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勇者は背中から死んでいた  作者: swingout777


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第13話 勇者が残した二つ目の遺言

 魔族の子どもは、黒花の中庭の奥へ俺たちを案内した。


 名を尋ねると、子どもは小さな声で「ニム」と答えた。


 ニムは裸足だった。

 雨上がりの黒い土を踏んでも、足音はほとんどしない。


 その背中を見ながら、俺は自分が教えられてきた魔族の姿を思い出していた。


 人間を憎み、死体を喰らい、黒花の呪いで魂を奪う者たち。


 だが、目の前を歩く子どもは、そんな怪物には見えなかった。


 手に抱えているのは、勇者カイゼルの名を書いた小さな木札だ。

 敵だったはずの勇者の墓を作るための札。


 その事実が、王国で教えられた物語を静かに壊していく。


「ここ」


 ニムが足を止めた。


 そこは、巨大な石扉の前だった。


 半分崩れた扉には、聖剣で刻まれたと思われる深い傷がある。

 だが、その傷は途中で止まっていた。


 扉を断ち切るには、力が足りなかったのではない。


 振り下ろす途中で、勇者がやめたのだ。


 聖剣を止めた。


 魔王を討つために来たはずの勇者が。


「兄は、ここで剣を下ろしたのですね」


 エリシアが呟いた。


 ニムは頷く。


「勇者、怒ってた。でも、泣きそうだった」


「泣きそう……?」


「魔王様が、奥を見せた。そしたら勇者、何も言えなくなった」


 俺は石扉へ近づいた。


 扉の隙間から、冷たい空気が流れてくる。


 腐臭ではない。


 古い石と、乾いた花の匂い。


 墓所の匂いだった。


「開けられるのか」


 ニムは石扉の横にある小さなくぼみに手を差し入れた。


 ごとり、と低い音がして、扉がわずかに開く。


「魔王様、言ってた。勇者の友だちが来たら、見せていいって」


 勇者の友だち。


 その言葉に、エリシアは少しだけ唇を噛んだ。


 勇者の友だったはずのレオンは、何かを隠している。

 そして今、魔王領の子どもが勇者を友と呼ぶ。


 敵と味方の境目が、わからなくなっていく。


 石扉の向こうは、広い地下空間だった。


 壁一面に、黒花が根を張っている。

 その根は光を吸うように黒く、けれどどこか脈打つように見えた。


 中央には、丸い石台がある。


 石台の上に置かれていたのは、小さな記録石だった。


 青白く濁った水晶のような石。

 王国軍が遠征記録を残す時に使うものだ。


「兄の……」


 エリシアが、石台へ駆け寄る。


 記録石の横には、折れた革紐が置かれていた。

 勇者の外套を留めるための紐だろう。


 エリシアはそれを見た瞬間、息を呑んだ。


「これ、兄が使っていたものです」


「では、この記録石もカイゼル様のものかもしれません」


 俺は慎重に記録石を手に取った。


 ひびが入っている。


 魔力は弱い。

 だが、まだ完全には消えていない。


「再生できますか」


「聖属性の魔力なら、反応するかもしれません」


 エリシアは頷き、両手で記録石を包んだ。


 祈りの言葉は口にしなかった。


 ただ、兄の名を呼んだ。


「カイゼル兄さん」


 その声に反応するように、記録石が淡く光った。


 空中に、揺れる映像が浮かび上がる。


 映っていたのは、勇者カイゼルだった。


 王都の肖像画よりも、ずっと疲れた顔をしている。

 頬には血がつき、鎧は傷だらけだ。

 それでも、彼の目は死んでいなかった。


『これが残っているなら、俺は王都へ無事に戻れなかったんだろう』


 エリシアの喉が、小さく鳴った。


 記録の中のカイゼルは、苦笑した。


『エリシア。もしお前がこれを見ているなら、まず謝る。心配するなと言ったのに、結局心配をかけた』


「兄さん……」


 エリシアは手で口元を押さえた。


 それでも、泣き崩れなかった。


 記録の中の勇者は、少しだけ視線を横へ向ける。


 そこに映ったのは、巨大な黒い影だった。


 魔王ゼルグレイス。


 角を持ち、黒い外套のような翼を背負い、王国の絵物語なら見るだけで子どもが泣き出すような姿。


 だが、その魔王は玉座にふんぞり返ってはいなかった。


 石壁に名を刻んでいた。


 人間の名を。


『俺たちは、倒すべき相手を間違えていた』


 カイゼルの声が響く。


『魔王城は要塞じゃない。墓だ。ここには、人間も魔族も関係なく、死んだ者の名前が刻まれている』


 映像が少し乱れる。


 黒花の根が、壁を這うように揺れている。


『黒花も呪いじゃない。魔王領に溜まった瘴気を吸い上げるためのものだ。王国は、たぶん知っている。知ったうえで、民には呪いだと教えている』


