第2話 葬儀屋は死者の傷を読む
聖女エリシアは、地下清拭室へ足を踏み入れた。
濡れた修道服の裾から、雨水が石床に落ちる。
一滴、二滴。
その音が、やけに大きく聞こえた。
彼女は棺台の上に横たわる兄を見た。
勇者カイゼル。
王国中の民が名前を知る英雄。
明日の正午には、王城前の大広場で国葬にかけられる男。
だが今ここにいるのは、英雄ではなかった。
冷えた体を白布に包まれた、一人の死者だった。
「兄さん……」
エリシアの声は、小さかった。
けれど、泣き崩れることはなかった。
俺は少し驚いた。
肉親の遺体を前にした者は、たいてい二つに分かれる。
声を上げて泣く者。
あるいは、何も言えなくなる者。
だが彼女は、そのどちらでもなかった。
棺台のそばまで静かに歩み寄り、勇者の顔を見つめている。
まるで、そこにある表情の意味を読み取ろうとしているようだった。
「……こんな顔で眠る人ではありません」
しばらくして、エリシアが言った。
「どういう意味ですか」
「兄は、悔しい時ほど笑う人でした。怖い時ほど強がる人でした。痛い時ほど、平気なふりをする人でした」
彼女の指が、白布の端に触れた。
「だから、こんなに穏やかな顔で死ぬはずがありません」
俺は黙っていた。
葬儀屋としてなら、こう言うべきだった。
死者の顔は、処置によって整えられている。
死に顔がそのまま本人の最期を示すわけではない。
遺族が望むように、穏やかに見えるよう整えるのも仕事だ、と。
だが、言えなかった。
彼女の言葉には、葬儀屋の技術では否定できない確かさがあった。
兄を知る者だけが持つ、違和感。
俺が傷から読み取るものを、彼女は表情から読み取っていた。
「ノアさん」
エリシアが俺を見た。
「あなたは、兄の体を見たのですね」
「仕事ですから」
「では、教えてください」
その目は、濡れていた。
だが、涙に濁ってはいなかった。
「兄は、本当に魔王に殺されたのですか」
答えてはいけない。
頭ではわかっていた。
国葬前の勇者の遺体に、聖女を近づけただけでも問題だ。
そのうえ死因の疑いを口にすれば、俺は葬儀局を追われるだけでは済まない。
英雄管理局に目をつけられれば、父と同じ道をたどるかもしれない。
それでも、俺は勇者の背中を思い出した。
細い刺し傷。
胸の偽装傷。
握られていた黒花の花びら。
死者は嘘をつかない。
葬儀屋がその声を無視したら、誰が死者の味方をするのか。
「……俺は、裁く者ではありません」
俺は言った。
「騎士でも、神官でも、役人でもない。ただの葬儀屋です」
「はい」
「だから、俺に言えるのは、死者の体に残っていることだけです」
「それで構いません」
エリシアは即答した。
俺は一度、深く息を吸った。
「公式発表では、カイゼル様は魔王の黒槍に胸を貫かれたことになっています」
「はい」
「ですが、胸の傷は致命傷ではありません」
エリシアの表情が、わずかに変わった。
「致命傷では、ない?」
「皮膚は裂けています。黒く焼けた痕もある。けれど、深さが足りない。肋骨も、心臓も、肺も、大きく損傷していません。あの傷では人は死なない」
「では……」
彼女の唇が震えた。
「兄は、どこを傷つけられて死んだのですか」
俺は棺台の横へ移動し、白布に手をかけた。
「見ない方がいいかもしれません」
「見ます」
「見れば、王国の発表を信じられなくなります」
「もう信じていません」
迷いのない声だった。
俺は、白布をめくった。
勇者の背中が露わになる。
鍛え抜かれた肩。
古い戦傷の痕。
そして、肩甲骨の下に残る細い刺し傷。
エリシアは息を呑んだ。
手で口元を押さえる。
それでも目を逸らさなかった。
「これが、致命傷です」
俺は傷の位置を指で示した。
「刃は背中から入り、心臓へ向かっています。角度から見て、カイゼル様は相手に背を向けていた。あるいは、相手が背後から近づいた」
「戦闘中に、偶然そうなった可能性は?」
「低いです」
俺は首を横に振った。
「魔王の黒槍なら、もっと傷口が広くなる。魔力焼けも深い。ですが、この傷は細い。短剣に近い刃です。しかも、刃先に残った魔力は黒ではない」
「黒ではない……?」
「聖属性です」
エリシアの顔から、血の気が引いた。
