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勇者は背中から死んでいた  作者: swingout777


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第31話 魔王の心臓

 地面の奥から、鼓動が聞こえた。


 一度。


 また一度。


 それは獣の足音でも、王国軍の進軍でもなかった。


 もっと深く、もっと古い音。


 大地そのものの下で、巨大な心臓がまだ動いているような音だった。


「魔王の心臓が……反応している」


 サイラスの声は、血の気を失っていた。


 黒花の村に広がった根は、まだ震えている。


 火矢によって燃えかけた木柵の下を這い、墓地を守るように絡み、井戸の水から黒い濁りを吸い上げていた。


 兵士たちは動けない。


 黒花は呪いではない。


 目の前で火を吸い、水を澄ませ、村を守った花を、なお呪いだと言い切れる者は少なくなっていた。


 それでも、監査官ディートだけは叫び続けていた。


「怯むな! これは魔王の術だ! 魔王の心臓が残っているなら、なおさら焼き払え!」


 その言葉に、サイラスが顔を上げた。


「駄目です!」


 彼はふらつきながらも、必死に声を張った。


「魔王の心臓を壊せば、黒花の根が吸っている瘴気が一気に逆流します! 王都だけでは済みません!」


「黙れ、裏切り者の魔術師!」


 ディートが兵士たちに命じる。


「魔王城へ進め! 根を断て! 心臓を焼け!」


 だが、兵士たちはすぐには動かなかった。


 目の前の黒花が、彼らの信じてきた物語を揺らしている。


 エリシアは、カイゼルの名が書かれた木札の前に立っていた。


 黒花の根は、彼女の足元から魔王城の方角へ続いている。


「ノアさん」


 彼女は静かに言った。


「行きましょう」


「魔王城へ、ですか」


「はい」


 エリシアは兄のマントの切れ端を握りしめた。


「兄が最後に知ったものを、私たちも見なければなりません」


 俺は頷いた。


 黒花の村を守るだけでは足りない。


 魔王の心臓が何であり、なぜ世界を支えているのか。

 それを確かめなければ、バルドも英雄管理局も、また言うだろう。


 魔王の呪いだ、と。


 レオンが焼けた右手で剣を握り直した。


「俺が先に行く」


「その手で戦えるんですか」


「戦うためじゃない」


 彼は低く言った。


「今度こそ、カイゼルが守ろうとしたものの前に立つためだ」


 マリナは怪我人の治療を村人に引き継ぎ、俺たちのもとへ来た。

 サイラスも、倒れそうな体を杖で支えている。


「記録しなければなりません」


 彼は苦笑した。


「魔王の心臓なんてものを見てしまったら、記録者として寝ていられませんから」


 黒花の根をたどって、俺たちは魔王城へ向かった。


 村の外では、王国軍の一部がまだ進軍の形を保っていた。

 だが前列の兵士たちの目には、迷いがある。


 剣聖の娘。

 賢者の弟子。

 竜騎士の従者の孫。

 黒花の村の人々。


 死者たちの名が、彼らの中の命令を鈍らせていた。


 魔王城に近づくにつれ、黒花は密度を増した。


 地面は黒い根で覆われ、まるで大地の血管のように脈打っている。


 その根を踏むたび、足元から低い鼓動が伝わってきた。


 魔王城は、以前見た時よりも沈んで見えた。


 壁に刻まれた人間と魔族の名。

 中庭に咲く黒花。

 折れた剣と斧の墓標。


 だが今、そのすべてが心臓の鼓動に合わせて揺れている。


 中庭の奥、半ば崩れた石扉の先。


 勇者カイゼルが聖剣を止めた場所。


 俺たちはそこへ入った。


 地下へ続く空間は、黒花の根で覆われていた。


 前に来た時よりも、根は太く、黒く、重くなっている。

 その中心に、赤黒い光が見えた。


 心臓だった。


 人のものではない。


 大きさは馬車ほどもあり、黒い根に絡まれながら、ゆっくりと脈打っている。


 一度。


 また一度。


 鼓動のたびに、根が瘴気を吸い上げ、心臓へ送り込んでいた。


 心臓の表面には、いくつもの亀裂がある。


 そこから黒い煙が漏れ、また根に吸われていく。


 魔王ゼルグレイスの心臓。


 世界の汚れを引き受け続ける、黒い核。


 エリシアが息を呑んだ。


「これが……魔王」


「正確には、残された心臓です」


 サイラスが震える声で言った。


「肉体は崩れている。ですが、心臓だけが黒花の根に縛られ、まだ魔力循環を維持している」


 俺は心臓を見つめた。


 恐ろしいと言えば、恐ろしい。


 だが、それは怪物への恐怖ではなかった。


 死にきれない者を見る恐怖だった。


