第32話 聖剣は勇者を拒む
魔王の心臓が、黒花の根の奥で脈打っていた。
一度。
また一度。
その鼓動は、世界がまだ完全には壊れていない証のように聞こえた。
だが、地下空間の入口には王国軍の本隊が迫っていた。
重い鎧の音。
火矢を束ねる音。
魔術兵が杖を構える気配。
黒花の村で迷った兵士たちとは違う。
ここに来た者たちは、最初から焼き払うために来ている。
「魔王の心臓を確認した!」
入口の兵士が叫んだ。
「宰相閣下へ報告! 反逆者たちは魔王の残骸を守っています!」
その声に続いて、ゆっくりと足音が降りてきた。
宰相バルド・ガルヴェイン。
王国の実務を握り、英雄管理局を動かし、勇者カイゼルの死を国葬の物語に変えようとした男。
彼は戦場に似つかわしくない黒い礼服のまま、地下へ降りてきた。
灰色の髪は乱れていない。
靴にも泥一つない。
まるで、この混乱さえ予定された式典の一部だと言わんばかりだった。
「やはり、ここでしたか」
バルドは魔王の心臓を見上げた。
その目に恐怖はない。
あったのは、邪魔な証拠を見つけた者の冷たい確信だった。
「黒花の根。魔王の心臓。人間と魔族の墓碑。なるほど。勇者カイゼルが持ち帰れば、王国の民には刺激が強すぎる」
エリシアが前に出た。
「あなたが兄を殺させたのですね」
「聖女エリシア。まだそのようなことを」
「私はもう聖女ではないのでしょう?」
彼女は静かに言った。
「なら、兄の妹として聞きます。あなたが、カイゼルを殺せと命じたのですね」
バルドは少しだけ笑った。
「勇者カイゼルは、王国のために死にました」
「違います」
「違いません」
バルドの声は穏やかだった。
「彼の死によって、王国は一つになった。民は魔王への怒りを取り戻し、軍は再び進む理由を得た。勇者とは、そういう存在です」
「兄は、あなたの道具ではありません」
「いいえ」
バルドは、勇者の名を刻んだ木札を見るような目で言った。
「勇者は、個人であってはならない。民の恐怖を引き受け、憎しみを一つの方向へ導き、死後も王国を支える象徴であるべきです」
その言葉に、俺は拳を握った。
死者を、人間ではなく象徴にする。
その思想こそが、勇者カイゼルを二度殺そうとしていた。
「ノア・アーベル」
バルドの視線が俺へ移った。
「聖剣を渡しなさい」
俺は、布で包んだ聖剣を抱え直した。
「これはカイゼル様の遺品です」
「違います。王国の聖具です」
「勇者様は、これを武器ではなく証言として残しました」
「葬儀屋ごときが、聖剣の意味を語るとは」
バルドは兵士へ合図した。
数人が前へ出る。
レオンが剣を構えた。
「下がれ」
だが、バルドはレオンを見ても表情を変えなかった。
「近衛騎士レオン。君には失望しました」
「俺は、もう命令では動かない」
「妹君のことを忘れたのですか」
レオンの顔が一瞬だけ強張る。
それでも、剣は下げなかった。
「忘れていない。だからこそ、もう黙らない」
バルドはつまらなそうに息を吐いた。
「美しい罪悪感だ。ですが、国家はそのような個人の感情では動きません」
彼は俺へ手を伸ばした。
「聖剣を渡しなさい。王国には、新しい勇者が必要です」
「新しい勇者?」
「カイゼルは死んだ。ならば、次の勇者を立てればいい」
地下空間に、重い沈黙が落ちた。
バルドは続けた。
「魔王の心臓を焼き、黒花の根を断ち、民に示す。勇者カイゼルの意志を継いだ新たな勇者が、魔王の残滓を完全に討ったと」
「それも嘘です」
「嘘ではありません。記録すれば真実になる」
俺は、かつて英雄管理局の監査官ディートが言った言葉を思い出した。
事実とは、記録されたものです。
王国はずっと、そうして死者を塗り替えてきたのだ。
バルドの背後から、一人の若い騎士が前へ出た。
金髪の、まだ二十歳にもならない少年だった。
顔は青ざめているが、鎧だけは立派だ。
「彼を勇者後継者に任じます」
バルドは言った。
「聖剣を持たせ、魔王の心臓を焼かせる。民は新しい物語を得る」
若い騎士は震えていた。
恐れている。
それでも逆らえない。
俺はその姿に、かつてのレオンを重ねてしまった。
命令に従い、誰かの物語のために手を汚す者。
次の死者を作る仕組みが、目の前でまた動き出そうとしていた。
「渡しません」
俺は言った。
バルドの目が冷える。
「ならば奪え」
兵士が動いた。
レオンが受け止める。
エリシアが祈りの光で押し返す。
マリナが彼女を支え、サイラスは記録石を起動する。
だが、数が違う。
一人の兵士が俺の腕を掴んだ。
聖剣の包みが引き剥がされる。
「ノアさん!」
エリシアが叫ぶ。
布が落ち、聖剣が露わになった。
白銀の刃。
だが、その光は冷たい。
若い騎士の前に、聖剣が差し出された。
「握りなさい」
バルドが命じる。
