第28話 裏切り者の聖女
王国軍の旗が、黒花の村の前に並んだ。
白地に金の鷹。
王国の正義を示す紋章。
だが、その旗の下にいる兵士たちの槍先は、魔王ではなく、小さな村へ向けられていた。
木柵の内側では、子どもたちが震えている。
人間の子。
魔族の子。
角の折れた少女。
王国兵の外套を着た老人。
片腕に鱗のある母親。
彼らは、王国が語る「魔族の残党」ではなかった。
ただ、生き延びてきた人々だった。
「全員、下がってください」
エリシアが静かに言った。
その声に、村人たちが振り返る。
白い修道服は泥と黒花の花粉で汚れていた。
国葬の壇上に立つはずだった聖女の姿ではない。
けれど、彼女の背筋はまっすぐだった。
手には、勇者カイゼルのマントの切れ端を握っている。
「私が、前に出ます」
「駄目です」
俺は思わず言った。
「王国軍は、あなたを保護対象ではなく反逆者として見ています」
「だからです」
エリシアは村の外へ目を向けた。
「私が隠れれば、この村が魔族の巣だと言われます。私が前に立てば、少なくとも彼らは一瞬迷う」
その一瞬を作る。
彼女が何をしようとしているのか、俺にはわかった。
王国軍は、黒花の村を焼くために来た。
だが、そこに聖女が立っていれば、兵士たちはすぐには火を放てない。
たとえ、彼女がもう王国にとって都合の悪い聖女になっていたとしても。
レオンが剣を抜いた。
「俺が前に出る」
「レオン卿が出れば、戦闘になります」
「なら、どうする」
「言葉で止めます」
エリシアは答えた。
レオンは苦い顔をした。
「言葉で軍は止まらない」
「兄は、そう思わなかったはずです」
その一言に、レオンは黙った。
勇者カイゼルは、剣を下ろした。
魔王の前で。
魔族の子どもたちの前で。
黒花の村の前で。
その姿を見ていたレオンには、もう反論できなかった。
村の外で、伝令兵が声を張り上げた。
「王国宰相府より命令! この村は魔王残党の潜伏地である! 黒花の根を焼却し、住民は全員拘束する!」
村人たちがざわめく。
老人が槍を握り直した。
俺はその手を押さえた。
「戦えば、彼らの言う通りにされます」
「黙って焼かれろと言うのか」
「違います」
俺は父の記録簿を背負い直した。
「死者の名を守るために、まず生き残る方法を探します」
その時、王国軍の前列が割れた。
黒い外套の男が姿を現す。
英雄管理局の監査官、ディートだった。
王城前広場で民の恐怖を煽り、黒花を呪いだと告げた男。
彼は村の入口に立つエリシアを見て、わざとらしく悲しげな顔をした。
「聖女エリシア様」
その声は、兵士たちにも村人たちにも聞こえるように大きかった。
「そこを離れてください。あなたは魔王の残滓に惑わされています」
「惑わされてはいません」
エリシアは一歩前へ出た。
「この村は、魔族の巣ではありません。人間も魔族も、戦争で行き場を失った人たちが暮らしている場所です」
「それこそ魔族の常套句です」
ディートは冷たく言った。
「人間の情に訴え、王国の正義を鈍らせる。聖女様、あなたはお優しい。だから利用されたのです」
「利用しているのは、あなたたちです」
兵士たちがざわめいた。
エリシアは声を強めた。
「兄の死を利用し、国葬を利用し、民の恐怖を利用しているのは王国です」
「今の発言、王国への反逆と見なします」
「構いません」
その一言に、空気が凍った。
エリシアは、もう逃げなかった。
聖女として守られる立場も、王国に認められる名誉も、すべて捨てる覚悟で立っていた。
「私は、兄の妹です」
彼女の声が、村の外まで響く。
「兄カイゼルは、魔王領でこの村を見ました。黒花が呪いではないことを知りました。魔族の子どもたちが墓を守っていることを知りました。そして、王国が教えてきた物語を疑いました」
「黙りなさい!」
ディートの声が鋭くなる。
だが、エリシアは止まらなかった。
「兄は、魔王を殺した英雄として帰ることを望んでいませんでした。兄は、自分が間違えていたことを王都へ伝えようとしていました」
兵士の何人かが動揺した。
彼らの中にも、勇者カイゼルを信じていた者がいるのだろう。
勇者が魔族をかばった。
勇者が王国の物語を疑った。
その事実は、彼らの中の単純な正義を揺らしていた。
ディートは手を上げた。
「聖女エリシアは、魔王に堕ちた」
冷たい宣告だった。
「本日この時をもって、聖女資格を停止する。王国および教会の名において、彼女を裏切り者として拘束せよ」
兵士たちが槍を構える。
村人たちから悲鳴が上がった。
裏切り者の聖女。
その言葉は、あまりにも簡単に彼女から名を奪った。
勇者の妹。
王国の聖女。
民の祈りの象徴。
そのすべてを、たった一つの命令で塗り替える。