 自分の意思で眠ることもできず、世界の汚れを吸い続ける存在。


 王国はそれを、魔王と呼んできた。


『来たか』


 声が響いた。


 黒花の根が震え、心臓の表面に光が走る。


 魔王ゼルグレイスの意識の欠片だった。


『勇者の妹。死者を読む葬儀屋。罪を背負う騎士。震える祈り手。記録にすがる魔術師』


 レオンが顔を歪めた。


「よく見ているな」


『根は、死者のそばにある。死者のそばには、生者の嘘も集まる』


 魔王の声は低く、疲れていた。


 俺は一歩前へ出た。


「あなたは、ずっとこれを続けていたのですか」


『長く続けすぎた』


「なぜ」


『誰も引き受けなければ、世界が腐るからだ』


 短い答えだった。


 美談ではない。


 使命感に酔った言葉でもない。


 ただ、事実だけを告げる声だった。


『人間も魔族も、戦争を続けた。憎しみを生み、死を積み、魔術で大地を裂いた。その汚れは、どこかへ流れねばならぬ』


 黒花の根が、かすかに脈打つ。


『黒花が吸う。我が引き受ける。根が封じる。その循環を、王国は呪いと呼んだ』


「王国は知っていたのですね」


 エリシアが言った。


「黒花が呪いではないことも、あなたが世界を支えていたことも」


『一部は知っていた。だが、知らぬふりをした』


「なぜです」


『魔王が世界の敵でなくなれば、勇者の物語が崩れる。勇者の物語が崩れれば、戦争で死んだ者たちの意味も崩れる。王は、それを恐れた』


 エリシアの顔が痛みに歪んだ。


 王国は魔王を敵にし続けた。


 そのために、黒花を呪いと呼び、魔王城を悪の城と呼び、魔族を滅ぼすべきものと教えた。


 そして勇者カイゼルが真実を知った時、王国は彼を殺した。


「カイゼル様は、ここで何をしたんですか」


 俺は尋ねた。


 心臓の鼓動が、少しだけ強くなった。


『剣を下ろした』


 魔王は答えた。


『あの男は、我を殺すために来た。多くの魔族を斬り、黒花を焼き、己が正しいと信じていた』


 エリシアが目を伏せる。


『だが、ここを見た。死者の名を見た。黒花の根を見た。我の心臓を見た。そして言った』


 黒花の光が広がる。


 短い記憶が、地下空間に浮かんだ。


 勇者カイゼルが立っている。


 傷だらけの鎧。

 血に濡れた頬。

 手には聖剣。


 その前に、魔王の心臓が脈打っている。


『殺せばいいのか』


 記憶の中のカイゼルが言った。


『俺はずっと、あんたを殺すために来た。そうすれば世界が救われると信じていた』


 魔王の声が答える。


『殺せば、物語は完成する。勇者は魔王を討ち、王国は歓喜する』


『世界は?』


『少しずつ腐る』


 カイゼルは、聖剣を握る手に力を込めた。


 だが、振り下ろさなかった。


『なら、殺さない』


 それは、あまりにも単純な言葉だった。


『俺は、間違えた。なら、間違えたまま最後まで突き進むわけにはいかない』


 勇者は聖剣を下ろした。


『王都へ戻る。魔王を殺した英雄にはならない。魔王を殺さずに済む世界を作る』


 記憶の中の魔王が、低く笑った。


『人間は、そなたを許さぬぞ』


『だろうな』


 カイゼルも笑った。


『でも、妹には怒られるだけで済むかもしれない』


 エリシアの目から涙が落ちた。


「兄さん……」


 記憶はそこで薄れていく。


 魔王の心臓の鼓動が、また地下に響いた。


『勇者は停戦を望んだ。王国と魔王領の間に、黒花を焼かぬ約束を作ろうとした。死者を敵味方で分けぬ場所を、守ろうとした』


「それが、この村」


 俺は呟いた。


『そうだ。あの村は、小さな答えだった。人間と魔族が共に黒花を育て、死者の名を守る場所。勇者は、あれを王都へ見せようとした』


 だから、王国は恐れた。


 魔王が悪ではないことよりも、もっと恐れた。


 人間と魔族が、共に暮らせるという事実を。


 敵がいなくても、世界は続くかもしれないという証拠を。


 それは、戦争で王国を支えてきた者たちにとって、最も都合の悪い真実だった。


 レオンが心臓の前に膝をついた。


「俺は……その男を殺した」


 声は絞り出すようだった。


「カイゼルは、この心臓を守ろうとしていた。俺は、それを知っていながら、背中を刺した」


うとしていた。俺は、それを知『知っていながら、ではない』


 魔王の声が言った。


『恐れながら、だ』


 レオンは顔を上げた。


『そなたは罪人だ。だが、罪を知る者は、まだ選べる』


「何を選べと」


『次に誰の背中に立つかを』


 レオンの右手が震えた。


 焼けた手。

 勇者を刺した手。

 勇者の名札を火から守った手。


 その手を、彼は強く握った。


「俺は、もう背中を刺さない」


 魔王は答えなかった。


