第33話 勇者カイゼルの凱旋、終わる
王都へ戻る道で、黒花の苗は小さく震えていた。
エリシアが両腕に抱え、布で根を包んでいる。
魔王城の地下から持ち出した、まだ若い黒花。
瘴気を吸い、黒い水を澄ませ、魔王の心臓へ汚れを送る花。
王国では、呪いと呼ばれてきたもの。
だが今、俺たちが王都へ運んでいるのは呪いではない。
王都を救うための、たった一つの証拠だった。
「急ぎましょう」
サイラスが息を切らせながら言った。
「王都の水路に根を下ろせれば、瘴気の流れを変えられるかもしれません」
「かもしれない、ですか」
俺が聞くと、彼は苦く笑った。
「正直に言えば、前例がありません。黒花を王都に植えた記録など、王国には存在しませんから」
「王国が燃やしてきたからですね」
「ええ」
その声には、怒りよりも悔しさがあった。
黒花を呪いと決めつけ、焼き続けた王国。
その結果、王都はいま枯れようとしている。
東門が見えた時、街の異変はさらに進んでいた。
空が暗い。
雲ではない。
黒い霧のようなものが、王都の低い場所に溜まっている。
井戸水の濁りが広がったのだろう。
通りの側溝からは、腐った水の臭いが立ち上っていた。
白百合を抱えた人々が、花束を捨てている。
花弁は黒く変色し、指で触れるだけで崩れていた。
「これでも、魔王の呪いだと言い続けるのでしょうか」
マリナが震える声で言った。
「言うでしょう」
俺は答えた。
「怖い時、人はわかりやすい名前を欲しがりますから」
魔王の呪い。
その言葉は、民の恐怖に形を与える。
だが本当は違う。
黒花を焼いたから、瘴気が行き場を失った。
魔王を敵と呼び続けたから、世界を支える仕組みに誰も向き合わなかった。
勇者の死を嘘にしたから、さらに戦争が始まろうとした。
全部、つながっている。
王都の中心へ近づくにつれ、国葬の音が聞こえてきた。
鐘。
群衆の声。
兵士の号令。
だが、先ほどまでの熱狂とは違う。
歓声の中に、不安と怒号が混じっている。
王城前広場へ出た瞬間、俺は息を呑んだ。
祭壇はまだそこにあった。
勇者カイゼルの棺も、白い布に包まれたまま置かれている。
しかし、国葬の美しさは崩れていた。
広場の石畳には黒い水が流れ、白百合の花輪は腐り落ちている。
民衆は祭壇へ祈る者と、逃げ出そうとする者と、魔族への怒りを叫ぶ者に分かれていた。
壇上では、ミラ王女が兵士たちに囲まれていた。
彼女はまだ立っている。
小さな体で、国葬の場をかろうじて止めていた。
その向かいに、宰相バルドがいた。
魔王城にいたはずの彼が、俺たちより先に戻っている。
おそらく別の転移術を使ったのだろう。
礼服の袖には、魔王城の地下で受けた黒い焼け跡が残っていた。
それでも彼は、民衆に向かって声を張り上げている。
「恐れるな、民よ! 魔王の残滓はなお王都を蝕もうとしている! だが勇者カイゼルの魂は、必ず我らを導く!」
彼は勇者の棺を指した。
「この棺こそ、王国の勝利の証である!」
違う。
その棺は、勝利の証ではない。
嘘の中心だ。
俺たちは人混みを抜け、祭壇へ進んだ。
黒花の苗を抱えたエリシアの姿に、民衆がざわめく。
「黒花だ!」
「聖女様が黒花を持っている!」
「やはり魔王に……」
「違う!」
エリシアが叫んだ。
その声は、広場の混乱を一瞬だけ裂いた。
「これは呪いではありません!」
バルドの目がこちらを向いた。
「戻ってきたか、裏切り者たち」
俺は祭壇へ上がった。
兵士が止めようとしたが、ミラ王女が声を上げた。
「通しなさい!」
彼女の命令に、兵士たちが迷う。
その隙に、俺たちは棺の前へ立った。
勇者カイゼルの棺。
白い布の下に、兄を失った妹の痛みがある。
友に刺された背中がある。
死後に作られた胸の傷がある。
王国が飾り、民に見せようとした、美しい嘘がある。
「ノアさん」
エリシアが低く言った。
「兄を、出してあげてください」
それは、遺体を晒せという意味ではない。
王国の物語の中から、兄を出してほしいという願いだった。
俺は頷き、棺に手をかけた。
バルドが鋭く叫ぶ。
「やめろ!」
その声に、民衆が息を呑む。
