表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
勇者は背中から死んでいた  作者: swingout777


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/40

第17話 神官補佐マリナの証言

 王都へ戻る道で、聖女エリシアは一度だけ足を止めた。


 魔王城の黒花は、背後で静かに揺れている。

 灰色の空の向こうでは、王都の鐘が鳴っていた。


 国葬は、もう始まろうとしている。


 ミラ王女は王宮へ戻った。

 近衛騎士レオンは少し離れた場所を歩いている。


 彼は一言も話さなかった。


 白い手袋の右手を握りしめたまま、ただ前を見ている。


 自分の罪を抱えた者の背中だった。


 だが、俺たちにはまだ足りないものがあった。


 勇者の遺体。

 黒花の記憶。

 勇者の記録石。

 聖剣の反応。

 英雄管理局の帳簿。

 父の死者記録簿。


 証拠は増えている。


 それでも、胸の偽装傷を誰が、どのように作ったのかを直接見た証人はいない。


 俺はエリシアに言った。


「国葬の場へ行く前に、もう一人会うべき人がいます」


 エリシアはすぐに察したようだった。


「マリナですね」


 神官補佐マリナ。


 勇者パーティーの生存者の一人。

 魔王領への遠征に同行し、祈祷と治癒補助を担当していた女性だ。


 近衛騎士レオン。

 宮廷魔術師サイラス。

 神官補佐マリナ。


 生きて帰った三人のうち、俺たちはまだマリナに会っていない。


「彼女は兄の遺体処置に立ち会っていたはずです」


 エリシアが言った。


「聖女である私の補佐役でもありました。けれど、兄の死後、私には一度も会いに来ませんでした」


「会えなかったのかもしれません」


「それとも、会いたくなかったのかもしれません」


 その声には、怒りよりも痛みがあった。


 かつて近くにいた者に沈黙された痛み。


 裏切られたと感じても仕方がない。


 王都へ戻る転移陣は、旧兵舎の地下につながっていた。


 そこから王城礼拝堂の裏手へ向かう。


 国葬の準備で、表通りは兵士と民で埋まっていた。

 白百合を抱えた人々が、勇者の名を口にしている。


 誰も知らない。


 彼らが弔おうとしている勇者の死が、王国によって作り替えられていることを。


 礼拝堂の裏庭は静かだった。


 国葬の本式は王城前広場で行われるため、礼拝堂にはほとんど人がいない。


 だが、祈りの間の扉の前に、一人の女性が立っていた。


 薄灰色の神官服。

 短く結んだ茶色の髪。

 青ざめた顔。


 彼女は俺たちを見ると、びくりと肩を震わせた。


「エリシア様……」


 その声は、怯えていた。


 エリシアは彼女を見つめた。


「マリナ」


 神官補佐マリナは、その場に膝をついた。


「申し訳ありません」


 最初に出た言葉は、それだった。


 エリシアの表情が強張る。


「何に対して謝っているのですか」


 マリナは答えられなかった。


 唇が震えている。


 俺は一歩前へ出た。


「マリナさん。あなたは勇者カイゼル様の死後処置に立ち会いましたか」


 彼女の顔から、さらに血の気が引いた。


「……はい」


「胸の傷を作る場にも?」


 マリナは目を閉じた。


 長い沈黙。


 やがて、彼女は小さく頷いた。


 エリシアが息を呑む。


「見ていたのですね」


「はい」


「兄の胸に、死んだあとで傷をつけるところを」


「……はい」


 エリシアの手が震えた。


 今にもマリナを責める言葉が出そうだった。


 だが彼女は、歯を食いしばって耐えた。


「話してください」


 その声は低かった。


「見たことを、全部」


 マリナは祈りの間へ俺たちを招き入れた。


 中には誰もいない。


 正面の祭壇には白い布が掛けられ、勇者のための祈祷文が置かれていた。


 その祈祷文の文字が、俺にはひどく虚しく見えた。