 ただ、心臓が一度、大きく脈打った。


 その時、地下空間の入口から怒号が響いた。


「いたぞ!」


 王国軍だ。


 ディートの部隊が追ってきたのだ。


 火矢部隊の一部もいる。

 彼らは、心臓を見た瞬間に顔を強張らせた。


「魔王の心臓……!」


 ディートの目が狂ったように光る。


「焼け! 今すぐ焼き払え! これこそ魔王の呪いの根源だ!」


「違います!」


 エリシアが叫んだ。


「これは世界を支えているものです!」


「裏切り者の言葉など聞くな!」


 ディートが火矢を構えた兵士へ命じる。


 だが、何人かは動けない。


 黒花が火を吸うところを見た者たちだ。


 しかし、すべてではなかった。


 後方の兵士が火矢を放った。


 赤い炎が、魔王の心臓へ向かって飛ぶ。


 レオンが飛び出した。


 剣で火矢を弾く。


 だが、次が来る。


 エリシアが祈りの光で炎を逸らし、マリナがその祈りを支える。


 サイラスは記録石を起動した。


「全部、記録します!」


 彼は叫んだ。


「王国軍が魔王の心臓を焼こうとしたことも! 黒花が瘴気を吸うことも! ここに刻まれた死者の名も!」


 俺は父の記録簿を抱え、心臓の前に立った。


 戦えない。


 剣も振れない。


 だが、ここに立つことはできる。


 死者の名と、世界を支える心臓の前に。


「ノアさん、下がって!」


 エリシアが叫ぶ。


 俺は下がらなかった。


 心臓の鼓動が、背中に響く。


 まるで、無数の死者の声を聞いているようだった。


 剣聖。

 賢者。

 竜騎士。

 勇者。

 魔族の子ども。

 名もなき兵士。


 彼らの死が、嘘のために使われてきた。


 そして今、その嘘は世界を壊そうとしている。


 俺は記録紙を開き、書いた。


『魔王の心臓。黒花の根に接続し、世界の瘴気を受け止める中核。勇者カイゼルはこれを確認し、魔王討伐を中止。王国との停戦と黒花保護を望んだ』


 さらに書く。


『王国軍、英雄管理局監査官ディートの命令により、心臓焼却を試みる』


 火矢がまた放たれた。


 今度は三本。


 レオンが一本を落とす。

 エリシアが一本を祈りで逸らす。


 残る一本が、俺の肩をかすめ、心臓の根元へ向かった。


 黒花の根が動いた。


 太い根が火矢を包み込み、炎を吸い込む。


 だが、その瞬間、心臓に大きな亀裂が走った。


 低い悲鳴のような音が地下を満たす。


 魔王の声が、苦しげに響いた。


『根が……持たぬ』


 サイラスが青ざめる。


「これ以上の火と瘴気を吸えば、心臓が裂けます!」


「ではどうすれば」


 俺が叫ぶ。


 サイラスは心臓と黒花の根を見比べた。


「村の黒花と、王都の濁った水路をつなぎ直す必要があります。瘴気の流れを一方向に戻さなければ」


「どうやって」


「黒花を焼くのではなく、植えるんです」


 エリシアが顔を上げた。


「王都に黒花を?」


「はい。呪いではなく浄化の花として」


 それは、王国の物語を根本から覆す行為だった。


 黒花を焼くのではなく、王都に植える。


 魔王の呪いを祓うのではなく、魔王の心臓と共に世界を支える。


 勇者カイゼルが持ち帰ろうとした答えは、それだったのかもしれない。


 ディートが叫ぶ。


「ふざけるな! 王都に黒花を植えるなど、魔王に王国を明け渡すも同じだ!」


「違います」


 エリシアが言った。


「王都を救うためです」


 彼女は兄のマントの切れ端を胸に抱いた。


「兄は、魔王を殺さない道を選びました。なら、私たちも選びます」


 俺は頷いた。


「黒花を王都へ持ち帰りましょう」


 魔王の心臓が、弱く脈打つ。


『勇者の選んだ道は、険しいぞ』


「知っています」


 俺は答えた。


「でも、死者の嘘で世界を壊すよりはましです」


 心臓の奥で、魔王が笑った気がした。


『葬儀屋よ。ならば記録せよ』


「何をですか」


『魔王は世界の敵ではなかった、と』


 俺はペンを握った。


 そして書いた。


『魔王ゼルグレイス。世界を滅ぼす敵ではなく、世界の瘴気を引き受け続けた存在』


 その文字を書いた瞬間、黒花の根が大きく震えた。


 まるで、長い間押し込められていた名が、ようやく正しく記されたかのように。


 地上から、また角笛が聞こえた。


 王国軍の本隊が近づいている。


 魔王の心臓は、まだ完全には守れていない。


 だが、真実はまた一つ、記録された。


 勇者カイゼルが守ろうとしたもの。


 魔王の心臓。


 それは、世界を壊すための悪ではなく、世界がまだ生きている証だった。


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