第29話 死者たちの名前
黒花の村で、王国軍の前列が揺らいでいた。
兵士たちは槍を構えたまま、動けずにいる。
彼らの目の前で、黒花が井戸の濁りを吸っていた。
黒い水が、少しずつ澄んでいく。
花びらはそのぶん黒さを増し、重く垂れていく。
呪いの花ではない。
汚れを吸う花だ。
それを見てしまった兵士たちは、もう簡単に火を放てなかった。
「惑わされるな!」
英雄管理局の監査官ディートが叫んだ。
「それは魔王の術だ! 黒花は人の心を迷わせる!」
だが、その声にも焦りが混じっていた。
王国の物語は、目の前の事実に揺さぶられている。
黒花は呪いではない。
勇者カイゼルは魔王に殺されていない。
聖女エリシアは魔王に堕ちたのではない。
ならば、王国が語ってきた英雄たちの死も、本当に正しかったのか。
その疑いが生まれた瞬間、俺は背負っていた父の記録簿を強く意識した。
勇者だけではない。
この帳面には、王国が美談に変えてきた死者たちの名がある。
剣聖アーロン。
賢者リディア。
竜騎士バラム。
そして、まだ俺が読み切れていない無数の名前。
彼らもまた、王国のために死を飾られた。
俺は記録簿を取り出した。
雨と泥で汚れないよう、油紙で包んでいたそれを開く。
父の字が、そこにあった。
死者の名。
公式の死因。
本当の死因。
遺体に残された傷。
それは、死者たちが最後に残した証言だった。
「何をする気だ、ノア・アーベル」
ディートが俺を睨む。
「それは王国機密だ。反逆者が触れてよいものではない」
「これは、王国のものではありません」
俺は答えた。
「死者のものです」
ディートの顔が歪む。
俺は村人と王国兵の前で、記録簿を掲げた。
「ここには、王国が記録から消した死者たちの名前があります」
兵士たちがざわめいた。
「勇者カイゼル様だけではありません。王国はこれまで、何人もの英雄の死を美しい物語に書き換えてきました」
「黙れ!」
ディートが叫ぶ。
「その帳面は偽造だ!」
「ならば、名前を聞いてください」
俺は最初のページを開いた。
「剣聖アーロン。公式死因、魔族軍との戦闘による名誉の戦死」
兵士の一人が顔を上げた。
その名を知らない者はいない。
剣聖アーロンは、王国の子どもたちが最初に憧れる英雄の一人だ。
魔族の大軍を一人で食い止め、国境の砦を守って死んだと教えられている。
「実際の死因」
俺は息を吸った。
「王国製毒物による中毒死。右頸部に注射痕あり」
兵士たちの間に、ざわめきが走った。
「嘘だ」
「剣聖様が毒殺?」
「魔族に殺されたんじゃないのか」
その時、王国軍の後方から一人の女性が進み出た。
年は四十前後。
髪を後ろで結び、古い剣の柄だけを首から下げている。
彼女は震える声で言った。
「父の名を、もう一度言ってください」
俺は彼女を見た。
「あなたは」
「アーロンの娘です」
女性は胸元の剣の柄を握った。
「父の遺体は、私たち家族に返されませんでした。戦傷がひどいから見るなと言われた。でも母はずっと疑っていました。父は戦場で死ぬ前、王国の補給毒について調べていたから」
彼女は兵士たちを見回した。
「父は魔族に殺されたのではないのですか」
俺は記録簿を見た。
父の字は、揺らいでいない。
「少なくとも、この記録では違います」
女性は目を閉じた。
泣き崩れはしなかった。
ただ、長い間閉じ込めていた疑いが、ようやく名前を得たような顔をしていた。
「父は、戦場で名誉の死を遂げた英雄だと、ずっと言われてきました」
彼女は低く言った。
「でも本当は、口を塞がれたのですね」
ディートが苛立ったように手を上げる。