「反逆者が勇者の棺に触れることは許されない!」
「俺は王都葬儀局の葬儀官です」
俺は答えた。
「勇者カイゼル様の遺体処置を担当しました」
「すでにその任を解いた」
「死者は、あなたの命令で死者でなくなるわけではありません」
バルドの顔が歪む。
俺は棺の布をゆっくりと外した。
民衆の視線が集まる。
勇者の胸が現れた。
黒く焼けた、偽りの傷。
民が息を呑む。
魔王の黒槍に貫かれた証だと、彼らは教えられてきた。
だが俺は、その傷に反応薬を一滴落とした。
金色の光が浮かぶ。
「これは魔王の黒槍による傷ではありません」
俺は言った。
「聖属性の魔力焼印です。死後に作られた偽装傷です」
広場が凍った。
「嘘だ」
誰かが呟いた。
「勇者様の胸の傷が……作られた?」
バルドが声を張る。
「魔王の術だ! その葬儀屋は黒花に惑わされている!」
「ならば、背中を見てください」
俺は白布をさらにめくった。
エリシアが目を閉じる。
民衆の前に、勇者の背中が現れる。
肩甲骨の下。
心臓へ向かう、細い刺し傷。
俺は指で示した。
「これが本当の致命傷です」
ざわめきが広がる。
「背中……?」
「なぜ背中に」
「魔王と戦ったなら、胸ではないのか?」
俺は声を張った。
「勇者カイゼル様は、魔王に胸を貫かれて死んだのではありません。背後から、聖属性の短剣で刺されました」
その瞬間、広場の端から声がした。
「俺が刺した」
人々が振り返る。
近衛騎士レオンだった。
焼けた右手に包帯を巻き、剣を下ろしたまま歩いてくる。
王国軍を足止めしていたはずの彼が、血と泥にまみれて戻ってきていた。
兵士たちがどよめく。
「レオン卿……」
「勇者様の近衛が?」
レオンは祭壇の前で膝をついた。
エリシアの前ではない。
勇者カイゼルの棺の前に。
「俺が、カイゼルの背中を刺した」
その声は、広場の隅まで届いた。
「命じたのは、宰相バルド・ガルヴェインだ」
民衆のざわめきが爆発した。
バルドの顔から、ついに余裕が消えた。
「狂ったか、レオン!」
「狂っていたのは、黙っていた間だ」
レオンは顔を上げた。
「カイゼルは魔王を殺さなかった。魔王が世界を支えていると知ったからだ。黒花が呪いではなく、瘴気を吸う花だと知ったからだ。だから王都へ戻ろうとした。だから殺された」
「黙れ!」
バルドが兵士に命じる。
「その男を拘束しろ!」
だが、兵士たちは動かなかった。
勇者の背中の傷を見てしまった。
胸の偽装傷を見てしまった。
近衛騎士の自白を聞いてしまった。
王国の物語は、もう美しいままではいられない。
エリシアが黒花の苗を棺のそばへ置いた。
黒花の根が、黒い水に触れる。
次の瞬間、広場の石畳を流れていた濁りが、少しずつ苗へ引き寄せられた。
黒い水が薄くなる。
代わりに、黒花の花びらが深く色づいていく。
民衆が息を呑んだ。
「水が……」
「黒花が吸っている……」
「呪いじゃないのか?」
サイラスが記録石を掲げた。
魔王城の中庭の映像が浮かぶ。
勇者カイゼルが聖剣を下ろす姿。
魔王の心臓。
黒花の根。
死者の名が刻まれた墓碑。
広場に、勇者の声が響いた。
『俺たちは、倒すべき相手を間違えていた』
民衆は、誰も声を出せなかった。
王国が語ってきた勇者の凱旋。
魔王を討ち、胸を貫かれ、英雄として帰ってきた男。
その物語が、いま終わろうとしていた。
カイゼルは魔王を討った英雄ではなかった。
間違いに気づき、剣を下ろし、真実を持ち帰ろうとした一人の人間だった。
エリシアが兄の棺に手を置いた。
「兄は、凱旋などしていません」
その声は静かだった。
「兄は、王国の嘘に殺されて帰ってきました」
広場に、沈黙が落ちる。
鐘の音も、歓声も、怒号もない。
ただ、黒花が水を吸う音だけがかすかに聞こえた。
俺は記録紙を開き、書いた。
『勇者カイゼルの国葬にて、胸部偽装傷および背部致命傷を公開。近衛騎士レオン、刺殺を自白。黒花苗、王都広場の瘴気を吸収。勇者カイゼルの凱旋という公式物語は崩壊』
ペンを置く。
勇者カイゼルの凱旋は、終わった。
だが、彼の本当の葬儀は、ここから始まる。




