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勇者は背中から死んでいた  作者: swingout777


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第34話 死者の証言

 勇者カイゼルの棺の前で、民衆は声を失っていた。


 胸の傷は偽りだった。

 本当の致命傷は背中にあった。

 近衛騎士レオンは、その背中を刺したと自白した。

 黒花は王都の黒い水を吸い、呪いではなく浄化の花だと示した。


 王国が用意した国葬は、もう国葬ではなかった。


 白い花に飾られた英雄の式典は崩れ、そこには一人の死者と、その死者に嘘を着せようとした者たちだけが残っていた。


「民よ、惑わされるな!」


 宰相バルドの声が広場に響いた。


 その声には、まだ力があった。


 何十年も王国を動かし、民を導き、敵を定めてきた男の声だ。


「これは魔王の残滓が見せる幻だ! 黒花も、記録石も、聖剣も、すべて魔王の術に汚染されている!」


 民衆の中に、再び不安が広がる。


 人は、見たものより聞き慣れた物語を信じたがる。


 魔王は悪。

 黒花は呪い。

 勇者は魔王を討って死んだ。


 その方が、考えなくて済む。


 けれど、もう戻れない。


 俺は勇者の棺の前に立ち、黒花の花びらを取り出した。


 カイゼル様の右手から見つかった、最初の証拠。


 死者が最後に握っていた、言葉にならない証言。


「魔王の術ではありません」


 俺は言った。


「これは、勇者カイゼル様が最期に握っていたものです」


 広場が静まる。


「死者は嘘をつきません」


 俺は棺の中の勇者を見た。


「嘘をつくのは、生きている人間です」


 バルドの目が細くなる。


「葬儀屋ごときが、民を扇動するか」


「俺は扇動していません」


 俺は答えた。


「死者の傷を読んでいるだけです」


 エリシアが俺の隣に立った。


 彼女の手は震えていた。


 それでも、兄の棺から目をそらさない。


「兄の声を、聞かせてください」


「はい」


 俺は黒花の花びらを、棺のそばに置いた。


 サイラスが記録石の核を掲げる。

 マリナが祈りを捧げる。

 エリシアも、静かに両手を合わせた。


 聖女の祈りではない。


 妹の祈りだった。


「兄さん」


 彼女は呼んだ。


「あなたを英雄にするためではありません。あなたを、あなたとして送るために」


 黒花が震えた。


 棺のそばに置かれた苗の根が、石畳の黒い水を吸いながら、細く光る。


 記録石が応えるように淡い光を放った。


 聖剣も、布の中で震えた。


 死者の証拠が、一つずつつながっていく。


 黒花。

 記録石。

 聖剣。

 遺体の傷。


 それは、生者の言葉よりも静かで、しかし何より強い証言だった。


 広場の空気が冷えた。


 次の瞬間、光が広がる。


 民衆の前に、魔王城の中庭が浮かび上がった。


 黒花の咲く場所。

 人間と魔族の墓碑。

 そして、聖剣を手にした勇者カイゼル。


 彼は血に濡れていた。


 だが、その目はまだ死んでいなかった。


『俺たちは、倒すべき相手を間違えていた』


 勇者の声が、王城前広場に響いた。


 民衆が息を呑む。


 その声を知らない者はいない。


 凱旋式で聞くはずだった英雄の声。

 王国の詩人が讃えるはずだった勇者の声。


 けれど、そこにあったのは勝利の叫びではなかった。


 悔恨だった。


『黒花は呪いじゃない。魔王は世界を滅ぼそうとしているんじゃない。世界が腐らないように、ずっと引き受けていたんだ』


 映像の中で、カイゼルは聖剣を下ろした。


『俺は、間違えた。たくさん斬った。たくさん焼いた。正しいと思っていた。でも、間違えていた』


 エリシアが唇を噛む。


 民衆の中から、すすり泣く声が漏れた。


 勇者が、自分の過ちを認めている。


 王国が最も見せたくなかった姿だった。


『王都へ戻る。魔王を殺した英雄にはならない。俺は、真実を話す』


 映像が揺れる。


 そこへ、白い手袋の男が現れた。


 レオンだ。


 広場の視線が、現在のレオンへ向く。


 彼は逃げなかった。


 棺の前に膝をついたまま、映像の中の自分を見ている。


『戻るな、カイゼル』


 映像のレオンが言う。


『戻れば、お前は殺される』


『なら、一緒に来い』


 カイゼルは振り返らずに言った。


『俺が間違っていたなら止めろ。王国が間違っていたなら、俺と一緒に間違いを正せ』


 レオンの顔が歪む。


 その背後に、冷たい声が響いた。


『勇者は、英雄として死ななければならない』


 民衆がざわめく。


 バルドの顔色が変わった。


 声だけだった。


 だが、その声を知らない者はいなかった。


 王城で、議会で、式典で、何度も民に語りかけてきた声。


 宰相バルドの声。


『王国には物語が必要だ。魔王を討ち、勇者が死ぬ。民は泣き、怒り、再び一つになる』


 映像の中で、カイゼルがゆっくり振り返る。


『俺は、そんなもののために死なない』


『君の意志は不要だ』


 バルドの声は冷たかった。


『必要なのは、君の死だ』


 白い手袋が震える。


 レオンの手だ。


 次の瞬間、短剣がカイゼルの背中へ突き立てられた。


 エリシアが声を押し殺した。


 民衆から悲鳴が上がる。


 勇者の体が揺れる。

 聖剣が落ちる。

 黒花の花びらが舞う。


 カイゼルは倒れなかった。