「兵士たちよ、聞くな! 反逆者の作り話だ!」
だが、もう遅かった。
俺は次のページを開いた。
「賢者リディア。公式死因、禁呪暴走による自滅」
今度は、黒花の村の中から老人が顔を上げた。
白い髭を持つ魔術師風の老人だ。
「リディア先生……」
彼は杖をつきながら前へ出た。
「私は、かつてリディア様の弟子でした。先生は禁呪など使わなかった。戦争を止めるため、王国と魔族の停戦案をまとめていた」
俺は記録を読む。
「実際の死因、拘束後の魔力封鎖による衰弱死。両手首に拘束痕」
老人の杖が震えた。
「やはり……」
「知っていたのですか」
俺が尋ねると、老人は首を横に振った。
「知っていたのではない。信じたくなかっただけです。先生が禁呪で自滅したなど、あり得ないと」
彼は空を仰いだ。
「先生。あなたは、狂った賢者ではなかったのですね」
その声に、黒花が揺れた。
村の墓地に咲く黒花が、死者の名に応えるように。
俺はさらにページをめくった。
「竜騎士バラム。公式死因、竜の暴走を止めるための殉職」
王国兵の中から、若い男が息を呑んだ。
「祖父だ……」
彼は槍を下ろした。
「俺の祖父は、竜騎士バラムの従者でした。家には、祖父が隠していた手紙があります。バラム様は、竜を暴走させたのは王国軍の実験だと告発しようとしていた、と」
俺は続ける。
「実際の死因、処刑。背部に王国騎士団式の斬撃痕」
若い兵士の顔が白くなる。
彼の隣にいた兵士が、思わず後ずさった。
「王国騎士団式……」
「味方に斬られたということか」
ざわめきは、もう止まらない。
ディートが怒鳴る。
「全員、耳を貸すな! それは反逆の記録だ!」
「違います」
エリシアが言った。
彼女は一歩前へ出た。
聖女の資格を奪われ、裏切り者と呼ばれた少女。
それでも、兵士たちは彼女の声を無視できなかった。
「これは、死者の記録です」
彼女は俺の隣に立った。
「王国が美談に変えた死者たちの、本当の名前です」
村人たちの中から、また一人、また一人と声が上がった。
「私の兄は、魔族に殺されたと聞かされました。でも遺体は返されなかった」
「父は逃亡兵として処分された。でも本当は村人を逃がしていた」
「母は魔王の呪いで死んだと言われた。けれど、黒花を焼かれた後に井戸水を飲んで倒れた」
死者の名が、次々に口にされていく。
王国が記録から消した者。
美談の陰に押し込めた者。
反逆者にされた者。
名も残されなかった者。
その名前たちが、黒花の村に集まり始めた。
俺は気づいた。
父の記録簿は、王国を倒すための武器ではない。
死者の名を、遺された者に返すためのものだ。
名前を奪われた死者は、二度殺される。
そして名前を奪われた遺族もまた、悲しむ場所を奪われる。
ディートは顔を歪めた。
「黙れ……黙れ、全員!」
彼は兵士に命じた。
「記録簿を奪え! 反逆者どもを拘束しろ!」
だが、前列の兵士たちは動かなかった。
剣聖アーロンの娘が、彼らの前に立ったからだ。
「その帳面に、父の名前があります」
彼女は静かに言った。
「王国が奪った父の死を、私は取り戻したい」
賢者リディアの弟子が続いた。
「私も、先生の名を取り戻したい」
竜騎士バラムの従者の孫も、槍を地面に置いた。
「俺は、祖父が守ろうとした人の名を知りたい」
村人たちも、兵士たちも、少しずつ俺たちの側へ寄ってくる。
全員ではない。
まだ王国を信じる者もいる。
恐怖に縛られて動けない者もいる。
ディートの命令に従おうとする者もいる。
けれど、揺らぎは生まれた。
王国の物語は、死者の名前によって裂け始めていた。
