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勇者は背中から死んでいた  作者: swingout777


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第1話 雨の日、勇者の棺が届いた

 勇者は、背中から死んでいた。


 その事実に気づいた瞬間、俺は手にしていた白布を落としかけた。


 王都葬儀局、地下清拭室。


 分厚い石壁の向こうで、雨が降っている。

 地上では今ごろ、王都中の鐘が鳴っているはずだった。


 魔王討伐を成し遂げた勇者カイゼル。


 王国最強の剣士。

 聖女を守り抜いた英雄。

 そして、魔王と相討ちになり、世界を救って死んだ男。


 その遺体が、いま俺の前に横たわっている。


「……嘘だろ」


 思わず声が漏れた。


 俺の名はノア・アーベル。

 王都葬儀局に勤める、ただの葬儀屋だ。


 剣は振れない。

 魔法も使えない。

 祈りで死者を救うこともできない。


 俺にできるのは、死者の体を清め、傷を整え、遺された者たちが最後に見る顔を、少しだけ穏やかにすること。


 それだけだ。


 だから今日も、いつも通りの仕事をするはずだった。


 たとえ相手が勇者であっても。

 たとえ明日、王国史上最大の国葬が行われるとしても。


 死者は死者だ。


 俺はそう思っていた。


 だが、目の前の遺体は違った。


 勇者カイゼルの体は、公式発表と一致していなかった。


 王国広報局は、すでにこう発表している。


 勇者カイゼルは、魔王ゼルグレイスとの最後の決戦において、黒槍に胸を貫かれた。

 それでも彼は聖剣を振るい、魔王の心臓を砕き、世界に平和を取り戻した。


 国中がその物語に涙した。


 広場には勇者の肖像画が掲げられ、子どもたちは木剣を持って勇者の真似をしている。

 花屋からは白百合が消え、酒場では吟遊詩人が同じ歌を何度も繰り返していた。


 勇者は、世界を救って死んだ。


 誰もがそう信じている。


 けれど、俺の前にある遺体は、その美しい物語を否定していた。


 胸の傷は浅い。


 たしかに、そこには黒く焼けたような痕がある。

 見る者が見れば、魔王の黒槍による傷に見えるだろう。


 だが違う。


 この傷では死なない。


 皮膚は裂けているが、肋骨はほとんど損傷していない。

 出血の量も足りない。

 何より、傷口の周囲に生前反応が薄すぎる。


 これは、死後につけられた傷だ。


 誰かが、勇者の胸に「魔王に殺された証」を作った。


 では、本当の致命傷はどこか。


 背中だった。


 肩甲骨の下。

 心臓へ向かって斜めに入った細い刺し傷。


 剣ではない。

 槍でもない。

 もっと短く、細い刃。


 儀礼用の短剣か、祭具に近いもの。


 傷の角度から見て、正面からの戦闘ではあり得ない。

 相手は背後にいた。

 勇者が振り向くより早く、刃を突き立てた。


 つまり、勇者カイゼルは魔王に殺されたのではない。


 味方に背中から刺されたのだ。


 喉の奥が乾いた。


 俺は周囲を見回した。


 地下清拭室には俺しかいない。

 だが、石壁のどこかに耳があるような気がした。


 王国の英雄。

 明日、国葬にかけられる男。

 その死に疑いを向けることが、どれほど危険かはわかっている。


 葬儀屋は、死因を裁く者ではない。

 死者を整える者だ。


 そう教えられてきた。


 それでも、俺の指は勝手に動いていた。


 背中の傷口をもう一度確かめる。

 皮膚の変色。

 血の固まり方。

 筋肉の硬直。

 魔力の残り香。


 間違いない。


 勇者は背中を刺されたあと、しばらく生きていた。


 即死ではなかった。

 倒れ、呼吸をし、痛みを覚え、それでも何かをしようとしていた。


 その証拠に、右手の指が強く握り込まれていた。


 死後硬直だけではない。

 これは、最期の瞬間に何かを掴もうとした手だ。


「何を……」


 俺は慎重に、勇者の右手を開いた。


 硬く閉じた指を一本ずつほどいていく。

 無理に開けば骨を痛める。

 死者に乱暴をしてはいけない。


 手の中にあったのは、一枚の花びらだった。


 黒い花びら。


 薄く、焦げた紙片のように見える。

 けれど触れた瞬間、かすかな魔力が指先を刺した。


「黒花……?」


 魔王領にだけ咲くとされる花だ。


 死地に根を張り、魔力を吸って咲く不吉な花。

 王国では、魔族の呪いの象徴とされている。


 子どもでも知っている話だ。


 黒花を見たら近づくな。

 触れた者は魂を吸われる。

 魔王の庭には黒花が咲き、そこに迷い込んだ人間は二度と戻らない。


 だが、なぜ勇者がそんなものを握っている。


 魔王を倒した証か。

 それとも、誰かに託されたものか。


 そのときだった。


 背後の扉が開いた。


「ノア。準備は終わったか」


 俺はとっさに黒花の花びらを白布の下へ隠した。


