
「俺は王国に従った。妹を守るためだと言い訳しながら、本当は怖かった。カイゼルと共に王国の嘘を告発する勇気がなかった。だから、あいつの背中に立った」
彼は焼けた右手を見た。
「この手で、友を殺した」
民衆の中から、怒号が上がった。
「人殺し!」
「勇者様を返せ!」
「なぜ守らなかった!」
石が一つ、投げられた。
レオンの肩に当たる。
彼は避けなかった。
次の石も避けなかった。
エリシアが一歩動こうとする。
だが、彼女は止まった。
止まらなければならなかった。
これは、彼女が代わりに受ける痛みではない。
レオンが受けるべき断罪だった。
俺も動かなかった。
葬儀屋は裁判官ではない。
死者の傷を読むことはできても、生者の罪を代わりに軽くすることはできない。
レオンは額から血を流しながら、顔を上げた。
「もっと言え」
彼は民衆へ向かって言った。
「俺は聞く。勇者を殺した男として、聞く」
その言葉に、怒号がさらに増えた。
けれど、その中に別の声も混じった。
「なら、なぜ今さら話した!」
若い兵士だった。
「黙っていれば逃げられたのに、なぜ!」
レオンはその兵士を見た。
「二度目を止めるためだ」
「二度目?」
「カイゼルの死を、次の戦争の口実にさせないためだ」
彼の声は低い。
だが、はっきり広場に届いた。
「俺が黙れば、王国は勇者の死を使って黒花の村を焼いた。魔王の心臓を焼き、瘴気を広げ、そのすべてをまた魔王の呪いだと言った。そうなれば、カイゼルは三度殺される」
三度。
一度目は背中を刺された時。
二度目は胸の偽りの傷で英雄にされた時。
三度目は、その死を戦争の旗にされた時。
エリシアが目を閉じた。
「あなたを許しません」
彼女の声が響いた。
広場が静まる。
レオンは、まっすぐエリシアを見た。
「わかっている」
「兄は、あなたを信じました」
「ああ」
「兄は、あなたに背中を預けました」
「ああ」
「その背中を刺したことを、私は一生許しません」
レオンは頷いた。
その顔には、救いを求める色はなかった。
「それでいい」
「でも」
エリシアは涙を拭わなかった。
「あなたが今、真実を話したことだけは認めます」
レオンの目がわずかに揺れた。
「許しではありません」
「わかっている」
「救いでもありません」
「ああ」
「兄の死を、これ以上嘘に使わせないために、あなたは生きて証言してください」
その言葉に、レオンは初めて苦しげに顔を歪めた。
死ねと言われるより、重い罰だったのかもしれない。
処刑されれば、罪はそこで終わったように見える。
だが、生きて証言し続けるなら、彼は何度でも自分の罪を言葉にしなければならない。
何度でも、勇者の背中を刺した瞬間へ戻らなければならない。
「俺に、生きろと言うのか」
「逃げて死ぬことは許しません」
エリシアは言った。
「あなたには、兄を刺した男として裁かれる義務があります。そして、宰相バルドに命じられたことを最後まで証言する義務があります」
レオンは深く頭を下げた。
勇者の妹へ。
そして、勇者の棺へ。
「従う」
バルドが低く笑った。
「茶番だ」
その声には苛立ちが混じっていた。
「罪人が証言したところで、何の意味がある。彼は勇者殺しだ。己の罪を軽くするため、私の名を出しているだけだ」
「では、聖剣に聞きましょう」
俺は言った。
バルドの顔が硬くなる。
俺は棺の上に置かれた聖剣へ手を伸ばした。
布を解く。
白銀の刃が現れる。
民衆が息を呑んだ。
この剣は、王国が勇者の象徴として掲げてきたものだ。
だが今は、王国の物語ではなく、勇者の痛みを記録する証人になっている。
「レオンさん」
俺は言った。
「触れてください」
レオンは一瞬、ためらった。
それから、焼けた右手ではなく、左手で聖剣の柄に触れた。
刃が赤く震えた。
激しい光が広がる。
魔王城の中庭。
黒花の揺れる場所。
背を向けたカイゼル。
震える白い手袋。
そして、レオンの耳元で囁く声。
『妹の治療を止める』
