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勇者は背中から死んでいた  作者: swingout777


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第21話 魔王は世界を支えていた

 英雄管理局の地下から地上へ続く階段を上る途中、胸元の黒花が熱を持った。


 最初は、傷口がうずいたのかと思った。


 国葬前夜の襲撃で裂かれた肩が、まだ鈍く痛んでいる。

 だが違った。


 熱は、内ポケットの中からだった。


 勇者カイゼルが最期に握っていた、黒花の花びら。


 俺は足を止めた。


「ノアさん?」


 エリシアが振り返る。


 その瞬間、黒花が強く震えた。


 まるで、何かが目を覚ましたように。


 次に聞こえたのは、鐘の音ではなかった。


 低く、深い声。


 人間の声ではない。


 耳ではなく、骨の奥へ響くような声だった。


『……勇者の記憶を、開いたか』


 俺たちは一斉に動きを止めた。


 レオンが剣に手をかける。

 マリナは聖印を握り、サイラスは顔色を変えて俺の胸元を見た。


「まさか……」


 サイラスが呟く。


「魔王ゼルグレイス……」


 その名を聞いた瞬間、空気が凍った。


 魔王。


 王国が世界の敵と呼び続けた存在。

 勇者が討ったとされる怪物。

 だが本当は、まだ死んでいない者。


 黒花の花びらから、声が続いた。


『恐れるな。今の我に、そなたらを傷つける力はない』


 低い声だった。


 けれど、不思議とそこに憎悪はなかった。


 王国の絵物語で語られるような、世界を呪う魔王の声ではない。


 疲れ切った老人のような声だった。


「あなたが……魔王ゼルグレイスなのですか」


 エリシアが尋ねた。


 震えてはいる。


 だが、逃げる声ではなかった。


『そう呼ばれている』


「兄は、あなたを殺さなかったのですね」


『殺さなかったのではない』


 黒花の花びらが、淡く光る。


『殺せなかったのだ。勇者カイゼルは、最後に知った。我を殺せば、世界が傾くと』


 サイラスが壁に手をついた。


「やはり……」


「どういうことですか」


 俺はサイラスを見る。


 彼は息を整えながら、かすれた声で言った。


「魔王は、魔力循環の終点なのです」


「終点?」


「世界には、戦争や死、憎悪、魔術の失敗、魔獣の腐敗から生まれる瘴気がある。それは大地に溜まり、やがて人や作物を蝕む。本来なら、黒花がそれを吸い上げ、魔王の心臓へ送っていた」