 世界を救った英雄へ。

 魔王に立ち向かった尊き魂へ。

 王国の光となった勇者へ。


 そこに、一人の人間としてのカイゼルはいない。


 マリナは祭壇の前で立ち止まった。


「勇者様の遺体が王都へ戻った夜、私は呼び出されました」


「誰に」


 俺が尋ねる。


「教会の上位神官です。英雄管理局の監査官もいました。勇者様の死に聖なる証を与える儀式だと説明されました」


「聖なる証?」


「魔王の黒槍に貫かれた傷を、国葬にふさわしく整えるためだと」


 俺は眉をひそめた。


「その時点で、胸には致命傷がなかったのですね」


 マリナは頷いた。


「はい。胸に、黒い痕はありませんでした」


 エリシアの顔が歪んだ。


 それは、俺たちの調査を裏づける言葉だった。


 勇者の胸の傷は、最初からなかった。


 死後、王都で作られたものだ。


「兄の本当の傷は?」


 エリシアが尋ねた。


 マリナの目に涙が浮かぶ。


「背中に……細い刺し傷がありました」


 祈りの間に沈黙が落ちた。


「あなたは、それを見たのですね」


「見ました」


「それでも、黙っていた」


 エリシアの声が震えた。


 マリナは床に額をつけた。


「申し訳ありません」


「謝罪ではなく、理由を聞いています」


 マリナは泣きながら言った。


「怖かったのです」


 その言葉は、小さかった。


 だが、嘘ではなかった。


「英雄管理局の人に言われました。勇者様の死は、王国のために正しく整えなければならないと。背中の傷を口にすれば、魔王の残党に惑わされた裏切り者として処分されると」


「それで黙ったのですか」


「はい」


 エリシアは一歩、マリナへ近づいた。


「兄は、あなたを守ったことがありましたね」


 マリナが顔を上げる。


「遠征の途中、魔獣に襲われた時、あなたは兄に助けられたと聞きました」


「はい」


「その兄が死んだ時、あなたは兄を守ってくれなかった」


 その言葉は、責めるためのものだった。


 そして、責められて当然だった。


 マリナは泣きながら頷いた。


「はい。私は、勇者様を守れませんでした」


 エリシアの瞳に涙が溜まる。


 だが彼女は、やはり泣き崩れなかった。


「胸の傷は、誰が作りましたか」


 俺は尋ねた。


 マリナは袖で涙を拭った。


「黒い祭具を使っていました。旧式の焼き鏝に、聖属性の魔力を流して……胸に押し当てました」


「誰が」


「英雄管理局の監査官が指示を出していました。実際に祭具を扱ったのは、顔を隠した騎士です」


 レオンの肩がわずかに震えた。


 彼は祈りの間の入口近くに立ったまま、沈黙している。


 マリナは彼を見た。


 恐怖に満ちた目で。


「レオン卿ではありません」


 その一言に、俺は意外さを覚えた。


「違うのですか」


「少なくとも、胸の傷を作った騎士は違います。背格好が違いました。もっと大柄で、右腕に古い火傷の痕がありました」


 新しい情報だった。


 胸の傷を作った実行者は、レオンではない。


 つまり、遺体偽装には別の騎士が関わっている。


 英雄管理局の手駒か。

 宰相バルドの直属か。


「では、レオン卿はその場にいなかった?」


 俺が問うと、マリナは首を横に振った。


「いました」


 空気が張り詰める。


 レオンは目を閉じた。


「レオン卿は、勇者様の足元に立っていました。ずっと、何も言わずに」


 エリシアがレオンを見る。


「見ていたのですか」


 レオンは答えない。


 マリナが続けた。


「焼き鏝が胸に押し当てられた時、レオン卿は一度だけ止めようとしました。でも、監査官に何かを囁かれて……それ以上、動けなくなりました」


「何を囁かれたか、聞こえましたか」


「すべては聞こえませんでした。ただ、妹君の名前だけ」


 レオンの白い手袋が、音を立てて握りしめられた。


 やはり妹を人質に取られている。


 マリナは震える声で言った。


