第19話 黒花の記憶
魔王は、死んでいない。
宮廷魔術師サイラスの言葉は、英雄管理局の地下室に重く沈んだ。
遠くでは、国葬開始を告げる鐘が鳴っている。
王都の民は今ごろ、勇者カイゼルの棺を待っているはずだ。
魔王を討ち、世界を救い、胸を貫かれて死んだ英雄。
その美しい物語を信じて。
だが、真実は違う。
勇者は魔王を殺していない。
魔王もまた、世界を滅ぼそうとしていたわけではない。
そして勇者カイゼルは、魔王ではなく人間の刃で死んだ。
「黒花を……」
椅子に縛られていたサイラスが、かすれた声で言った。
「黒花の花びらを、見せてください」
俺は胸元から薬包紙を取り出した。
中には、勇者の右手から見つかった黒い花びらがある。
最初は、ただの不吉な遺品だと思っていた。
だが今は違う。
黒花は呪いではない。
瘴気を吸い、死者の記憶を抱く花。
勇者カイゼルが最期まで握っていた、真実の欠片だ。
サイラスは震える指で、花びらに触れた。
「これに、残っているはずです」
「何がですか」
「勇者様の最期です」
エリシアの顔が強張った。
「兄の……最期」
「はい」
サイラスは息を整えながら続けた。
「黒花は、強い魔力残滓と未練を吸います。特に、死の間際に抱いた記憶を。普通なら断片しか見えません。ですが、聖女様の祈りと、私の記録石の核を合わせれば……」
彼は、俺が持っていた小さな水晶片を見た。
「開けるかもしれません」
黒花の記憶を開く。
それは、死者の胸を切り開くような行為にも思えた。
俺はエリシアを見た。
「見ますか」
彼女はすぐには答えなかった。
兄の最期を見る。
それがどれほど残酷なことか、俺には想像することしかできない。
けれど、エリシアは逃げなかった。
「見ます」
声は震えていた。
だが、迷いはなかった。
「兄が残したものなら、私が受け取ります」
俺たちは地下室の床に、黒花の花びらと記録石の核を置いた。
サイラスが簡易の魔法陣を描く。
指先は震えていたが、線は正確だった。
マリナが祈りを捧げる。
自分の祈りが、かつて勇者の偽りの傷を作るために使われた。
その罪を抱えたまま、今度は真実のために祈っている。
エリシアは黒花の前に膝をついた。
「兄さん」
その声は、聖女の祈りではなかった。
妹の呼びかけだった。
「あなたが残したものを、見せてください」
黒花の花びらが震えた。
薄い黒の表面に、赤黒い筋が浮かび上がる。
まるで血管のように脈打ち、やがて淡い光を放った。
空気が変わる。
地下室の冷たさが消え、代わりに黒花の匂いが広がった。
視界が揺れる。
次の瞬間、俺たちは魔王城の中庭に立っていた。
いや、実際に移動したわけではない。
記憶の中だ。
黒花が一面に咲いている。
空は暗く、遠くで雷が鳴っていた。
中庭の中央に、勇者カイゼルがいた。
鎧は傷だらけだった。
頬にも血がついている。
だが、彼は立っていた。
聖剣を手にしながら、魔王ゼルグレイスへ剣先を向けていない。
下ろしている。
魔王は、黒花の根の奥に片膝をついていた。
巨大な体から黒い魔力が流れ出し、根へ吸い込まれている。
その姿は、世界を滅ぼす魔王ではなかった。
何かを必死に支えている者の姿だった。
『俺は……間違えていた』
記憶の中のカイゼルが言った。
『魔王を殺せば世界が救われると、本気で信じていた』
魔王は答えない。
ただ、黒花の根へ魔力を流し続けている。
『王都へ戻る。全部話す。魔王領で見たことも、黒花のことも、王国が隠してきたことも』
その時、背後で鎧の音がした。
カイゼルが振り返る。
そこに立っていたのは、近衛騎士レオンだった。
白い手袋。
震える右手。
腰には白銀の儀礼用短剣。
エリシアが息を呑む音が聞こえた。
記憶の中のレオンは、今より若く、今より追い詰められた顔をしていた。
『戻るな、カイゼル』
『レオン』
カイゼルは、友に向ける声で名を呼んだ。
『お前も見ただろう。ここは敵の城じゃない。墓だ。魔王は世界を壊しているんじゃない。支えている』
『戻れば、お前は殺される』
『なら、なおさら戻る』
『馬鹿を言うな!』
レオンの声が裂けた。
『お前一人が真実を言ったところで、王国は変わらない! 英雄管理局が握り潰す! 宰相が許すはずがない!』
宰相。
その言葉に、俺は拳を握った。
だが記憶の中のカイゼルは、静かに首を横に振った。