 俺は黒花の花びらを見た。


 瘴気を吸う花。


 禁書庫で読んだ記録。

 魔王城で見た黒花の根。

 敵味方の死者を分けずに刻んだ墓碑。


 すべてが、一つにつながっていく。


『黒花は呪いではない』


 魔王の声が言った。


『人も魔族も、長い戦の中で汚れを生んだ。その汚れを、大地だけでは受け止めきれぬ。黒花が吸い、我が引き受け、根の奥へ封じてきた』


「それが、魔王の役割……」


 エリシアが呟く。


『役割など、美しい言葉ではない。ただ、誰かがやらねば世界が腐る。それだけだ』


 レオンが低く言った。


「では、王国は何をしていた」


 その声には怒りがあった。


 自分の罪へ向けた怒りか。

 宰相への怒りか。

 もう判別できなかった。


「王国は、あなたを世界の敵だと教えていた」


『敵が必要だったのだろう』


 魔王は静かに答えた。


『人間の王は、人間をまとめるために魔王を使った。魔族の長たちもまた、人間への憎しみを保つために王国を使った。敵がいれば、己の罪を見なくて済む』


 その言葉は、ミラ王女の告白と同じだった。


 王国は、魔王を倒したかったのではない。

 魔王を必要としていた。


 だが、それだけではなかった。


 必要としていた敵を本当に殺せば、世界の均衡まで壊れる。


 勇者カイゼルは、それを知った。


 だから魔王を殺さず、王都へ戻ろうとした。


 だから、殺された。


「カイゼル様は、あなたを守ろうとしたのですか」


 俺が尋ねると、黒花の光が少し揺れた。


『我ではない。世界をだ』


 低い声に、わずかな温度が混じった。


『勇者は言った。魔王を倒す物語ではなく、魔王を殺さずに済む世界を作ると』


 エリシアの目が潤んだ。


「兄らしいです」


 彼女は小さく笑った。


 悲しい笑みだった。


「無茶で、馬鹿で、格好つけで……でも、そういう人でした」


『あの男は、自分が間違えたことを恥じていた』


 魔王は言った。


『魔族を斬ったことを。黒花を焼いたことを。我を悪と信じたことを。だが、間違いを知ってなお剣を握る者より、剣を下ろせる者の方が強い』


 レオンがうつむいた。


 カイゼルは剣を下ろした。

 だが、レオンは短剣を抜いた。


 その対比が、あまりにも残酷だった。


「魔王ゼルグレイス」


 俺は黒花を握りしめた。


「あなたが世界の瘴気を受け止めているなら、今はどうなっているんですか」


 黒花の光が弱まった。


『我の肉体は崩れた。心臓だけが黒花の根に残っている。だが、勇者の死後、王国軍は魔王城周辺の黒花を焼いた』


「焼いた……?」


 サイラスが顔を上げる。


『凱旋の証としてな。魔王を討った勇者の道を清める、と言って』


 俺は息を失った。


 黒花は瘴気を吸う花だ。


 それを王国軍が焼いた。


 呪いを払ったつもりで。


 勝利の証として。


「それでは……」


 サイラスの声が震えた。


「瘴気の流れが乱れる」


『すでに乱れている』


 魔王の声は、静かだった。


 静かすぎるほどに。


『王都の井戸は、まもなく濁る。畑は枯れ、家畜は倒れる。人々はそれを魔王の呪いと呼ぶだろう。だが違う』


 黒花の光が、一瞬だけ強くなった。


『魔王を呪いと呼び、黒花を焼き、真実を殺した者たちが招いた結果だ』


 遠くで、また鐘が鳴った。


 国葬の鐘。


 王国は今、魔王を討った勇者の物語を民に語っている。


 その同じ瞬間、魔王を支える黒花は焼かれ、世界は少しずつ腐り始めている。


 俺は背負っている記録簿の重みを感じた。


 勇者カイゼルの死因を暴けば終わると思っていた。


 違った。


 勇者の死は入口でしかない。


 その奥にあるのは、王国が長年積み上げてきた嘘。

 そして、その嘘によって壊れ始めた世界だった。


「どうすればいいんですか」


 エリシアが尋ねた。


「黒花を戻せば、世界は救えるのですか」


『すぐには戻らぬ』


「では」


『まず、嘘を止めろ』


 魔王は言った。


『魔王は悪で、黒花は呪いで、勇者は我を討って死んだ。その物語が続く限り、人々は黒花を焼き続ける。真実を知らぬまま、自らの足元を腐らせる』


「国葬で、話せということですね」


 俺は言った。


『勇者は、そのために死んだのではない』


 魔王の声が、わずかに厳しくなった。


『だが、勇者は最期に託した。死者は嘘をつけぬと』


 俺は胸を突かれた。


 死者は嘘をつけない。


 それは、俺が葬儀屋として何度も思ってきた言葉だ。


 だが今、その言葉は勇者の最期と、魔王の声を通じて返ってきた。


 俺は記録紙を取り出した。


 手が震えている。


 それでも書く。


『魔王ゼルグレイスの意識片、黒花を通じて接触。黒花は瘴気吸収植物。魔王は瘴気を引き受け、世界の魔力循環を支える存在。勇者カイゼルはこれを知り、魔王討伐の物語を否定しようとした』


 さらに一行。


『魔王城周辺の黒花焼却により、王都および王国全域に瘴気逆流の危険あり』


 ペン先が紙を破りそうになる。


 これは、死因記録ではない。


 だが、死者の記録から始まった真実だ。


「ノアさん」


 エリシアが俺を見た。


「国葬へ行きましょう」


「はい」


「兄を英雄として送るためではなく」


「魔王を悪として討った物語を、終わらせるために」


 マリナは震えながら頷いた。


 サイラスは水晶片を握りしめる。


 レオンは白い手袋を持ったまま、黙って立っていた。


 彼ももう、戻れない。


 俺たちは地上へ向かって歩き出した。


 階段の先から、光と歓声が漏れている。


 国葬の場。


 王国が最も美しい嘘を語る場所。


 そこへ、死者の記録を持っていく。


 胸元の黒花は、もう熱を失っていた。


 だが最後に、魔王の声が一つだけ残った。


『勇者は最後に、お前たち人間を救おうとしていた』


 俺は足を止めなかった。


 その言葉を、必ず民の前へ運ぶために。


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