第26話 葬儀屋の選択
王城前広場は、国葬の場ではなくなっていた。
黒い水が石畳を濡らし、白百合は腐るように萎れている。
民衆は怯え、兵士は槍を握り、宰相バルドは壇上から魔王領への出兵を命じていた。
「魔族を討て!」
「黒花を焼け!」
「勇者様の仇を!」
叫び声が広場を満たす。
俺は、その中心に立ち尽くしていた。
手元には、死者の記録がある。
父の記録簿。
勇者カイゼルの記録石。
英雄管理局の帳簿。
黒花の花びら。
聖剣の反応。
マリナとサイラスの証言。
そして、レオンの自白。
これだけあれば、王国の嘘を暴ける。
勇者が魔王に殺されたのではないこと。
背中から刺されたこと。
胸の傷は死後に作られたこと。
宰相バルドが、勇者の死を計画していたこと。
民の前で示せば、国葬は崩れる。
だが、その間にも王国軍は動き出していた。
白い喪章をつけた兵士たちが、魔王領へ向かう隊列を組んでいる。
彼らが目指す先には、黒花の村がある。
魔王城の近くで、黒花を育て、死者の名を守っている村。
人間と魔族の混血、戦争孤児、捨てられた兵士たちが暮らす場所。
そこを焼けば、証拠が消える。
それだけではない。
黒花の根が焼かれれば、瘴気がさらに逆流する。
王都の井戸だけでは済まない。
村も、畑も、川も、死ぬ。
俺は選ばなければならなかった。
ここで真実を暴くか。
魔王領へ向かう軍を止めるか。
「ノアさん」
エリシアが俺を見た。
彼女の目は、兄の棺ではなく、出兵していく兵士たちへ向いていた。
「兄なら、どうしたでしょう」
その問いに、答えはすぐ浮かんだ。
勇者カイゼルなら、きっと棺の前に留まらない。
自分の名誉より、これから死ぬ者たちを選ぶ。
たとえ自分の死が美談にされても。
たとえ真実を語る機会を逃しても。
目の前で誰かが死に向かうなら、そちらへ走る。
そういう人だったのだと、俺はもう知っていた。
だが俺は勇者ではない。
剣も振れない。
軍を止める力もない。
民を一声で動かす名もない。
俺は、ただの葬儀屋だ。
その時、背中の記録簿が重く感じた。
父の手紙を思い出す。
――葬儀屋の仕事は、死者をきれいに飾ることではない。
――死者が最後に残した真実を、生者の都合で消させないことだ。
俺はずっと、その言葉を「死者のため」のものだと思っていた。
だが違う。
死者の真実を守るのは、生きている者が同じ嘘で殺されないためでもある。
勇者カイゼルの死を暴くことと、黒花の村を守ることは、別々ではない。
同じことだ。
王国が勇者の死を嘘にしたから、次の戦争が始まろうとしている。
なら、その戦争を止めることも、勇者の葬儀の一部だ。
「決めました」
俺は言った。
エリシアが頷く。
レオンが俺を見る。
マリナは震えながら聖印を握り、サイラスは息を荒くしながら記録石を抱えていた。
「ここで全部を暴くのは、まだ無理です」
俺は広場を見渡した。
「民は今、恐怖に飲まれています。黒い水を見て、魔王の呪いだと信じている。ここで証拠を出しても、バルドに魔族のまやかしだと言われれば終わりです」
「では、どうするのですか」
マリナが尋ねた。
「証拠を増やします」
「これ以上?」
「黒花の村を守ります」
俺は王都の門へ向かう軍列を見た。
「王国軍が黒花を焼こうとしている現場を止める。黒花が呪いではなく、瘴気を吸う花だと民に見せられる証拠を持ち帰る。魔王城の墓碑も、黒花の根も、村の人たちも守る」
サイラスが苦しそうに笑った。
「葬儀屋殿。あなた、だんだん無茶が勇者様に似てきましたね」
「やめてください。俺は戦えません」
「だから、私たちがいます」
エリシアが言った。
「私は、兄の妹として行きます。聖女としてではなく、兄が守ろうとしたものを見るために」
レオンが剣を抜いた。
