第16話 王女ミラの告白
ミラ王女は、王都へ戻ると言った。
英雄管理局の帳簿を俺たちに渡し、自分は王宮の中で時間を稼ぐ、と。
だが、彼女はすぐには魔王城を去らなかった。
黒花の中庭に立ち、壁一面に刻まれた死者の名を見つめている。
人間の名。
魔族の名。
兵士の名。
子どもの名。
身分も種族も関係なく、ただ死者として残された名前。
ミラ王女は、その一つ一つを目で追っていた。
「王城には、こういう場所がありません」
やがて、彼女は静かに言った。
「英雄の名を刻む碑ならあります。戦勝記念碑も、勇者像も、勲章を受けた騎士の名簿もあります。でも……ただ死んだ人の名前を残す場所は、ありません」
俺は何も言わなかった。
葬儀屋として、その言葉の重さはよくわかった。
王国は、死者に意味を与えたがる。
勇敢な死。
名誉ある死。
国のための死。
神に選ばれた死。
だが、死者は必ずしも意味のために死ぬわけではない。
逃げたかった者もいる。
怖かった者もいる。
帰りたかった者もいる。
誰にも知られず、ただ巻き込まれて死んだ者もいる。
それでも王国は、死者を物語に並べる。
意味のない死を認めれば、国が掲げてきた正義が揺らぐからだ。
「殿下」
エリシアが口を開いた。
「なぜ、私たちに協力するのですか」
ミラ王女は、少しだけ振り返った。
「勇者カイゼルの死が許せなかったからです」
「それだけですか」
エリシアの問いは鋭かった。
ミラは目を伏せた。
「いいえ」
黒花が、足元で小さく揺れる。
「私が怖くなったからです」
「怖く?」
「王国が、です」
王女が自分の国を怖いと言った。
その声には、反逆者の熱ではなく、家族の罪を告白するような苦しさがあった。
「私は子どもの頃から、魔王は世界の敵だと教えられてきました。魔族は人間を憎み、黒花は魂を吸い、魔王領は死の土地だと」
ミラは壁の名前に触れた。
「でも、王宮の奥には違う記録がありました。黒花が瘴気を吸うこと。魔王城が死者の名を残す場所であること。魔王領にも人間の墓があること」
「知っていたのですか」
エリシアの声が震えた。
ミラは首を横に振った。
「すべてではありません。断片だけです。幼い頃、父王の書庫で見ました。その時は意味がわからなかった。でも、英雄管理局の帳簿を読むようになってから、少しずつつながったのです」
「なら、なぜもっと早く」
エリシアは言いかけて、唇を噛んだ。
責めたいのだろう。
当然だ。
兄は死んだ。
王国の嘘に巻き込まれて、背中から刺され、胸に偽りの傷を作られた。
ミラがもっと早く動いていれば。
そう思わずにはいられないはずだった。
ミラ王女は逃げなかった。
まっすぐ、エリシアの視線を受け止めた。
「怖かったからです」
彼女はもう一度、同じ言葉を言った。
「父に逆らうのが。宰相に目をつけられるのが。王宮で孤立するのが。王女という立場を失うのが。私の小さな善意が、何も変えられないまま潰されるのが」
その告白は、きれいではなかった。
けれど、だからこそ本当だった。
「私は良い王女でいたかった。孤児院に寄付し、戦災者を見舞い、民の話を聞く、優しい王女でいたかった」
ミラは自嘲するように笑った。
「でも、それだけでは王国の嘘を止められませんでした」
俺は父の記録簿を思い出した。
剣聖アーロン。
賢者リディア。
竜騎士バラム。
美しい物語に変えられた死者たち。
彼らの死は、一人の悪人だけで作られたものではない。
命令した者。
従った者。
見て見ぬふりをした者。
疑いながら黙った者。
沈黙もまた、死者の上に土をかける。
俺自身も、その一人だった。
「王国は、魔王という敵を必要としていたのですね」
俺が言うと、ミラは頷いた。
「はい」
その答えは短かった。
だが、重かった。
「敵がいれば、民は不安の理由を一つにできます。税が重くても、魔王討伐のためだと言える。兵士が死んでも、世界を守るためだと言える。飢饉が起きても、魔王の呪いだと言える」
「本当の原因を見なくて済む」
「そうです」
ミラの声は苦かった。
「王国は、魔王を倒したかったのではありません。魔王を必要としていたのです」
エリシアが息を呑んだ。
「では、兄が魔王を倒してはいけない理由を知ったから……」
「勇者カイゼルは、王国にとって危険になりました」
ミラははっきりと言った。
「魔王は絶対悪ではない。黒花は呪いではない。戦争は終わらせられる。勇者がそう語れば、王国の物語は壊れます」