死者の死因を変えるのと同じだ。
王国は、生きている者の名さえ都合よく書き換える。
「エリシアさん」
俺は前に出ようとした。
だが彼女は首を横に振った。
「ノアさんは、記録してください」
「でも」
「私が、今ここで何を言ったのか」
彼女は振り返らずに言った。
「王国に消されても、残るように」
俺は歯を食いしばり、記録紙を取り出した。
手が震えている。
それでも書いた。
『聖女エリシア、黒花の村にて王国軍の焼却命令に抗議。王国および英雄管理局は、同発言を魔王への加担と見なし、聖女資格停止および拘束を宣告』
ペン先が紙を走る音が、やけに大きく聞こえた。
エリシアは王国軍へ向き直った。
「私は、聖女でなくなっても構いません」
その声は、震えていなかった。
「祈りの名を奪われても、兄の妹であることは奪えません」
兵士たちの動きが止まる。
「兄は、この村を守ろうとしました。なら、私も守ります」
ディートが怒鳴った。
「拘束しろ!」
前列の兵士が動いた。
その瞬間、村の中から子どもが飛び出した。
片方の角が折れた魔族の少女だった。
彼女はエリシアの前に立ち、小さな両手を広げた。
「聖女さま、悪くない!」
村人たちが息を呑む。
続いて、人間の少年が飛び出した。
「勇者さまも、村を焼くなって言った!」
さらに、王国兵だった老人が義足を引きずって前へ出る。
「わしは元王国歩兵だ! この村には魔族だけではない! 王国に捨てられた兵士もいる!」
村人たちが、次々にエリシアの後ろへ並んだ。
魔族。
人間。
混血。
戦争孤児。
かつての王国兵。
誰も武器らしい武器は持っていない。
鍬。
木桶。
包帯。
墓守りの木札。
それでも、彼らは立った。
エリシア一人を、裏切り者にしないために。
レオンが低く笑った。
自嘲でも、諦めでもない。
「カイゼルなら、泣いただろうな」
「ええ」
俺は答えた。
「たぶん、困った顔で」
レオンは剣を握り直し、エリシアの隣へ出た。
「近衛騎士レオン・クラウス」
彼は王国軍に向けて言った。
「この村への焼却命令は、勇者カイゼルの意志に反する」
兵士たちがどよめく。
ディートの顔が歪んだ。
「裏切り者が増えたか」
「増えたのではない」
レオンは言った。
「ようやく、正しい側に立っただけだ」
マリナも前へ出た。
震えていた。
それでも、祈りの杖を握っている。
「神官補佐マリナ。証言します。勇者カイゼル様の胸の傷は、死後に作られたものです。私は、その偽りの儀式に加わりました」
王国軍がざわめく。
サイラスも、ふらつきながら声を上げた。
「宮廷魔術師サイラス。記録者として証言する。黒花は瘴気を吸う植物であり、魔王城は墓所である。王国の公式記録は、魔王領の実態と一致しない!」
ディートの顔色が変わった。
次々に証言者が立つ。
それは、彼らにとって最も恐れていた状況だった。
死者だけではない。
生者まで、王国の記録に逆らい始めたのだ。
俺は最後に前へ出た。
「王都葬儀局、ノア・アーベル」
自分の声が、不思議なほど遠くまで届いた。
「勇者カイゼル様の遺体を確認しました。公式死因は魔王の黒槍による胸部貫通。しかし実際の致命傷は、背部刺創です」
兵士たちの間に、明らかな動揺が走った。
「胸の傷は死後に作られた偽装傷。背中の傷口には聖属性の刃の痕跡。勇者様は、魔王に殺されていません」
ディートが叫んだ。
「反逆者の虚言だ!」
「ならば、遺体を調べればいい」
俺は答えた。
「死者は嘘をつきません」
その言葉に、村の墓地の黒花が揺れた。
風はなかった。
黒花の根元から、黒い霧のようなものが立ち上る。
だがそれは、瘴気ではなかった。
村の井戸へ向かって流れ、水面の黒い濁りを吸い上げていく。
兵士たちが息を呑む。
黒花が、水を澄ませている。
目の前で。
誰の演説でもなく、誰の記録でもなく、花そのものが証明していた。
「見てください!」
エリシアが叫んだ。
「黒花は呪いではありません! この花は、汚れを吸っているのです!」
兵士の一人が槍を下ろした。
また一人。
前列が揺らぐ。
ディートが怒鳴った。
「惑わされるな! 焼け! 黒花を焼き払え!」
しかし、兵士たちはすぐには動かなかった。
恐怖と命令の間に、迷いが生まれている。
エリシアは、村人たちの前に立ったまま言った。
「私は、王国の聖女ではなくなりました」
その声は静かだった。
「けれど、兄が守ろうとした人たちを見捨てる私にはなりません」
黒花が、彼女の足元で揺れている。
裏切り者の聖女。
王国はそう呼んだ。
だが、その瞬間、村の人々は彼女を別の名で見ていた。
勇者の妹。
死者の意志を継ぐ者。
そして、初めて自分の言葉で立つ、一人の人間として。




