第22話 枯れる王都
地上へ出た瞬間、王都の空気が変わっていることに気づいた。
最初に感じたのは、匂いだった。
雨上がりの石畳の匂いではない。
花屋が国葬のために並べた白百合の匂いでもない。
もっと重く、湿って、喉の奥に絡みつくような匂い。
腐った水の匂いだった。
「……何だ、これは」
レオンが低く呟いた。
英雄管理局の地下から抜けた俺たちは、王城西棟の裏口に出ていた。
国葬のため、王城前の大広場には民が集まっている。
勇者カイゼルの棺を一目見ようと、通りは人で埋まっていた。
だが、広場へ向かう人々の顔には、弔いの悲しみだけではないものが浮かんでいた。
不安だ。
「井戸が濁ったぞ!」
どこかで男の声がした。
「水が黒い! 飲むな!」
その声に、群衆がざわめく。
俺たちは顔を見合わせ、声のした方へ走った。
王城近くの共同井戸の周りに、人だかりができていた。
老婆が桶を抱えたまま座り込み、若い母親が子どもを胸に抱いて震えている。
兵士たちは民を下がらせようとしているが、自分たちも明らかに動揺していた。
井戸の水は、黒ずんでいた。
墨を薄く溶かしたような色ではない。
底から腐ったものが滲み出しているような、濁った黒。
桶の縁には、細かい泡が浮いている。
俺は思わず胸元の黒花に触れた。
魔王の声が蘇る。
王都の井戸は、まもなく濁る。
畑は枯れ、家畜は倒れる。
人々はそれを魔王の呪いと呼ぶだろう。
「始まっている……」
俺が呟くと、エリシアが井戸を見つめた。
「黒花を焼いたせいですね」
「おそらく」
サイラスがふらつきながら井戸の水に近づいた。
彼は指先にわずかな魔力を灯し、水面へかざす。
すぐに、顔色が変わった。
「瘴気です。濃度はまだ低いですが、このまま広がれば飲み水には使えません」
「そんな……王都の中心ですよ」
マリナが青ざめる。
「王都の地下水路は、王城を中心に広がっています」
サイラスは息を切らしながら言った。
「魔王領から逆流した瘴気が、地下水に混じり始めているのかもしれません」
「逆流……」
エリシアが拳を握った。
「兄は、これを止めようとしていたのですね」
誰かが叫んだ。
「見ろ! 花が!」
通り沿いに並べられていた白百合が、黒く変色していた。
国葬のために王都中から集められた花だ。
ついさっきまで白かったはずの花弁が、端から黒ずみ、しおれていく。
まるで、見えない火に焼かれているようだった。
民衆のざわめきが大きくなる。
「魔王の呪いだ」
誰かが言った。
「勇者様が魔王を討ったから、魔王の呪いが王都に……」
「やはり魔族は滅ぼさなければ」
「黒花だ。黒花の呪いだ」
噂は、火より早く広がった。
違う。
俺は叫びそうになった。
黒花は呪いではない。
黒花を焼いたから、瘴気が行き場を失っている。
魔王が世界を呪っているのではない。
王国が真実を隠し、浄化の花を呪いと呼び、焼き払った結果だ。
だが、民は知らない。
知らされていない。
だから、用意された物語にすがる。
魔王の呪い。
魔族の悪意。
勇者の尊い犠牲。
そのわかりやすい言葉が、目の前の恐怖を説明してくれるからだ。
「退け! 道を空けろ!」
兵士たちが群衆を押し分けて進んできた。
その先頭にいたのは、英雄管理局の黒外套だった。
監査官ディート。
清拭室に現れ、勇者の背中の傷を隠せと命じた男だ。
ディートは井戸の水を見ても、驚いた様子を見せなかった。
むしろ、待っていたものが来たという顔だった。
「民よ、落ち着きなさい」
彼はよく通る声で言った。
「これは魔王ゼルグレイスが死の間際に残した呪いです」
その言葉に、民衆が息を呑む。
ディートは続けた。
「勇者カイゼル様は命をかけて魔王を討ちました。ですが、邪悪なる魔王は最後の力で王都に呪いを放ったのです」
「嘘だ」
エリシアが小さく言った。
その声は怒りで震えていた。
「全部、逆です」
ディートの演説は続く。
「恐れることはありません。国葬の場で勇者様の魂を讃え、王国が一つになれば、この呪いにも必ず打ち勝てます」
民の不安が、少しずつ別の形に変わっていく。
恐怖から怒りへ。
怒りから憎しみへ。
「魔族を滅ぼせ!」
誰かが叫んだ。
「黒花を焼け!」
「勇者様の仇を!」