「物語のために、兄は殺されたのですか」
「はい」
ミラの声が震えた。
「そして、その物語を作ってきたのは、宰相だけではありません。王家もです」
その場に沈黙が落ちた。
レオンは少し離れた場所で、何も言わずに立っていた。
白い手袋の右手を、強く握りしめている。
彼もまた、王国の物語に縛られた一人なのだろう。
だが、それで罪が消えるわけではない。
「父王は、すべてを知っていたのですか」
エリシアが尋ねた。
ミラはすぐには答えなかった。
「知っていたことも、知らないふりをしたこともあると思います」
「それは同じです」
「はい」
ミラは否定しなかった。
「同じです」
彼女は深く頭を下げた。
王女が、聖女に向かってではない。
勇者の妹に向かって。
「エリシア様。王家の一人として、謝罪します。あなたのお兄様を、王国は利用しました。生きている間も、死んでからも」
エリシアは唇を震わせた。
怒ればよかった。
罵ればよかった。
兄を返せと叫んでもよかった。
だが、彼女はそうしなかった。
「謝罪では、兄は戻りません」
「はい」
「私は、王家を許せません」
「当然です」
「でも」
エリシアは、黒花の中庭を見た。
「兄が命をかけて持ち帰ろうとした真実を、あなたが王宮の中から出すというなら」
彼女はミラを見た。
「今だけは、協力します」
ミラは顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「ありがとうございます」
「礼はいりません」
エリシアの声は冷たかった。
「兄のためです」
その言葉に、ミラは小さく頷いた。
俺は二人を見ながら、記録紙を取り出した。
死者の記録ではない。
けれど、これもまた残すべき証言だった。
『ミラ王女証言。王国は魔王を絶対悪として利用し、民の不安と戦争継続の理由を一つに集約していた。黒花および魔王城の真実を王宮の一部は把握していた可能性あり』
ペン先が止まる。
さらに一行を書き足した。
『王家も無関係ではない』
その文字は、思った以上に重かった。
ミラは俺の記録を見て、静かに言った。
「それも書いてください。曖昧にしないで」
「本当にいいのですか」
「私は、良い王女でいることをやめます」
彼女は王都の方角を見た。
「王国を変えたいなら、まず王家が嘘の上に立っていたことを認めなければならない」
遠くで鐘が鳴った。
国葬の準備が、最終段階に入った合図だ。
ミラ王女は外套のフードをかぶった。
「私は王宮へ戻ります。国葬の場で、宰相が勇者の物語を語り始めた時、必ず一度だけ式を止めます」
「一度だけ?」
「長くは無理です。王宮警備も英雄管理局も、すぐに動くでしょう」
「十分です」
俺は父の記録簿、英雄管理局の帳簿、勇者の記録石、聖剣を確認した。
そして黒花の花びらを胸元にしまう。
死者の証言は、揃いつつある。
あとは、それを民の前に出すだけだ。
ミラは最後に、レオンを見た。
「あなたも来るのですね」
レオンは答えなかった。
だが、逃げるとも言わなかった。
「レオン」
ミラの声は厳しかった。
「罪を抱えて黙ることは、償いではありません」
レオンの白い手が震えた。
「わかっています」
「なら、国葬で証言しなさい」
彼は目を伏せた。
長い沈黙の後、小さく頷いた。
エリシアは、その様子をじっと見ていた。
許したわけではない。
ただ、必要な証言者として見ている。
それでいいのだと思った。
死者のための真実に、きれいな感情ばかりが集まるわけではない。
怒りも、罪悪感も、恐怖も、後悔も。
すべてを抱えたまま、それでも前へ進むしかない。
ミラ王女は魔王城の門へ向かった。
去り際に、彼女はもう一度だけ振り返った。
「ノアさん」
「はい」
「勇者カイゼルを、王国の英雄ではなく、一人の人間として弔ってください」
「そのために、ここまで来ました」
ミラは小さく頷き、黒花の中を歩いていった。
王女の背中は細かった。
だが、その足取りはもう逃げていなかった。
王国の嘘を暴くために、王女は王宮へ戻る。
聖女は兄の真実を取り戻すために、国葬へ向かう。
近衛騎士は、自分の罪を抱えて沈黙を破る場所へ向かう。
そして俺は、死者の記録を持って、葬儀の場へ戻る。
国葬は、もうすぐ始まる。
だがそれは、王国が用意した美しい物語の終わりではない。
死者が、本当の名を取り戻すための始まりだった。