 最後の力で、右手を伸ばし、黒花を握った。


『俺を……英雄にするな』


 その声は、かすれていた。


『死者は……嘘をつけない』


 映像のカイゼルの目が、こちらを見た気がした。


『誰かが、読め』


 光が震え、映像が変わる。


 今度は王都葬儀局の地下清拭室だった。


 死後の勇者の遺体。

 胸に傷はまだない。

 背中には細い刺し傷だけがある。


 黒外套の者たちが遺体を囲む。


 旧式の焼き鏝。

 聖属性の祈り。

 震えるマリナ。

 顔を隠した大柄な騎士。

 壁際で俯くレオン。


 焼き鏝が、勇者の胸に押し当てられる。


 肉の焦げる音が、広場に響いた。


 民衆が悲鳴を上げる。


 マリナがその場に崩れそうになった。


「私です」


 彼女は泣きながら声を上げた。


「私は、その偽りの祈りに加担しました。怖くて、逆らえませんでした。でも、勇者様の胸の傷は、死後に作られたものです!」


 映像がその証言を裏づけるように揺れる。


 サイラスが記録石を掲げた。


「これは魔王の幻ではありません! 勇者様の記録石、黒花の記憶、聖剣に残った血の記憶、すべてが一致しています!」


 俺は棺のそばに立ち、勇者の背中の傷を示した。


「遺体の傷も一致しています」


 広場は、もう完全な沈黙に包まれていた。


 誰もすぐには叫べない。


 怒りも、恐怖も、悲しみも、まだ形になっていない。


 死者の証言は、生者の言い訳よりも重かった。


「でたらめだ」


 バルドが呟いた。


 その声は、先ほどより小さかった。


「すべて、魔王の残した偽りだ。勇者の声も、黒花の記憶も、聖剣の反応も、すべて――」


「では、棺を調べてください」


 俺は言った。


「勇者様の背中には、今も傷があります。胸の傷は死後に作られています。王都葬儀局の処置記録を照合すれば、わかります」


 ミラ王女が前へ出た。


 その手には、英雄管理局の帳簿があった。


「照合なら、私が行います」


 バルドの目が鋭くなる。


「殿下、その帳簿は」


「英雄管理局より持ち出しました」


 ミラは広場へ向けて帳簿を掲げた。


「勇者カイゼルの死の三日前、すでに国葬準備費が計上されています。胸部外傷演出用祭具借用費。広報詩人への前払い。勇者記念碑の着工準備金」


 民衆がどよめいた。


「死ぬ前に、国葬の準備?」


「演出用祭具?」


「それでは、最初から……」


 ミラはバルドを見た。


「承認者は、宰相バルド・ガルヴェイン」


 名が出た瞬間、広場の空気が裂けた。


 怒号。

 悲鳴。

 信じられないという声。


 バルドは、しばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと笑った。


「それで?」


 その笑みは、恐ろしいほど穏やかだった。


「それが事実だとして、何だと言うのです」


 民衆が凍りつく。


 バルドは両手を広げた。


「国家を治めるとは、そういうことです。民は真実で生きるのではない。物語で生きるのです」


 エリシアが拳を握る。


「兄を殺しておいて……」


「勇者カイゼルの死は、王国に必要でした」


 バルドは断言した。


「魔王が悪であり、勇者が善である。その構図が崩れれば、何十年もの戦争で死んだ者たちの意味はどうなる? 遺族は何を信じる? 兵士は何のために剣を取る?」


「嘘のためではありません」


 エリシアの声が震えた。


「死んだ人たちは、あなたの物語のために死んだのではありません!」


「理想論です」


 バルドは冷たく言った。


「国家には、敵が必要です。死者には、意味が必要です。英雄には、美しい死が必要です」


「いいえ」


 俺は言った。


 バルドの視線がこちらへ向く。


「死者に必要なのは、美しい死ではありません」


 俺は棺に手を置いた。


「本当の死です」


 広場が静まる。


「どれほど醜くても、どれほど都合が悪くても、死者の死は死者のものです。国家のものではない。英雄管理局のものでも、宰相のものでもない」


 俺は勇者カイゼルの顔を見た。


 長い旅の末に、嘘を着せられた死者。


「この方は、魔王を殺した英雄として死んだのではありません。間違いを認め、真実を伝えようとし、背中から刺された一人の人間です」


 エリシアが棺のそばに膝をついた。


「兄さん」


 彼女は静かに言った。


「もう、英雄にされなくていい」


 黒花が揺れる。


 勇者の記録石が、最後に一度だけ光った。


『俺を、一人の人間として送ってほしい』


 その声が、広場に残った。


 民衆の中で、誰かが泣き出した。


 それは歓声ではなかった。

 勝利の叫びでもなかった。


 ようやく、勇者の死を悼む声だった。


 バルドはその声を聞き、初めて表情を失った。


 死者の証言は終わった。


 もう、王国の物語だけでは覆い隠せない。


 勇者カイゼルは、棺の中から確かに語った。


 傷で。

 花で。

 剣で。

 記録で。

 そして、遺された者たちの声で。


 俺は記録紙に最後の一文を書いた。


『死者カイゼル・レインフォード、王国の公式物語を拒む。本人の遺志、一人の人間としての葬送を望む』


 ペンを置いた時、広場にはまだ混乱があった。


 けれど、国葬の嘘は終わった。


 ここから始まるのは、王国が最も恐れたもの。


 死者の本当の葬儀だった。


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