だが、その剣を民や兵士へ向けることはなかった。
「俺は軍を止める」
「あなたが?」
「近衛騎士の命令権はまだ残っている。どこまで通じるかわからないが、隊列を乱すくらいはできる」
彼は一度、勇者の棺を見た。
「カイゼルを刺した俺が、今さら誰かを守る資格などない。だが、同じ嘘で次の死者を作らせるわけにはいかない」
マリナが震える声で言った。
「私も行きます。黒花が瘴気を吸うなら、祈りで反応を強められるかもしれません」
サイラスは壁にもたれながら手を上げた。
「私は……正直、走れる自信はありません」
「無理はしないでください」
「ですが、行きます」
彼は記録石の核を握りしめた。
「記録する者がいなければ、また書き換えられます。私は、今度こそ最後まで記録します」
俺はミラ王女を見た。
壇上で、彼女は王宮警備を必死に制している。
バルドは出兵命令を進めながら、こちらを捕らえるよう兵に指示を出していた。
彼女も、もう限界だ。
俺は近くの兵士から奪った伝令用の小さな書板に、短く書いた。
『黒花の村へ向かう。国葬の告発は一時延期。王都で時間を稼いでください。証拠は必ず持ち帰る。勇者の死を、次の死者の口実にさせません』
それをマリナへ渡す。
「殿下へ」
「はい」
マリナは震えながらも、人混みを抜けてミラの方へ走った。
俺たちは広場の端へ移動する。
だが、兵士たちが立ちはだかった。
「反逆者ノア・アーベル! 聖女エリシア! その場で拘束する!」
俺は聖剣の包みを握った。
振れない。
剣なんて扱えない。
そう思った瞬間、レオンが前に出た。
「道を開けろ」
「レオン卿、あなたにも武装解除命令が――」
「近衛騎士レオン・クラウスの名において命じる」
彼の声は鋭かった。
「王国軍の出兵隊列に、瘴気汚染の危険あり。確認のため、我々が先行する」
「しかし、宰相閣下の命令が」
「ならば、宰相は瘴気に兵を突っ込ませるつもりか?」
兵士たちが迷う。
レオンは一歩近づいた。
「勇者カイゼルの近衛として、最後に命じる。道を開けろ」
その名は、まだ効いた。
兵士たちは互いに顔を見合わせ、わずかに道を空けた。
俺たちは走った。
背後でバルドの怒号が聞こえる。
「逃がすな! 反逆者どもを捕らえろ!」
広場の混乱がさらに大きくなる。
その時、壇上からミラ王女の声が響いた。
「王女ミラの名において、国葬を一時中断します!」
民衆がどよめいた。
バルドの怒りが、そちらへ向く。
その隙に、俺たちは広場を抜けた。
王都の東門へ向かう。
門の外では、すでに王国軍の先発隊が進み始めていた。
彼らの槍先は、魔王領を向いている。
その先に、黒花の村がある。
人々が暮らし、死者の名を守り、勇者が守ろうとした場所が。
俺は走りながら、父の記録簿を押さえた。
剣聖。
賢者。
竜騎士。
そして勇者。
王国に死を飾られ、真実を消された者たち。
「あなたたちの名前も、必ず呼びます」
俺は小さく呟いた。
今はまだ、国葬の場で暴けない。
だが逃げるわけではない。
次の死者を出さないために、先に行く。
葬儀屋が死者のためにできることは、過去を記録するだけではない。
死者の嘘が生む、新しい死を止めることだ。
東門の外へ出ると、空はさらに暗くなっていた。
遠く、魔王領の方角に黒い雲が垂れ込めている。
王国軍の旗が、その下へ進んでいく。
エリシアが隣に並んだ。
「ノアさん」
「はい」
「兄の葬儀は、まだ終わっていませんね」
「始まったばかりです」
俺は答えた。
勇者カイゼルを、王国の英雄としてではなく、一人の人間として送る。
そのためには、彼が守ろうとしたものを守らなければならない。
俺たちは、王国軍の後を追って走った。
黒花の村へ。
死者の名と、生者の命を守るために。