俺は寒気を覚えた。
これが、王国のやり方なのだ。
起きた災厄に名前をつける。
民の不安を敵へ向ける。
そして、その敵を倒すために、さらに王国へ従わせる。
井戸の水が濁ったことさえ、勇者の物語を強める材料に変えられていく。
「止めなければ」
エリシアが前へ出ようとした。
俺はその腕を掴んだ。
「今ここで叫んでも、捕まります」
「でも、このままでは」
「国葬の場で言うんです」
俺は広場の方を見た。
白い祭壇。
勇者の棺。
集まった民。
宰相バルド。
英雄管理局。
王国が最も大きな声で嘘を語る場所。
そこをひっくり返さなければ、誰も聞かない。
マリナが震える声で言った。
「でも、民は信じるでしょうか。魔王は悪ではない、黒花は呪いではないと言っても」
「簡単には信じません」
サイラスが苦しげに答えた。
「ですが、井戸の水が濁った今なら、逆に証明できます。これは魔王の呪いではなく、瘴気の逆流だと」
「証明?」
「黒花が瘴気を吸うなら、黒花の花びらを水に近づければ反応するはずです」
俺は胸元の黒花を取り出した。
勇者が最期に握っていた花びら。
それを井戸水の入った桶へ近づける。
黒花の花びらが震えた。
水面の黒い濁りが、わずかに花びらへ引き寄せられる。
花びらの縁が、さらに黒く染まった。
瘴気を吸っている。
エリシアが息を呑む。
「これを、民の前で見せれば」
「黒花が呪いではなく、瘴気を吸う花だと示せる」
俺は花びらを薬包紙に戻した。
ただし、これは小さな証拠だ。
民が一瞬で信じるとは限らない。
だから必要なのだ。
勇者の遺言。
魔王城の記録。
聖剣の反応。
英雄管理局の帳簿。
マリナとサイラスの証言。
そしてレオンの自白。
すべてを重ねる。
死者の傷と、生者の証言を一つにする。
それで初めて、王国の物語に対抗できる。
その時、広場から大きな歓声が上がった。
勇者の棺が祭壇に到着したのだ。
白い布で覆われ、胸の偽りの傷が見えるように整えられた棺。
民が泣き、手を合わせ、勇者の名を呼ぶ声が聞こえる。
「カイゼル様……」
エリシアが唇を噛んだ。
兄の遺体が、いま王国の嘘の中心に置かれている。
急がなければならない。
だが、その前に王都そのものが崩れ始めていた。
通りの端で、馬が倒れた。
国葬の馬車を引くはずだった白馬だ。
口から黒い泡を吐き、脚を痙攣させている。
兵士が慌てて駆け寄る。
民衆の悲鳴が上がる。
さらに、広場の敷石の隙間から、黒い霧のようなものが細く立ち上った。
瘴気だ。
サイラスが顔を歪める。
「早すぎる……黒花の焼却範囲が想定より広いのかもしれません」
「王国軍が、凱旋の証に焼いたと言っていました」
俺が言うと、サイラスは歯を食いしばった。
「愚かな……浄化の根を焼けば、瘴気は出口を失う」
ディートの声が再び響く。
「見よ! これこそ魔王の呪いである! 勇者様の御霊に祈り、王国に仇なす魔の残滓を討ち滅ぼすのだ!」
民衆の怒号が膨れ上がる。
「魔族を殺せ!」
「黒花を焼き尽くせ!」
「王国に栄光を!」
黒花を焼いたせいで王都が枯れ始めているのに、民はさらに黒花を焼けと叫ぶ。
嘘が、災厄を生む。
災厄が、さらに嘘を強める。
俺はその輪を目の前で見ていた。
これを止めなければ、勇者の死どころではない。
王都も、王国も、魔王領も、すべてが憎しみと瘴気に呑まれる。
レオンが低く言った。
「行くぞ」
彼は白い手袋を持ったまま、祭壇の方を見ていた。
「宰相が演説を始める。あの男が民の前で嘘を完成させる前に、止める」
エリシアが頷く。
マリナは震えながら聖印を握り、サイラスは記録石の核を胸に抱いた。
俺は父の記録簿と英雄管理局の帳簿を背負い直す。
黒花の花びらを胸元へしまい、勇者の聖剣を布越しに握った。
広場の祭壇の上に、宰相バルドが姿を現した。
民衆の歓声が、波のように広がる。
バルドは両手を広げ、勇者の棺の前に立った。
そして、よく通る声で言った。
「民よ。今日は、世界を救った勇者カイゼルの魂を讃える日である」
俺たちは人混みの中へ踏み出した。
王都は、すでに枯れ始めている。
けれど民はまだ、その原因を知らない。
今から俺たちは、王国が最も聞かせたくない葬儀を始める。




