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勇者は背中から死んでいた  作者: swingout777


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第32話 聖剣は勇者を拒む

 魔王の心臓が、黒花の根の奥で脈打っていた。


 一度。


 また一度。


 その鼓動は、世界がまだ完全には壊れていない証のように聞こえた。


 だが、地下空間の入口には王国軍の本隊が迫っていた。


 重い鎧の音。

 火矢を束ねる音。

 魔術兵が杖を構える気配。


 黒花の村で迷った兵士たちとは違う。


 ここに来た者たちは、最初から焼き払うために来ている。


「魔王の心臓を確認した!」


 入口の兵士が叫んだ。


「宰相閣下へ報告! 反逆者たちは魔王の残骸を守っています!」


 その声に続いて、ゆっくりと足音が降りてきた。


 宰相バルド・ガルヴェイン。


 王国の実務を握り、英雄管理局を動かし、勇者カイゼルの死を国葬の物語に変えようとした男。


 彼は戦場に似つかわしくない黒い礼服のまま、地下へ降りてきた。


 灰色の髪は乱れていない。

 靴にも泥一つない。


 まるで、この混乱さえ予定された式典の一部だと言わんばかりだった。


「やはり、ここでしたか」


 バルドは魔王の心臓を見上げた。


 その目に恐怖はない。


 あったのは、邪魔な証拠を見つけた者の冷たい確信だった。


「黒花の根。魔王の心臓。人間と魔族の墓碑。なるほど。勇者カイゼルが持ち帰れば、王国の民には刺激が強すぎる」


 エリシアが前に出た。


「あなたが兄を殺させたのですね」


「聖女エリシア。まだそのようなことを」


「私はもう聖女ではないのでしょう?」


 彼女は静かに言った。


「なら、兄の妹として聞きます。あなたが、カイゼルを殺せと命じたのですね」


 バルドは少しだけ笑った。


「勇者カイゼルは、王国のために死にました」


「違います」


「違いません」


 バルドの声は穏やかだった。


「彼の死によって、王国は一つになった。民は魔王への怒りを取り戻し、軍は再び進む理由を得た。勇者とは、そういう存在です」


「兄は、あなたの道具ではありません」


「いいえ」


 バルドは、勇者の名を刻んだ木札を見るような目で言った。


「勇者は、個人であってはならない。民の恐怖を引き受け、憎しみを一つの方向へ導き、死後も王国を支える象徴であるべきです」


 その言葉に、俺は拳を握った。


 死者を、人間ではなく象徴にする。


 その思想こそが、勇者カイゼルを二度殺そうとしていた。


「ノア・アーベル」


 バルドの視線が俺へ移った。


「聖剣を渡しなさい」


 俺は、布で包んだ聖剣を抱え直した。


「これはカイゼル様の遺品です」


「違います。王国の聖具です」


「勇者様は、これを武器ではなく証言として残しました」


「葬儀屋ごときが、聖剣の意味を語るとは」


 バルドは兵士へ合図した。


 数人が前へ出る。


 レオンが剣を構えた。


「下がれ」


 だが、バルドはレオンを見ても表情を変えなかった。


「近衛騎士レオン。君には失望しました」


「俺は、もう命令では動かない」


「妹君のことを忘れたのですか」


 レオンの顔が一瞬だけ強張る。


 それでも、剣は下げなかった。


「忘れていない。だからこそ、もう黙らない」


 バルドはつまらなそうに息を吐いた。


「美しい罪悪感だ。ですが、国家はそのような個人の感情では動きません」


 彼は俺へ手を伸ばした。


「聖剣を渡しなさい。王国には、新しい勇者が必要です」


「新しい勇者?」


「カイゼルは死んだ。ならば、次の勇者を立てればいい」


 地下空間に、重い沈黙が落ちた。


 バルドは続けた。


「魔王の心臓を焼き、黒花の根を断ち、民に示す。勇者カイゼルの意志を継いだ新たな勇者が、魔王の残滓を完全に討ったと」


「それも嘘です」


「嘘ではありません。記録すれば真実になる」


 俺は、かつて英雄管理局の監査官ディートが言った言葉を思い出した。


 事実とは、記録されたものです。


 王国はずっと、そうして死者を塗り替えてきたのだ。


 バルドの背後から、一人の若い騎士が前へ出た。


 金髪の、まだ二十歳にもならない少年だった。

 顔は青ざめているが、鎧だけは立派だ。


「彼を勇者後継者に任じます」


 バルドは言った。


「聖剣を持たせ、魔王の心臓を焼かせる。民は新しい物語を得る」


 若い騎士は震えていた。


 恐れている。


 それでも逆らえない。


 俺はその姿に、かつてのレオンを重ねてしまった。


 命令に従い、誰かの物語のために手を汚す者。


 次の死者を作る仕組みが、目の前でまた動き出そうとしていた。


「渡しません」


 俺は言った。


 バルドの目が冷える。


「ならば奪え」


 兵士が動いた。


 レオンが受け止める。

 エリシアが祈りの光で押し返す。

 マリナが彼女を支え、サイラスは記録石を起動する。


 だが、数が違う。


 一人の兵士が俺の腕を掴んだ。


 聖剣の包みが引き剥がされる。


「ノアさん!」


 エリシアが叫ぶ。


 布が落ち、聖剣が露わになった。


 白銀の刃。


 だが、その光は冷たい。


 若い騎士の前に、聖剣が差し出された。


「握りなさい」