「私は、何もできませんでした。祈ることしかできない神官補佐なのに、その祈りさえ、勇者様のためではなく、偽りの儀式のために使われた」


「あなたは、胸の偽装に祈りを?」


「はい」


 マリナは自分の両手を見た。


「聖属性の魔力を安定させるために、私が祈りました。私の祈りが、勇者様の嘘の傷を作ったのです」


 その告白は、彼女自身を切り裂いているようだった。


 俺は勇者の胸に残っていた金色の反応を思い出した。


 表面に塗られたような聖属性。

 背中の刺し傷とは異なる魔力の広がり。


 あれは、マリナの祈りだったのか。


「なぜ今、話す気になったのですか」


 俺は尋ねた。


 マリナはエリシアを見た。


「聖女様が、泣かなかったからです」


 エリシアは眉を寄せた。


「私が?」


「はい。勇者様の死後、私はずっと思っていました。聖女様が泣き崩れてくれれば、私も一緒に泣いて、何も知らないふりができると」


 ひどい言葉だった。


 だが、マリナは自分の醜さごと差し出していた。


「でも、あなたは泣かなかった。兄上の死を疑い、国葬に流されず、真実を探そうとしていた。だから……もう黙っていられませんでした」


 エリシアはしばらく何も言わなかった。


 祈りの間には、遠くの鐘の音だけが響いている。


 やがて彼女は、低く言った。


「私は、あなたを許せません」


 マリナは頷いた。


「はい」


「兄のために祈る立場にいながら、兄の死を偽る儀式に加わったことを、許せません」


「はい」


「でも」


 エリシアは一歩下がった。


「今、話したことだけは、認めます」


 マリナの目から、また涙が落ちた。


「ありがとうございます」


「礼を言うことではありません。国葬の場で、同じことを証言してください」


 マリナの顔が凍った。


「国葬で……?」


「はい」


「無理です。そんなことをすれば、私は教会を追われます。英雄管理局に捕まります。家族にも――」


「怖いのですね」


 エリシアが言った。


 責める声ではなかった。


 事実を確認する声だった。


 マリナは震えながら頷いた。


「怖いです」


 俺は彼女を見て、ふと思った。


 死者の体には傷が残る。


 だが、生きている者にも傷はある。


 刃で裂かれたものだけではない。

 恐怖で黙らされ、罪悪感で息を詰まらせ、自分の弱さを見ないようにしてきた傷。


 沈黙もまた、恐怖の傷だ。


「マリナさん」


 俺は記録紙を取り出した。


「あなたの証言を、ここに記録します。国葬の場で話せなくても、この記録は残ります」


 マリナは俺を見た。


「でも、それではあなたが」


「もう反逆者です」


 俺は苦笑した。


「一つ増えても変わりません」


 エリシアが静かに言った。


「いいえ。話してください、マリナ。あなた自身の口で」


 マリナは震えていた。


 長い沈黙の後、彼女は胸元の聖印を握った。


「……わかりました」


 その声は弱かった。


 だが、逃げる声ではなかった。


「国葬で証言します。勇者様の胸の傷は、死後に作られたものだと。私が、その偽りの儀式に加わったと」


 俺は記録紙に書いた。


『神官補佐マリナ証言。勇者カイゼルの胸部外傷は死後、旧式焼き鏝および聖属性祈祷により形成。儀式には英雄管理局監査官、顔を隠した騎士、神官補佐マリナ、近衛騎士レオンが立ち会い』


 ペン先を止める。


 そして一行、付け加えた。


『証言者は恐怖により沈黙していたが、国葬の場で証言する意志あり』


 マリナはその文字を見つめ、静かに泣いた。


 今度の涙は、逃げるための涙ではなかった。


 祈りの間の外で、鐘が鳴る。


 国葬開始まで、もう間もない。


 勇者を美談にするための舞台に、証人が一人加わった。


 沈黙していた神官補佐は、恐怖の傷を抱えたまま、それでも死者の側に立つことを選んだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