第24話 聖女の祈りは届かなかった
「その棺を、開けてはなりません」
王女ミラの声が、王城前広場に響いた。
ざわめきが波のように広がる。
壇上に立つ宰相バルドは、勇者カイゼルの棺へ伸ばしていた手を止めた。
白い布で覆われた棺。
黒ずみ始めた白百合。
濁った井戸水の匂いを含んだ風。
国葬の場は、すでに弔いではなくなりつつあった。
民衆は不安げに空を見上げ、兵士たちは広場の端で倒れた馬を運び出している。
それでも、祭壇の上だけは美しく整えられていた。
まるで、王国が用意した物語だけは腐らないとでも言うように。
「ミラ殿下」
宰相バルドは、ゆっくりと振り返った。
老いた男だった。
だが、その背筋はまっすぐで、声には民を従わせる力があった。
「国葬の最中です。王族であられるあなたが、勇者の弔いを妨げるおつもりですか」
「妨げるのではありません」
ミラは壇上の端に立っていた。
護衛はいない。
小さな王女が、宰相と民衆の視線を一身に受けている。
「その棺は、まだ真実を語っていません」
民衆がさらにざわめいた。
「真実?」
「どういう意味だ」
「勇者様に何かあったのか?」
バルドは微笑んだ。
穏やかで、冷たい笑みだった。
「殿下は、魔王の残した呪いに心を乱されておいでのようだ」
その一言で、広場の空気が変わった。
魔王の呪い。
民にとって、今起きている異変を説明するには、それ以上わかりやすい言葉はない。
井戸水が濁った。
花が黒ずんだ。
馬が倒れた。
すべて魔王の呪いだと言われれば、人々は頷きたくなる。
「民よ、恐れることはない」
バルドは両手を広げた。
「今こそ、聖女の祈りによって勇者の魂を天へ送り、魔王の呪いを退ける時である」
俺は人垣の中で息を呑んだ。
バルドの視線が、まっすぐこちらへ向いた。
正確には、俺の隣にいるエリシアへ。
「聖女エリシア」
広場が静まった。
民衆の視線が、一斉に集まる。
白い修道服を泥で汚したエリシアは、兄の棺を見つめていた。
「勇者カイゼルの妹であり、王国の聖女であるあなたに命じます」
バルドの声が響く。
「兄君の魂を祈りによって天へ導き、民に示しなさい。勇者が魔王を討ち、清らかに神の御許へ召されたことを」
罠だ。
俺はすぐにそう思った。
聖女の祈りは、死者の魂の残響に触れる。
完全に蘇らせることはできないが、死者が安らかに旅立ったなら、淡い光として現れることがある。
国葬でそれを見せれば、民は信じる。
勇者は正しく死んだ。
魔王を討ち、天へ召された。
王国の物語は真実だった、と。
だが、俺たちは知っている。
勇者カイゼルは、そんな死に方をしていない。
魔王に討たれたのではない。
背中から友に刺された。
胸の傷は死後に作られた。
最期の記憶は、黒花に残された。
その魂が、王国の用意した祈りに応えるはずがない。
「エリシアさん」
俺は小さく言った。
「無理に応じる必要はありません」
彼女は首を横に振った。
「逃げれば、兄の死を恐れていると思われます」
「でも」
「祈ります」
エリシアは、兄の棺を見つめたまま言った。
「ただし、王国のためではありません」
彼女は人垣を抜け、壇上へ向かった。
民衆が道を空ける。
泥に汚れた聖女。
泣き崩れない妹。
王国の命じた祈りに向かう、一人の少女。
俺はその背を追った。
レオンも、マリナも、サイラスも、群衆の中で息を潜めている。
まだ出る時ではない。
ミラ王女は壇上の端で、エリシアを見守っていた。
バルドは満足げに頷いた。
「聖女よ。勇者の魂を導きなさい」
エリシアは棺の前に膝をついた。
白布の下には、勇者カイゼルの遺体がある。
胸には偽りの傷。
背中には本当の致命傷。
右手には、もう黒花はない。
彼が最期に握っていた真実は、今、俺の胸元にある。
「兄さん」
エリシアは静かに呼んだ。
広場の誰もが、その声を聞いた。
聖女としての祈りではない。
妹としての呼びかけだった。
「あなたが本当に安らかに眠っているなら、応えてください」
彼女の両手から、淡い光が生まれた。
祈りの光。
白く、柔らかく、冷えた棺を包んでいく。
民衆が息を呑む。
誰もが待っていた。
勇者の魂が光となって現れる瞬間を。
けれど、何も起きなかった。
棺は沈黙していた。
エリシアの祈りは、白布の上で揺らぎ、やがて薄れていく。
もう一度、彼女は祈った。
「兄さん」
光が強くなる。
だが、棺の中からは何の応答もない。
魂の残響がない。
安らかな旅立ちを示す光もない。
ただ、冷たい沈黙だけがあった。
民衆のざわめきが戻る。
「なぜだ」
「勇者様の魂は?」
「聖女様の祈りが届かないのか?」
バルドの顔から笑みが消えた。