 バルドが命じる。


「今日から君が、勇者の意志を継ぐ者です」


 若い騎士は震える手で柄に触れた。


 その瞬間だった。


 聖剣が、黒く沈んだ。


 光が消えた。


 次いで、刃が激しく震えた。


 若い騎士が悲鳴を上げ、手を離す。


 掌に赤い筋が走っていた。


 血ではない。


 焼けたような拒絶の痕。


「聖剣が……」


 兵士の一人が呟いた。


「拒んだ……?」


 バルドの眉が、初めてわずかに動いた。


「もう一度握れ」


「む、無理です……!」


「握れ!」


 若い騎士は泣きそうな顔で首を振った。


 バルドは舌打ちし、自ら聖剣へ手を伸ばした。


「道具ごときが」


 彼の指が柄に触れた瞬間、聖剣が赤く震えた。


 刃の表面に、勇者カイゼルの血の記憶が浮かび上がる。


 黒花の中庭。

 背を向けた勇者。

 白い手袋。

 突き立てられる短剣。


 その映像が、一瞬だけ地下空間に投影された。


 兵士たちが息を呑む。


 バルドはすぐに手を離した。


 その掌には、黒い焼け跡が残っている。


「まやかしだ」


 彼は低く言った。


「魔王の術だ」


「違います」


 俺は聖剣を拾い上げた。


 不思議なことに、俺の手には痛みがなかった。


 俺が勇者ではないからだ。


 この剣を使って誰かを殺そうとしていないからだ。


 ただ、記録として持っているからだ。


「聖剣は、勇者を拒んだのではありません」


 俺はバルドを見た。


「王国が作ろうとした偽の勇者を拒んだんです」


 エリシアが俺の隣に立った。


「兄は、この剣で魔王を殺すことをやめました」


 彼女は兵士たちへ向かって言った。


「聖剣が覚えている勇者の意志は、魔王の心臓を焼くことではありません。黒花を守り、王都へ真実を持ち帰ることです」


 レオンが前へ出た。


「俺が証人だ」


 彼は自分の右手を掲げた。


「俺は勇者カイゼルを刺した。だが、カイゼルは最後まで聖剣を俺に向けなかった。あいつは、友を斬るより、真実を残すことを選んだ」


 聖剣が、レオンの声に反応するように震えた。


 赤い光が刃を走る。


 だが今度は、拒絶だけではなかった。


 痛みを覚えている光。


 裏切りを忘れない光。


 それでも、真実を語ろうとする光だった。


 サイラスが記録石を掲げた。


「この映像は記録されています! 聖剣は、魔王の心臓を焼くための新勇者任命を拒絶した!」


 マリナも声を上げた。


「聖剣が拒んだのは魔ではありません! 嘘です!」


 兵士たちの間に動揺が広がる。


 バルドは顔を歪めた。


「兵士たちよ、聞くな! 聖剣など飾りにすぎない! 王国が勇者を定めるのだ!」


「違います」


 エリシアの声が、静かに響いた。


「勇者は、王国が定める名前ではありません」


 彼女は兄のマントの切れ端を握った。


「兄は、最後に勇者であることを捨てようとしました。魔王を討った英雄ではなく、間違いを認める一人の人間として戻ろうとした」


 俺は聖剣を布に包み直した。


 この剣は、もう誰かを勇者にするための道具ではない。


 勇者カイゼルが何を選んだかを残す、死者の証言だ。


「バルド宰相」


 俺は言った。


「あなたがどれだけ記録を書き換えても、死者の傷は残ります。聖剣も、黒花も、魔王の心臓も、あなたの物語を拒んでいます」


 バルドは俺を睨んだ。


 その目から、余裕が消え始めていた。


「葬儀屋が、国家を語るな」


「国家を語っているのではありません」


 俺は答えた。


「死者の名を返しているだけです」


 その時、魔王の心臓が大きく脈打った。


 黒花の根が地下空間の床を走り、兵士たちの足元を避けながら、入口の外へ伸びていく。


 王都の方角へ。


 黒花を植えるべき場所へ。


 サイラスが叫んだ。


「根が道を示しています! 王都の水路へつなぐ道です!」


 バルドはそれを見て、初めて本当の焦りを見せた。


「止めろ! 根を断て!」


 しかし、兵士たちはすぐに動かなかった。


 聖剣が拒んだ光景を見た後では、命令が前ほど届かない。


 その隙に、レオンが俺たちへ低く言った。


「行け。王都へ黒花を運べ」


「あなたは」


「ここで足止めする」


 エリシアが彼を見た。


 許しはない。


 けれど、今は同じ方向を向いている。


「死なないでください」


 レオンは苦く笑った。


「それは罰が先延ばしになるだけだ」


「逃げて死なれるより、証言して生きて裁かれてください」


 レオンは一瞬、言葉を失った。


 それから小さく頷いた。


「わかった」


 俺は黒花の根元から、小さな苗を慎重に掘り取った。


 根を傷つけないように。


 葬儀屋が遺体に触れる時と同じ手つきで。


 それをエリシアが布で包む。


 黒花の苗は、弱く震えていた。


 呪いではない。


 世界を救うために、王都へ持ち帰る花だ。


 背後で、バルドの怒号が響く。


 聖剣はもう、彼の物語に従わない。


 勇者という名前は、王国の道具ではなくなった。


 俺たちは黒花の苗を抱え、魔王城の地下を走り出した。


 王都へ。


 枯れ始めた水路へ。


 勇者カイゼルが最後に選んだ、魔王を殺さない道を届けるために。


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