冷たい声だった。
『勇者は英雄として死ななければならない。君が刺せ。友である君なら、背後に立てる』
民衆がざわめく。
バルドの声だ。
映像のレオンは震えていた。
『できません』
『では、妹は今夜を越せない』
『……やめてくれ』
『ならば、王国のために働け』
映像の中で、レオンの白い手袋が短剣を握る。
カイゼルが振り返らずに言う。
『レオン。一緒に来い』
次の瞬間、短剣が背中へ刺さる。
エリシアが目を閉じた。
レオンは聖剣から手を離した。
刃の赤い光が消える。
広場には、誰の言葉もなかった。
言い逃れはできない。
レオンの罪も。
バルドの命令も。
どちらも、聖剣に残っていた。
「今の記録も、残しました」
サイラスが記録石を掲げた。
「複数の証拠が一致しています。遺体の傷、黒花の記憶、聖剣の血の記憶、本人の自白」
マリナも前に出た。
「私も証言します。勇者様の胸に偽りの傷を作る儀式で、英雄管理局の者はレオン卿の妹の名を出して彼を黙らせました」
ミラ王女が帳簿を開く。
「王宮医療院の治療停止命令書も、英雄管理局の保管記録にあります。署名は宰相府代理印。日付は、勇者カイゼルが殺された日と同じです」
バルドの逃げ道が、一つずつ塞がれていく。
彼はレオンを罪人として切り捨てようとした。
だが、レオンは罪を認めたうえで、命令者の存在を証明した。
それは救済ではない。
罪人が、罪人のまま証人になっただけだ。
けれど、それで十分だった。
死者の真実は、聖人だけが語るものではない。
罪を犯した者にも、語らなければならない真実がある。
「王女ミラの名において宣言します」
ミラが壇上で声を上げた。
「近衛騎士レオン・クラウスを、勇者カイゼル殺害の容疑で拘束します」
レオンは抵抗しなかった。
むしろ、静かに両手を差し出した。
ミラは続ける。
「ただし、彼をこの場で処刑することは認めません。正式な裁きの場で、勇者殺害、英雄管理局の関与、宰相バルドの命令について証言させます」
「殿下!」
バルドが叫ぶ。
「王女にその権限はない!」
「ならば、民の前で拒んでください」
ミラは強く言った。
「あなたは、勇者殺害の証人を今すぐ殺したいのですか」
民衆の視線が、バルドへ向いた。
疑いの目。
それは、これまで彼が民に向けさせてきたものだった。
魔王へ。
黒花へ。
魔族へ。
裏切り者へ。
今、その視線が初めて彼自身へ向いている。
バルドは沈黙した。
レオンの両手に、王宮警備兵が拘束の鎖をかけた。
重い音が響く。
その瞬間、レオンは勇者の棺へ深く頭を下げた。
「カイゼル」
彼の声は小さかった。
「俺は、お前に許されるために証言するんじゃない」
黒花が、棺のそばで静かに揺れる。
「お前の死を、これ以上使わせないために証言する」
エリシアは何も言わなかった。
ただ、兄の棺に手を置いていた。
俺は記録紙に書いた。
『近衛騎士レオン・クラウス、勇者カイゼル殺害を再度自白。聖剣の血の記憶により、宰相バルド・ガルヴェインによる脅迫および殺害命令を確認。聖女エリシア、レオンを許さず。ただし証言者として生きて裁かれることを求める』
ペンを止める。
これで、レオンの罪が消えるわけではない。
勇者カイゼルが戻るわけでもない。
エリシアの痛みが軽くなるわけでもない。
だが、罪の置き場所は変わった。
レオン一人にすべてを背負わせ、王国の仕組みを残すことはできなくなった。
レオンは断罪された。
同時に、王国もまた裁きの前へ引きずり出された。
黒花は、王都の水路で静かに根を伸ばしている。
瘴気は薄れ、空の黒さも少しずつほどけ始めていた。
だが、広場に残った痛みは消えない。
それでいいのだと思った。
本当の葬儀は、痛みを消すためにあるのではない。
死者の死を、なかったことにしないためにある。
俺は勇者の棺を見た。
カイゼル様。
あなたを刺した男は、ようやく自分の罪の名を受け取りました。
次は、あなたを英雄にした王国が、その罪の名を受け取る番です。