『それでも、俺は勇者だ』
『だから殺されるんだ!』
『違う』
カイゼルは、わずかに笑った。
『勇者だから戻るんじゃない。間違えた人間だから戻るんだ』
レオンの顔が歪んだ。
怒りではない。
恐怖だった。
『俺に命令が下った』
レオンが言った。
『お前を止めろと』
『誰から』
その問いに、記憶が乱れた。
黒い花びらが視界を横切る。
遠くで、別の声が聞こえた。
低く、冷たい男の声。
『勇者は、英雄として死ななければならない』
顔は見えない。
だが、声だけでわかった。
それは命令する者の声だった。
人を道具として扱うことに慣れた声。
レオンは両手で頭を押さえた。
『妹が……妹が王宮医療院にいる。逆らえば治療を止めると……』
カイゼルの表情が変わった。
責める顔ではなかった。
苦しむ友を見る顔だった。
『レオン』
『俺にそんな目を向けるな』
『俺はお前を責めない』
『責めろ!』
レオンは叫んだ。
『責めてくれ。剣を抜け。俺を敵だと言え。そうすれば……』
カイゼルは聖剣を握った。
だが、抜かなかった。
背を向けた。
魔王の方へではない。
黒花の根元に置かれた記録石へ向かったのだ。
『俺はこれを王都へ持って帰る』
カイゼルは言った。
『お前も来い、レオン』
その瞬間だった。
レオンの右手が、儀礼用短剣の柄に触れた。
親指が柄の飾りを一度なぞる。
手首が、わずかに内側へ沈む。
俺は息を止めた。
あの動きだ。
勇者の背中の傷に残っていた、あの癖。
エリシアが小さく「やめて」と呟いた。
だが、記憶は止まらない。
レオンは一歩踏み出した。
カイゼルは振り返らなかった。
友を信じていたからだ。
背中を預けても大丈夫だと、最後まで信じていたからだ。
白銀の刃が、勇者の背中へ吸い込まれた。
鈍い音。
カイゼルの体が揺れる。
エリシアの悲鳴が、地下室と記憶の中を同時に裂いた。
『……レオン』
カイゼルは倒れなかった。
背中に刃を受けたまま、振り返る。
レオンは短剣を握ったまま、泣いていた。
『すまない……すまない、カイゼル……』
カイゼルの口元から血が落ちた。
それでも彼は、レオンの肩に手を置いた。
『俺を……英雄にするな』
その声は、かすれていた。
『エリシアに……伝えろ』
レオンは首を横に振った。
『できない』
『なら……誰かが、見つける』
カイゼルの右手が、足元の黒花へ伸びた。
花びらを一枚、握りしめる。
血に濡れた指が、黒い花びらを強く包んだ。
『死者は……嘘をつけない』
その言葉に、俺の胸が締めつけられた。
まるで、勇者が俺を呼んでいるようだった。
記憶の奥で、またあの冷たい声が響いた。
『処置しろ。胸の傷を作れ。民には、魔王の黒槍で死んだと伝える』
記憶が激しく乱れる。
黒い外套。
金の羽根と剣の紋章。
顔を隠した大柄な騎士。
祈りを強いられるマリナ。
目を伏せるレオン。
作られていく、胸の偽りの傷。
そして最後に、カイゼルの閉じた手の中で黒花が光った。
視界が砕けた。
気づくと、俺たちは英雄管理局の地下室に戻っていた。
黒花の花びらは、床の上で静かに沈黙している。
誰も言葉を発しなかった。
マリナは泣いていた。
サイラスは目を閉じて震えていた。
エリシアは、床に膝をついたまま動かなかった。
そしてレオンは、入口のそばで立ち尽くしていた。
顔は真っ青だった。
白い手袋の右手が、小刻みに震えている。
「見ましたね」
俺は言った。
声が、自分のものではないように低かった。
「勇者カイゼル様を刺したのは、あなたです」
レオンは否定しなかった。
エリシアが、ゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた目が、レオンを捉える。
「なぜ」
その一言だけだった。
責める言葉も、怒鳴る声もない。
ただ、妹としての問いだった。
レオンの唇が震えた。
彼は剣を床に置いた。
次に、白い手袋を外した。
右手の甲には、古い傷痕があった。
勇者の血を浴びた夜から、何度洗っても消えなかったような傷。
「俺が」
レオンは、かすれた声で言った。
「俺が、カイゼルを刺した」
遠くで、国葬の鐘が鳴り響いた。
王国は今、勇者を英雄として送り出そうとしている。
だがその地下で、勇者を殺した男が、ようやく罪の名を口にした。




