第34話 死者の証言
勇者カイゼルの棺の前で、民衆は声を失っていた。
胸の傷は偽りだった。
本当の致命傷は背中にあった。
近衛騎士レオンは、その背中を刺したと自白した。
黒花は王都の黒い水を吸い、呪いではなく浄化の花だと示した。
王国が用意した国葬は、もう国葬ではなかった。
白い花に飾られた英雄の式典は崩れ、そこには一人の死者と、その死者に嘘を着せようとした者たちだけが残っていた。
「民よ、惑わされるな!」
宰相バルドの声が広場に響いた。
その声には、まだ力があった。
何十年も王国を動かし、民を導き、敵を定めてきた男の声だ。
「これは魔王の残滓が見せる幻だ! 黒花も、記録石も、聖剣も、すべて魔王の術に汚染されている!」
民衆の中に、再び不安が広がる。
人は、見たものより聞き慣れた物語を信じたがる。
魔王は悪。
黒花は呪い。
勇者は魔王を討って死んだ。
その方が、考えなくて済む。
けれど、もう戻れない。
俺は勇者の棺の前に立ち、黒花の花びらを取り出した。
カイゼル様の右手から見つかった、最初の証拠。
死者が最後に握っていた、言葉にならない証言。
「魔王の術ではありません」
俺は言った。
「これは、勇者カイゼル様が最期に握っていたものです」
広場が静まる。
「死者は嘘をつきません」
俺は棺の中の勇者を見た。
「嘘をつくのは、生きている人間です」
バルドの目が細くなる。
「葬儀屋ごときが、民を扇動するか」
「俺は扇動していません」
俺は答えた。
「死者の傷を読んでいるだけです」
エリシアが俺の隣に立った。
彼女の手は震えていた。
それでも、兄の棺から目をそらさない。
「兄の声を、聞かせてください」
「はい」
俺は黒花の花びらを、棺のそばに置いた。
サイラスが記録石の核を掲げる。
マリナが祈りを捧げる。
エリシアも、静かに両手を合わせた。
聖女の祈りではない。
妹の祈りだった。
「兄さん」
彼女は呼んだ。
「あなたを英雄にするためではありません。あなたを、あなたとして送るために」
黒花が震えた。
棺のそばに置かれた苗の根が、石畳の黒い水を吸いながら、細く光る。
記録石が応えるように淡い光を放った。
聖剣も、布の中で震えた。
死者の証拠が、一つずつつながっていく。
黒花。
記録石。
聖剣。
遺体の傷。
それは、生者の言葉よりも静かで、しかし何より強い証言だった。
広場の空気が冷えた。
次の瞬間、光が広がる。
民衆の前に、魔王城の中庭が浮かび上がった。
黒花の咲く場所。
人間と魔族の墓碑。
そして、聖剣を手にした勇者カイゼル。
彼は血に濡れていた。
だが、その目はまだ死んでいなかった。
『俺たちは、倒すべき相手を間違えていた』
勇者の声が、王城前広場に響いた。
民衆が息を呑む。
その声を知らない者はいない。
凱旋式で聞くはずだった英雄の声。
王国の詩人が讃えるはずだった勇者の声。
けれど、そこにあったのは勝利の叫びではなかった。
悔恨だった。
『黒花は呪いじゃない。魔王は世界を滅ぼそうとしているんじゃない。世界が腐らないように、ずっと引き受けていたんだ』
映像の中で、カイゼルは聖剣を下ろした。
『俺は、間違えた。たくさん斬った。たくさん焼いた。正しいと思っていた。でも、間違えていた』
エリシアが唇を噛む。
民衆の中から、すすり泣く声が漏れた。
勇者が、自分の過ちを認めている。
王国が最も見せたくなかった姿だった。
『王都へ戻る。魔王を殺した英雄にはならない。俺は、真実を話す』
映像が揺れる。
そこへ、白い手袋の男が現れた。
レオンだ。
広場の視線が、現在のレオンへ向く。
彼は逃げなかった。
棺の前に膝をついたまま、映像の中の自分を見ている。
『戻るな、カイゼル』
映像のレオンが言う。
『戻れば、お前は殺される』
『なら、一緒に来い』
カイゼルは振り返らずに言った。
『俺が間違っていたなら止めろ。王国が間違っていたなら、俺と一緒に間違いを正せ』
レオンの顔が歪む。
その背後に、冷たい声が響いた。
『勇者は、英雄として死ななければならない』
民衆がざわめく。
バルドの顔色が変わった。
声だけだった。
だが、その声を知らない者はいなかった。
王城で、議会で、式典で、何度も民に語りかけてきた声。
宰相バルドの声。
『王国には物語が必要だ。魔王を討ち、勇者が死ぬ。民は泣き、怒り、再び一つになる』
映像の中で、カイゼルがゆっくり振り返る。
『俺は、そんなもののために死なない』
『君の意志は不要だ』
バルドの声は冷たかった。
『必要なのは、君の死だ』
白い手袋が震える。
レオンの手だ。
次の瞬間、短剣がカイゼルの背中へ突き立てられた。
エリシアが声を押し殺した。
民衆から悲鳴が上がる。
勇者の体が揺れる。
聖剣が落ちる。
黒花の花びらが舞う。
カイゼルは倒れなかった。
最後の力で、右手を伸ばし、黒花を握った。
『俺を……英雄にするな』
その声は、かすれていた。
