第18話 宮廷魔術師サイラスの失踪
神官補佐マリナの証言で、勇者カイゼルの胸の傷が死後に作られたことは、ほぼ確定した。
だが、まだ足りない。
勇者の背中を刺した者。
その命令を下した者。
そして、勇者が魔王領で何を見たのか。
国葬の場で王国の物語を壊すには、もう一つ、決定的な証言が必要だった。
「サイラス様です」
祈りの間を出る前、マリナが震える声で言った。
「宮廷魔術師サイラス様なら、もっと詳しい記録を持っています」
「詳しい記録?」
俺は足を止めた。
サイラス。
勇者パーティーの生存者、三人目。
近衛騎士レオン。
神官補佐マリナ。
そして、宮廷魔術師サイラス。
彼だけが、まだ姿を見せていない。
「サイラス様は、遠征中ずっと記録石を管理していました」
マリナは言った。
「勇者様が残した記録石のほかに、もう一つ、予備の記録石を持っていたはずです」
エリシアが顔を上げた。
「兄の記録の続きですか」
「おそらく。魔王城から撤退する前、サイラス様は何かを隠していました。『これだけは王都へ持ち帰らなければならない』と」
俺は、魔王城で見つけた記録石を思い出した。
白い手袋が映ったところで途切れた映像。
もし、その続きがあるなら。
勇者が誰に刺されたのか。
誰が命じたのか。
そして魔王に何が起きたのか。
すべて残っているかもしれない。
「サイラス様は今どこに?」
俺が尋ねると、マリナは顔を曇らせた。
「王城東塔の魔術師室にいるはずでした。でも……昨日から姿が見えません」
「失踪した?」
「はい。国葬の祈祷打ち合わせにも来ませんでした。宮廷魔術師が国葬を欠席するなんて、あり得ません」
エリシアの表情が硬くなった。
「英雄管理局に捕らえられた可能性がありますね」
「高いです」
俺は答えた。
証言できる生存者が、国葬直前に姿を消す。
偶然とは考えにくい。
レオンは祈りの間の入口で、黙ったまま聞いていた。
「サイラスは臆病な男だ」
彼が低く言った。
「だが、記録だけは手放さない」
「知っているのですか」
「遠征中、あいつは何でも記録していた。食事の量、天候、魔族の言葉、黒花の分布。カイゼルが笑った回数までな」
少しだけ、レオンの口元が歪んだ。
笑ったのではない。
失ったものを思い出した顔だった。
「なら、サイラス様の部屋へ行きましょう」
エリシアが言った。
「国葬まで時間がありません」
俺たちは礼拝堂の裏手から、王城東塔へ向かった。
表ではすでに、国葬の列が動き始めているらしい。
遠くから群衆のざわめきが聞こえた。
勇者の棺が、王城前広場へ運ばれようとしている。
王国の用意した物語が、始まってしまう。
東塔の廊下は、人払いされていた。
魔術師室の扉には封印札が貼られている。
王宮魔術院の札ではない。
英雄管理局の封印だった。
「遅かったか」
俺が呟くと、レオンが剣の柄に手をかけた。
「破るぞ」
「待ってください」
エリシアが封印札に触れた。
聖女の魔力が淡く光る。
札の文字が震え、やがて力を失って剥がれ落ちた。
「兄の名を使った封印です」
彼女の声は冷たかった。
「勇者の遺品管理権限、と書かれています」
「死んだあとまで、便利に使われていますね」
俺は苦く言った。
扉を開ける。
部屋の中は荒らされていた。
本棚は倒れ、魔術書は床に散らばり、机の引き出しはすべて抜き取られている。
壁には焦げ跡。
床には割れた記録石の欠片。
誰かが徹底的に探した後だった。
「サイラス様……」
エリシアが部屋の奥へ進む。
俺は床に膝をつき、割れた記録石の破片を拾った。
魔力は抜かれている。
ただ壊されたのではない。
中身を吸い出された後、証拠を消すために割られている。
「英雄管理局の仕事ですか」
エリシアが尋ねた。
「おそらく」
俺は破片を光にかざした。
「ですが、全部ではありません」
「全部ではない?」
「壊され方が雑です。サイラス様ほどの魔術師なら、本当に重要な記録を机に置いたままにはしないはずです」
俺は部屋を見回した。
記録を残す者は、隠す場所にも癖が出る。
父は無縁納骨堂に記録簿を隠した。
死者のそばが一番安全だと考えたからだ。
では、宮廷魔術師サイラスはどこに隠すか。
魔術師なら魔法陣。
学者なら書物。
臆病な記録者なら、誰も触れたがらない場所。
俺は暖炉の前で足を止めた。
灰の中に、燃え残った紙がある。
普通なら処分されたものに見える。
だが、灰の一部が不自然に丸く盛り上がっていた。
「ここです」
俺は火かき棒で灰を払った。
中から、小さな骨壺が現れた。
エリシアが目を見開く。
「骨壺?」