レオンが俺の隣に立った。
「俺の名も書け」
彼は低く言った。
「勇者カイゼルを刺した男として」
エリシアの表情が硬くなる。
俺はレオンを見る。
「本気ですか」
「逃げないと決めた」
彼は白い手袋を握りしめた。
「カイゼルを殺したのは俺だ。命じたのは宰相バルド。妹を人質に取られた。それでも、刺したのは俺の手だ」
兵士たちがざわめく。
勇者を刺した男。
その言葉は、王国軍の中に衝撃を走らせた。
ディートが叫ぶ。
「レオン! それ以上言えば、お前の妹は――」
「もう黙れ」
レオンの声は低かった。
怒鳴ってはいない。
だが、今までで一番鋭かった。
「妹を人質に取れば、俺は何度でも黙ると思ったか」
彼は王国軍へ向き直った。
「俺は近衛騎士レオン・クラウス。勇者カイゼルの背を守る任を受けながら、その背を刺した男だ」
兵士たちの顔が変わる。
「俺は許されない。だが、俺一人を処刑して終わらせるな。勇者を殺せと命じた者がいる。勇者の死を国葬に仕立てた者がいる。魔王領を焼いて証拠を消そうとしている者がいる」
彼は剣を地面に突き立てた。
「その名は、宰相バルド・ガルヴェインだ」
黒花の村に、重い沈黙が落ちた。
その名を口にした瞬間、空気が変わった。
監査官ディートの顔から血の気が引く。
兵士たちは互いに顔を見合わせる。
もうこれは、ただの魔族討伐ではない。
王国の中心にいる宰相の罪へ、矛先が向き始めていた。
俺は記録紙を取り出した。
そして書いた。
『近衛騎士レオン・クラウス、自白。勇者カイゼルを背後より刺殺。命令者は宰相バルド・ガルヴェイン。動機として妹の治療停止を脅迫材料にされたと証言』
ペン先が震えた。
だが、書き切った。
エリシアはその文字を見た。
苦しげに目を伏せる。
兄を刺した男の証言。
それは兄の死を取り戻すために必要なものだ。
けれど、必要だからといって痛みが消えるわけではない。
「ノアさん」
彼女が言った。
「兄の名前も、書いてください」
「もう書いています」
「いいえ」
彼女は首を横に振った。
「王国の勇者としてではなく」
俺は理解した。
新しいページを開く。
そこに、ゆっくりと書いた。
『カイゼル・レインフォード。勇者。公式死因、魔王ゼルグレイスとの相討ちによる胸部貫通死。実際の死因、近衛騎士レオン・クラウスによる背部刺創。死後、胸部に偽装傷形成』
そこで一度、ペンを止める。
そして、最後に書き足した。
『魔王を殺した英雄ではなく、魔王領の真実を王都へ持ち帰ろうとした一人の人間』
エリシアは、その文字を見て静かに頷いた。
「ありがとうございます」
黒花が揺れた。
村の墓地に並ぶ名札が、かすかに音を立てる。
剣聖。
賢者。
竜騎士。
勇者。
名もなき兵士。
魔族の子ども。
王国に捨てられた者たち。
死者たちの名前が、ここに戻り始めていた。
ディートは後ずさった。
だが、その目にはまだ諦めがなかった。
「全軍、命令を聞け!」
彼は声を張り上げた。
「反逆者どもを討て! 黒花を焼け! 死者の名などに惑わされるな!」
その瞬間、遠くで角笛が鳴った。
王国軍の後続部隊だ。
迷っていた前列とは違う。
重装の騎兵と火矢部隊が、黒花の村へ向かって進んでくる。
ディートの顔に、歪んだ笑みが戻った。
「遅かったな、反逆者ども」
空に、火矢がつがえられる。
狙いは村ではない。
墓地だ。
黒花だ。
死者たちの名前が刻まれた木札の列だ。
俺は記録簿を閉じた。
名前は取り戻し始めた。
だが、まだ守れていない。
次に来るのは、死者の名を焼き払う火だった。