「今日から君が、勇者の意志を継ぐ者です」
若い騎士は震える手で柄に触れた。
その瞬間だった。
聖剣が、黒く沈んだ。
光が消えた。
次いで、刃が激しく震えた。
若い騎士が悲鳴を上げ、手を離す。
掌に赤い筋が走っていた。
血ではない。
焼けたような拒絶の痕。
「聖剣が……」
兵士の一人が呟いた。
「拒んだ……?」
バルドの眉が、初めてわずかに動いた。
「もう一度握れ」
「む、無理です……!」
「握れ!」
若い騎士は泣きそうな顔で首を振った。
バルドは舌打ちし、自ら聖剣へ手を伸ばした。
「道具ごときが」
彼の指が柄に触れた瞬間、聖剣が赤く震えた。
刃の表面に、勇者カイゼルの血の記憶が浮かび上がる。
黒花の中庭。
背を向けた勇者。
白い手袋。
突き立てられる短剣。
その映像が、一瞬だけ地下空間に投影された。
兵士たちが息を呑む。
バルドはすぐに手を離した。
その掌には、黒い焼け跡が残っている。
「まやかしだ」
彼は低く言った。
「魔王の術だ」
「違います」
俺は聖剣を拾い上げた。
不思議なことに、俺の手には痛みがなかった。
俺が勇者ではないからだ。
この剣を使って誰かを殺そうとしていないからだ。
ただ、記録として持っているからだ。
「聖剣は、勇者を拒んだのではありません」
俺はバルドを見た。
「王国が作ろうとした偽の勇者を拒んだんです」
エリシアが俺の隣に立った。
「兄は、この剣で魔王を殺すことをやめました」
彼女は兵士たちへ向かって言った。
「聖剣が覚えている勇者の意志は、魔王の心臓を焼くことではありません。黒花を守り、王都へ真実を持ち帰ることです」
レオンが前へ出た。
「俺が証人だ」
彼は自分の右手を掲げた。
「俺は勇者カイゼルを刺した。だが、カイゼルは最後まで聖剣を俺に向けなかった。あいつは、友を斬るより、真実を残すことを選んだ」
聖剣が、レオンの声に反応するように震えた。
赤い光が刃を走る。
だが今度は、拒絶だけではなかった。
痛みを覚えている光。
裏切りを忘れない光。
それでも、真実を語ろうとする光だった。
サイラスが記録石を掲げた。
「この映像は記録されています! 聖剣は、魔王の心臓を焼くための新勇者任命を拒絶した!」
マリナも声を上げた。
「聖剣が拒んだのは魔ではありません! 嘘です!」
兵士たちの間に動揺が広がる。
バルドは顔を歪めた。
「兵士たちよ、聞くな! 聖剣など飾りにすぎない! 王国が勇者を定めるのだ!」
「違います」
エリシアの声が、静かに響いた。
「勇者は、王国が定める名前ではありません」
彼女は兄のマントの切れ端を握った。
「兄は、最後に勇者であることを捨てようとしました。魔王を討った英雄ではなく、間違いを認める一人の人間として戻ろうとした」
俺は聖剣を布に包み直した。
この剣は、もう誰かを勇者にするための道具ではない。
勇者カイゼルが何を選んだかを残す、死者の証言だ。
「バルド宰相」
俺は言った。
「あなたがどれだけ記録を書き換えても、死者の傷は残ります。聖剣も、黒花も、魔王の心臓も、あなたの物語を拒んでいます」
バルドは俺を睨んだ。
その目から、余裕が消え始めていた。
「葬儀屋が、国家を語るな」
「国家を語っているのではありません」
俺は答えた。
「死者の名を返しているだけです」
その時、魔王の心臓が大きく脈打った。
黒花の根が地下空間の床を走り、兵士たちの足元を避けながら、入口の外へ伸びていく。
王都の方角へ。
黒花を植えるべき場所へ。
サイラスが叫んだ。
「根が道を示しています! 王都の水路へつなぐ道です!」
バルドはそれを見て、初めて本当の焦りを見せた。
「止めろ! 根を断て!」
しかし、兵士たちはすぐに動かなかった。
聖剣が拒んだ光景を見た後では、命令が前ほど届かない。
その隙に、レオンが俺たちへ低く言った。
「行け。王都へ黒花を運べ」
「あなたは」
「ここで足止めする」
エリシアが彼を見た。
許しはない。
けれど、今は同じ方向を向いている。
「死なないでください」
レオンは苦く笑った。
「それは罰が先延ばしになるだけだ」
「逃げて死なれるより、証言して生きて裁かれてください」
レオンは一瞬、言葉を失った。
それから小さく頷いた。
「わかった」
俺は黒花の根元から、小さな苗を慎重に掘り取った。
根を傷つけないように。
葬儀屋が遺体に触れる時と同じ手つきで。
それをエリシアが布で包む。
黒花の苗は、弱く震えていた。
呪いではない。
世界を救うために、王都へ持ち帰る花だ。
背後で、バルドの怒号が響く。
聖剣はもう、彼の物語に従わない。
勇者という名前は、王国の道具ではなくなった。
俺たちは黒花の苗を抱え、魔王城の地下を走り出した。
王都へ。
枯れ始めた水路へ。
勇者カイゼルが最後に選んだ、魔王を殺さない道を届けるために。