「宮廷魔術師が実験用に使う動物骨の保管壺でしょう。誰も好んで触れない」
壺の蓋を開ける。
中に骨はなかった。
代わりに、小さな水晶片が一つ入っていた。
記録石の核だ。
そして、細く折りたたまれた紙片。
紙には、震えた文字でこう書かれていた。
『私が消えたなら、英雄管理局地下へ。黒花の記憶は、まだ開ける。魔王は――』
文は途中で途切れていた。
最後の文字は、乱れて読めない。
「地下……」
エリシアが呟く。
「英雄管理局に、地下室があるのですか」
レオンの顔色が変わった。
「ある」
俺たちは彼を見る。
「王城西棟の下だ。尋問室と、記録保管庫がある」
「サイラス様はそこに?」
「捕まっているなら、そこだ」
レオンは苦々しく言った。
「国葬が終われば、記録ごと消される」
俺は水晶片を握った。
まだ温かい。
サイラスは、連れ去られる直前まで記録を守ろうとしていた。
臆病でも、逃げようとしても、それでも最後に証拠を隠した。
なら、助けなければならない。
「行きましょう」
エリシアが言った。
「でも、国葬が」
「国葬の場には、ミラ王女がいます。少しだけなら時間を稼いでくれるはずです」
俺は頷いた。
「サイラス様の証言が必要です」
王城西棟の地下へ向かう通路は、レオンが知っていた。
近衛騎士だけが使う警備用の階段。
壁の奥に隠された扉を抜け、暗い石段を下りる。
下へ行くほど、空気が冷たくなった。
葬儀局の地下とも、魔王城の墓所とも違う冷たさ。
ここには弔意がない。
あるのは、隠すための闇だ。
階段の先には鉄扉があった。
内側から、かすかな声が聞こえる。
「……やめろ……それは、壊すな……」
男の声。
弱っているが、生きている。
「サイラス様」
エリシアが扉に駆け寄る。
レオンが剣を抜いた。
「下がれ」
一閃。
扉の錠が斬られた。
中に入ると、椅子に縛られた痩せた男がいた。
長い金髪は乱れ、片眼鏡は割れ、宮廷魔術師の青いローブは血と埃に汚れている。
彼の足元には、砕かれた記録石の破片が散らばっていた。
「サイラス様!」
エリシアが縄を解く。
サイラスはぼんやりと顔を上げた。
「聖女……様……?」
「しっかりしてください」
俺は彼の手首を見る。
拘束痕。
指先に火傷。
魔力を無理に引き出された痕がある。
記録石の内容を吐かせようとしたのだろう。
「記録は……」
サイラスがかすれた声で言った。
「全部は、渡していません……暖炉の……」
「見つけました」
俺が水晶片を見せると、サイラスは弱々しく笑った。
「よかった……葬儀屋殿は、死者だけでなく部屋の傷も読むのですね」
「冗談を言えるなら、生きていますね」
「残念ながら……少しだけ」
サイラスは咳き込んだ。
エリシアが治癒の祈りをかける。
淡い光が彼を包んだ。
「サイラス様。兄の記録の続きを持っているのですね」
サイラスの顔から笑みが消えた。
「はい」
「そこには、何が」
彼はすぐには答えなかった。
怯えたように、部屋の奥を見た。
壁には、英雄管理局の紋章が刻まれている。
金の羽根と剣。
記録を支配する者たちの印。
「私は、見ました」
サイラスは震える声で言った。
「勇者様が魔王に剣を向け、そして下ろすところを。魔王が黒花の根に自分の魔力を流し込み、世界の瘴気を抑えているところを」
俺は息を呑んだ。
「魔王は、世界を滅ぼそうとしていたのではない?」
「逆です」
サイラスは唇を震わせた。
「魔王がいたから、世界はまだ保っていた」
その言葉は、地下室の冷たい空気を裂いた。
エリシアが呆然とする。
「では、兄が魔王を討てば……」
「世界の瘴気を受け止める者がいなくなる」
サイラスは俺の腕を掴んだ。
驚くほど強い力だった。
「ノア殿。国葬を止めるだけでは足りません。勇者様の死因を暴くだけでも足りない」
「どういう意味です」
サイラスは、血の混じった息を吐いた。
そして、俺たちに向かって言った。
「魔王は、死んでいません」
地下室の時間が止まった。
「正確には……死ねなかったのです。黒花の根に、心臓だけを残している。世界の瘴気を抑えるために」
サイラスの目には、恐怖と希望が同時に宿っていた。
「勇者様は、それを王都へ伝えようとした。魔王を殺した英雄としてではなく、魔王を殺してはいけないと知った人間として」
遠くで、鐘が鳴った。
国葬の開始を告げる鐘だった。
王国は今、魔王を討った勇者の物語を民に語ろうとしている。
だが、その魔王は死んでいない。
そして、死なせてはいけない存在だった。
俺は水晶片を握りしめた。
勇者の死の真相は、王国の嘘だけでは終わらない。
世界そのものの危機につながっていた。