聖属性。
それは、教会や聖女、神官、王国儀礼に関わる力だ。
少なくとも、魔王の武器に宿るものではない。
「そんな……」
彼女は小さく呟いた。
「魔王の刃では、ないのですね」
「はい」
「魔族の武器でも?」
「俺が見た限りでは」
俺は一拍置いた。
「人間側の刃です」
地下清拭室に、沈黙が落ちた。
雨音だけが続いている。
エリシアは兄の背中を見つめていた。
涙が一粒、頬を伝った。
だがそれは、悲しみだけの涙ではなかった。
怒りだ。
兄を失った怒り。
兄の死を飾り物にされる怒り。
そして、兄を殺した者が味方の中にいるかもしれないという怒り。
「兄は、背中から刺された」
「その可能性が高いです」
「しかも、聖属性の刃で」
「はい」
「それなのに王国は、魔王の黒槍に胸を貫かれたと発表した」
彼女は一つずつ確認するように言った。
俺は頷いた。
「胸の傷は、死後につけられたものだと思います」
エリシアが、ゆっくりと俺を見た。
「誰かが、兄の死に方を書き換えたのですね」
「……そう見えます」
言ってしまった。
もう戻れない。
だが不思議と、後悔はなかった。
エリシアは兄の冷たい手に触れた。
その指先が、勇者の右手で止まる。
「兄は、何かを握っていましたか」
俺は一瞬、息を止めた。
「なぜ、そう思うんです」
「兄には癖がありました」
エリシアは勇者の手を見つめたまま言った。
「大切なものを誰にも奪われたくない時、右手で強く握るんです。子どもの頃からそうでした」
俺は白布の下に隠した黒花の花びらを思い出した。
隠し通すべきか。
だが、ここまで話しておいて、それだけを伏せる意味があるのか。
俺は白布の端をめくり、黒い花びらを取り出した。
「これを握っていました」
エリシアの瞳が揺れた。
「黒花……」
「魔王領の花です。王国では、魔族の呪いと呼ばれています」
「違います」
即座に、彼女は言った。
俺は眉をひそめた。
「違う?」
「兄が一度だけ、手紙に書いていました。黒花は呪いではないかもしれない、と」
「手紙?」
「魔王領へ向かう途中に届いた、最後の手紙です。ですが、その一文のあとが破られていました」
エリシアは震える声で続けた。
「兄は、何かを知ったのだと思います。魔王について。黒花について。そして、王国が隠している何かについて」
勇者が握っていた黒花。
死後につけられた胸の傷。
背中から刺された致命傷。
聖属性の刃。
点だったものが、ゆっくりと線になり始めていた。
だが、その線の先にあるものは、まだ見えない。
「ノアさん」
エリシアが俺の名を呼んだ。
「お願いがあります」
「俺にできることは多くありません」
「兄の本当の死因を、記録してください」
俺は答えられなかった。
それは、父がかつてやったことだ。
そして、父が消えるきっかけになったことでもある。
「記録すれば、あなたも危険です」
「知っています」
「あなたは聖女です。俺とは違う」
「いいえ」
エリシアは首を横に振った。
「今の私は、ただの妹です」
彼女は兄の手を両手で包んだ。
「兄を英雄として飾ってほしいのではありません。兄がどう死んだのかを、知りたいのです」
その言葉に、俺は胸の奥を掴まれた気がした。
葬儀屋は、死者を飾る仕事ではない。
死者を、正しく送る仕事だ。
それを、俺はいつの間にか忘れかけていたのかもしれない。
俺は作業台の引き出しを開け、薄い記録紙を取り出した。
葬儀局の正式な用紙ではない。
俺が個人的に使っている、私的な死者記録だ。
そこに、最初の一行を書く。
『勇者カイゼル。公式死因、魔王の黒槍による胸部貫通。実際の致命傷、背部刺創』
ペン先が震えた。
それでも、書いた。
エリシアは黙って見ていた。
俺が二行目を書こうとした、その時だった。
清拭室の扉の外で、硬い靴音が止まった。
今度は、ためらう足音ではない。
規則正しく、冷たい足音。
役人のものだ。
扉の向こうから声がした。
「英雄管理局です。勇者カイゼルの遺体確認に参りました」
俺とエリシアは、同時に顔を上げた。
記録紙には、まだ乾いていない文字が残っている。
勇者は、魔王に殺されていない。
その事実が、今まさに見つかろうとしていた。