だが、それは一瞬だけだった。
すぐに彼は厳粛な表情を作る。
「見よ、民よ」
バルドは声を張った。
「これこそ魔王の呪いの深さである。勇者の魂すら、魔王の残滓が縛っているのだ」
違う。
俺は拳を握った。
違う。
祈りが届かないのは、魔王の呪いではない。
勇者の魂が、王国の物語に応じていないからだ。
英雄として飾られることを拒んでいるからだ。
エリシアは顔を伏せたまま動かなかった。
肩が震えている。
泣いているのかと思った。
だが違った。
彼女は、祈りをやめていなかった。
今度は棺ではなく、自分の胸元に手を当てている。
「私は、兄を取り戻したかった」
小さな声だった。
それでも、不思議と広場に届いた。
「魔王に殺されたのではないなら、どこかに兄の魂が残っているのではないかと。祈れば、もう一度だけ兄の声を聞けるのではないかと」
民衆が静まり返る。
バルドが眉をひそめた。
「聖女よ、祈祷を続けなさい」
エリシアは立ち上がった。
その頬には涙があった。
けれど、彼女はやはり泣き崩れてはいなかった。
「祈りは届きませんでした」
その言葉に、広場が凍った。
「兄の魂は、この棺にありません」
「何を言うのです」
バルドの声が低くなる。
「勇者の魂は、魔王の呪いに――」
「違います」
エリシアははっきりと言った。
「兄は、王国が用意した英雄の祈りに応えなかったのです」
ざわめきが広がる。
兵士たちが動こうとする。
ミラ王女が片手を上げ、王宮警備を制した。
ほんのわずかな時間。
だが、十分だった。
エリシアは棺に手を置いた。
「私は、兄を天へ送るために祈ったのではありません。兄が本当に何を望んでいたのか、知りたかった」
彼女の声は震えていた。
それでも、民衆に向けてまっすぐ届いていた。
「でも、祈りは届かなかった。なぜなら、兄の最期の言葉は、この棺の中ではなく、別の場所に残されていたからです」
俺は胸元の黒花に触れた。
エリシアの視線が、こちらへ向く。
出番だ。
俺は人垣を抜けて、壇上へ歩き出した。
背後で、レオンが続く気配がした。
マリナとサイラスも、震えながら前へ出る。
民衆が俺を見る。
「誰だ、あの男は」
「葬儀局の者か?」
「なぜ聖女様のそばに」
バルドの目が細くなった。
「ノア・アーベル」
その声には、はっきりと敵意があった。
「反逆者が、国葬の場へ何をしに来た」
俺は壇上へ上がり、勇者の棺の前に立った。
白布の下にある死者へ、心の中で一礼する。
カイゼル様。
あなたの妹は、もうあなたを取り戻そうとしていません。
あなたの意志を届けようとしています。
俺は黒花の薬包紙を取り出した。
小さな黒い花びら。
それを見た瞬間、バルドの表情が変わった。
わずかな変化だったが、俺にはわかった。
恐れている。
この花を。
勇者が最期に握っていた、死者の記憶を抱く花を。
「これは、勇者カイゼル様の右手から見つかった黒花の花びらです」
民衆がどよめいた。
「黒花だと?」
「呪いの花じゃないか」
「なぜ勇者様がそんなものを」
俺は声を張った。
「黒花は、魔族の呪いではありません」
ざわめきが大きくなる。
バルドが兵士へ視線を送る。
だが、ミラ王女が前へ出た。
「待ちなさい。王女の名において、この者の発言を許します」
「殿下」
バルドの声が低くなる。
「その判断は、王国を危うくします」
「王国を危うくしているのは、嘘です」
ミラは言った。
広場が静まり返る。
俺は黒花を掲げた。
「この花には、勇者カイゼル様の最期の記憶が残されています」
エリシアが、俺の隣に立った。
涙を拭い、民衆を見渡す。
「兄の祈りは、この棺には届きませんでした」
彼女は静かに言った。
「でも、兄の言葉は残っています」
俺は黒花を手のひらに乗せた。
花びらは、かすかに震えた。
まるで、死者がもう一度だけ語ろうとしているように。
だが、その時だった。
広場の端で、井戸水が噴き上がった。
黒い水が石畳を濡らし、白百合の花束を一瞬で腐らせる。
民衆が悲鳴を上げた。
バルドは、その混乱を逃さなかった。
「見よ!」
彼は叫んだ。
「黒花が現れた途端、魔王の呪いが強まった! その花こそ災厄の源である!」
民衆の視線が変わる。
恐怖が、俺たちへ向く。
エリシアが一歩も引かずに立っている。
俺は黒花を握りしめた。
祈りは届かなかった。
だが、それは失敗ではない。
聖女エリシアは、兄の魂を取り戻すことを諦めた。
代わりに、兄が残した真実を届けることを選んだ。
黒い水が広場を濡らしていく。
国葬の場は、混乱に包まれ始めていた。
そして俺たちは、王国の嘘だけでなく、民の恐怖とも戦わなければならなくなった。