 振り返ると、グラント局長が立っていた。


 王都葬儀局の長官。

 灰色の髭を整えた、普段は穏やかな男だ。


 だが今日の顔は違った。


 目が笑っていない。


「まだです。遺体の状態を確認しています」


「確認など不要だ」


 局長は低い声で言った。


「勇者カイゼルは、魔王との決戦で名誉の戦死を遂げた。死因は黒槍による胸部貫通。王国記録にもそう残る」


「ですが、実際の傷は――」


「ノア」


 局長の声が、石室の空気を切った。


「それ以上は言うな」


 俺は言葉を飲み込んだ。


 見てはいけないものがある。

 知ってはいけないことがある。

 葬儀屋として働いていれば、それくらい嫌でも覚える。


 貴族の毒殺が病死に変わることがある。

 戦場で逃げた兵士が勇敢な戦死者になることもある。

 逆に、誰かを守って死んだ者が、都合よく名前を消されることもある。


 死者は何も語れない。


 だから生きている者たちは、平気で死者の物語を書き換える。


「国葬は明日の正午だ」


 局長は続けた。


「それまでに遺体を整えろ。胸の傷が目立つように処置しろ。背中は見せるな」


「……なぜですか」


「命令だ」


「誰の」


 自分でも驚くほど、まっすぐな声が出た。


 局長の眉がわずかに動いた。


「英雄管理局だ」


 その名を聞いて、俺は息を呑んだ。


 英雄管理局。


 勇者、聖女、賢者、剣聖。

 王国に貢献した英雄を認定し、その功績を記録し、民に伝えるための機関。


 そう表向きは説明されている。


 だが実際には違う。


 英雄の物語を、王国に都合よく整える場所。


 勝利は大きく。

 敗北は小さく。

 裏切りは隠し、失敗は消し、醜聞は美談に変える。


 そして死者の言葉は、いくらでも書き換えられる。


「ノア」


 局長は俺の肩に手を置いた。


「お前は腕がいい。遺体を見る目もある。だからこそ言っておく。見えたものを、すべて口にするな」


「それが葬儀屋の仕事ですか」


「生き残るための知恵だ」


 その言葉には、脅しではなく、疲れがあった。


 局長も、かつて何かを見てしまったのだろう。

 そして黙った。


 黙ることで、生き残った。


 俺の父は違った。


 父も葬儀屋だった。

 死者の傷を読み、記録を残す人だった。


 けれどある日を境に、葬儀局から姿を消した。

 理由は教えられなかった。


 ただ母は言った。


 お父さんは、書かなくていいことを書いたのだ、と。


 局長は俺から手を離した。


「明日の国葬が終われば、すべて終わる」


「本当に終わるんですか」


「終わらせるんだ」


 そう言って、局長は部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 地下清拭室には、また雨音だけが残った。


 俺は勇者の遺体を見下ろした。


 顔は穏やかだった。

 だが、その背中の傷だけが叫んでいるように見えた。


 俺は殺された。

 俺の死を、嘘にするな。


 そんな声が聞こえた気がした。


「……困ったな」


 俺は小さく呟いた。


 葬儀屋にできることは少ない。


 死者を生き返らせることはできない。

 犯人を裁く権限もない。

 王国に逆らう力もない。


 だが、死者の傷を読むことだけはできる。


 死者は嘘をつかない。


 嘘をつくのは、いつだって生きている人間だ。


 俺は白布を取り、勇者の背中にそっと掛けた。


「カイゼル様」


 名前を呼ぶと、胸の奥に小さな火が灯った。


「あなたを英雄として飾る前に、俺はあなたを一人の死者として見ます」


 そのとき、清拭室の外から足音が聞こえた。


 軽い足音だった。


 兵士ではない。

 役人でもない。

 もっと静かで、ためらうような足取り。


 扉の前で、足音が止まった。


「ここに、兄はいますか」


 女の声だった。


 震えている。

 だが、折れてはいない。


 俺は息を整え、扉を開けた。


 そこに立っていたのは、白い修道服を雨に濡らした少女だった。


 銀色の髪。

 青ざめた頬。

 胸元に刻まれた、聖女の紋章。


 勇者カイゼルの妹。


 聖女エリシアだった。


 彼女は俺を見上げ、雨に濡れた睫毛を震わせた。


「お願いです」


 その声は、祈りではなかった。


 命令でもない。


 死者の前に立つ者の、切実な願いだった。


「兄の顔を、見せてください」


 俺は答えられなかった。


 国葬前の遺体確認は禁じられている。

 聖女であっても例外ではない。


 そう言うべきだった。


 だが、彼女の目を見た瞬間、俺は理解した。


 この人もまた、何かに気づいている。


 勇者の死に。

 王国の物語に。

 誰も口にしない嘘に。


 俺は扉の隙間を少しだけ広げた。


「見ても、後戻りはできません」


 聖女エリシアは、迷わず中へ入った。


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