『死者は……嘘をつけない』
映像のカイゼルの目が、こちらを見た気がした。
『誰かが、読め』
光が震え、映像が変わる。
今度は王都葬儀局の地下清拭室だった。
死後の勇者の遺体。
胸に傷はまだない。
背中には細い刺し傷だけがある。
黒外套の者たちが遺体を囲む。
旧式の焼き鏝。
聖属性の祈り。
震えるマリナ。
顔を隠した大柄な騎士。
壁際で俯くレオン。
焼き鏝が、勇者の胸に押し当てられる。
肉の焦げる音が、広場に響いた。
民衆が悲鳴を上げる。
マリナがその場に崩れそうになった。
「私です」
彼女は泣きながら声を上げた。
「私は、その偽りの祈りに加担しました。怖くて、逆らえませんでした。でも、勇者様の胸の傷は、死後に作られたものです!」
映像がその証言を裏づけるように揺れる。
サイラスが記録石を掲げた。
「これは魔王の幻ではありません! 勇者様の記録石、黒花の記憶、聖剣に残った血の記憶、すべてが一致しています!」
俺は棺のそばに立ち、勇者の背中の傷を示した。
「遺体の傷も一致しています」
広場は、もう完全な沈黙に包まれていた。
誰もすぐには叫べない。
怒りも、恐怖も、悲しみも、まだ形になっていない。
死者の証言は、生者の言い訳よりも重かった。
「でたらめだ」
バルドが呟いた。
その声は、先ほどより小さかった。
「すべて、魔王の残した偽りだ。勇者の声も、黒花の記憶も、聖剣の反応も、すべて――」
「では、棺を調べてください」
俺は言った。
「勇者様の背中には、今も傷があります。胸の傷は死後に作られています。王都葬儀局の処置記録を照合すれば、わかります」
ミラ王女が前へ出た。
その手には、英雄管理局の帳簿があった。
「照合なら、私が行います」
バルドの目が鋭くなる。
「殿下、その帳簿は」
「英雄管理局より持ち出しました」
ミラは広場へ向けて帳簿を掲げた。
「勇者カイゼルの死の三日前、すでに国葬準備費が計上されています。胸部外傷演出用祭具借用費。広報詩人への前払い。勇者記念碑の着工準備金」
民衆がどよめいた。
「死ぬ前に、国葬の準備?」
「演出用祭具?」
「それでは、最初から……」
ミラはバルドを見た。
「承認者は、宰相バルド・ガルヴェイン」
名が出た瞬間、広場の空気が裂けた。
怒号。
悲鳴。
信じられないという声。
バルドは、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと笑った。
「それで?」
その笑みは、恐ろしいほど穏やかだった。
「それが事実だとして、何だと言うのです」
民衆が凍りつく。
バルドは両手を広げた。
「国家を治めるとは、そういうことです。民は真実で生きるのではない。物語で生きるのです」
エリシアが拳を握る。
「兄を殺しておいて……」
「勇者カイゼルの死は、王国に必要でした」
バルドは断言した。
「魔王が悪であり、勇者が善である。その構図が崩れれば、何十年もの戦争で死んだ者たちの意味はどうなる? 遺族は何を信じる? 兵士は何のために剣を取る?」
「嘘のためではありません」
エリシアの声が震えた。
「死んだ人たちは、あなたの物語のために死んだのではありません!」
「理想論です」
バルドは冷たく言った。
「国家には、敵が必要です。死者には、意味が必要です。英雄には、美しい死が必要です」
「いいえ」
俺は言った。
バルドの視線がこちらへ向く。
「死者に必要なのは、美しい死ではありません」
俺は棺に手を置いた。
「本当の死です」
広場が静まる。
「どれほど醜くても、どれほど都合が悪くても、死者の死は死者のものです。国家のものではない。英雄管理局のものでも、宰相のものでもない」
俺は勇者カイゼルの顔を見た。
長い旅の末に、嘘を着せられた死者。
「この方は、魔王を殺した英雄として死んだのではありません。間違いを認め、真実を伝えようとし、背中から刺された一人の人間です」
エリシアが棺のそばに膝をついた。
「兄さん」
彼女は静かに言った。
「もう、英雄にされなくていい」
黒花が揺れる。
勇者の記録石が、最後に一度だけ光った。
『俺を、一人の人間として送ってほしい』
その声が、広場に残った。
民衆の中で、誰かが泣き出した。
それは歓声ではなかった。
勝利の叫びでもなかった。
ようやく、勇者の死を悼む声だった。
バルドはその声を聞き、初めて表情を失った。
死者の証言は終わった。
もう、王国の物語だけでは覆い隠せない。
勇者カイゼルは、棺の中から確かに語った。
傷で。
花で。
剣で。
記録で。
そして、遺された者たちの声で。
俺は記録紙に最後の一文を書いた。
『死者カイゼル・レインフォード、王国の公式物語を拒む。本人の遺志、一人の人間としての葬送を望む』
ペンを置いた時、広場にはまだ混乱があった。
けれど、国葬の嘘は終わった。
ここから始まるのは、王国が最も恐れたもの。
死者の本当の葬儀だった。