 俺は息を止めた。


 やはり、勇者は黒花の真実を知っていた。


 そして、それを王国へ持ち帰ろうとしていた。


『魔王ゼルグレイスは、世界を滅ぼすためにいるんじゃない。少なくとも、俺が見た限りでは違う』


 記録の中で、カイゼルは拳を握った。


『あいつは、世界に溜まった汚れを引き受けている。人間が捨てた戦争の瘴気も、魔族が流した血も、全部ここに集まっている』


 エリシアが震える声で呟いた。


「そんな……」


 王国が語ってきた魔王像とは、何もかも違う。


 魔王は世界を滅ぼす存在。

 勇者はそれを討つ存在。


 その単純な物語が、勇者本人の口から崩されていく。


 記録のカイゼルは、ふっと笑った。


『エリシア。俺は魔王を倒して帰るつもりだった。でも今は違う。この事実を王都に持ち帰る。魔王領と王国の戦いを止める。俺が勇者だというなら、たぶん、それが俺のやるべきことだ』


 エリシアは、記録石を包む手に力を込めた。


『だけど、もし俺が戻った時、王国が俺を英雄として飾ったなら――』


 映像が激しく揺れた。


 遠くで爆発音のようなものが聞こえる。


 カイゼルが振り返る。


 誰かの声が混じった。


 低く、焦った男の声。


『カイゼル、時間がない』


 顔は映らない。


 だが、鎧の金具が鳴る音が聞こえた。


 エリシアが息を呑む。


「今の声……」


「レオン卿かもしれません」


 俺は記録を見つめた。


 映像は乱れている。


 カイゼルは再び正面を見る。


『エリシア。俺が英雄として帰ってきたら、その物語を疑え』


 第1の遺言。


 出発前に妹へ残した言葉。


 だが、記録はそこで終わらなかった。


 カイゼルは、さらに続けた。


『そして、俺が死んでいたら――』


 彼は一瞬、言葉を詰まらせた。


 恐怖ではない。


 覚悟だった。


『俺を、英雄として弔わないでくれ』


 エリシアの目から、涙が一粒落ちた。


『俺は間違えた。魔族を憎み、魔王を倒せば世界が救われると信じた。そのせいで、名前も知らない多くの死者を作った』


 記録の中の勇者は、深く頭を下げた。


 誰に向けてかはわからない。


 魔族にか。

 死んだ兵士にか。

 妹にか。

 それとも、未来にこの記録を見る者にか。


『だから、せめて最後は、一人の人間として送ってほしい。王国の物語じゃなく、俺が見たものを、俺が間違えたことを、誰かに残してほしい』


 俺は胸を掴まれたような気がした。


 勇者は、自分を美しく飾ってほしいのではなかった。


 間違えたことも、迷ったことも、知らなかったことも含めて、残してほしいと願っていた。


 それは、葬儀屋が死者にできる最も難しい仕事だった。


 死者をきれいにするのではない。


 死者を、正しく残す。


『ノア・アーベル』


 突然、自分の名が呼ばれた。


 俺は目を見開いた。


 記録の中のカイゼルが、こちらを見ているように思えた。


『もしこの記録が、お前のところへ届いたなら、頼みがある』


「俺を……知っていた?」


 俺は呟いた。


 あり得ない。


 俺は勇者カイゼルと直接話したことなどない。

 ただ、国葬の遺体処置を担当しただけの葬儀屋だ。


 だが、カイゼルは続けた。


『お前の父に、かつて世話になった。あの人は、死者の名を消さない葬儀屋だった』


 父。


 また父の名が、ここでつながる。


『だから、お前にも頼む。俺の死を調べてくれ。俺が魔王に殺されたことになっていたら、それは嘘だ』


 エリシアが震えた。


 俺は息を忘れていた。


『俺を殺すのは、たぶん魔王じゃない』


 その瞬間、映像の奥で扉が開く音がした。


 カイゼルが振り返る。


 白い手袋が、一瞬だけ映った。


 顔は見えない。


 だが、その手は震えていた。


 そして記録は、そこで途切れた。


 青白い光が消える。


 地下空間に、沈黙が戻った。


 エリシアは記録石を抱えたまま、しばらく動かなかった。


 やがて、震える声で言った。


「兄は……自分が殺されるかもしれないと知っていたのですね」


「はい」


「それでも、王都へ戻ろうとした」


「真実を持ち帰るために」


 俺は記録石を見つめた。


 勇者が残した二つ目の遺言。


 英雄として弔うな。

 一人の人間として送ってほしい。

 俺の死を調べてくれ。


 それは、俺に向けられた依頼だった。


 葬儀屋への、死者からの依頼。


 俺は深く息を吸った。


「エリシアさん」


「はい」


「王都へ戻りましょう」


 彼女は涙を拭い、頷いた。


「兄の国葬を、止めるために」


「いいえ」


 俺は首を横に振った。


「本当の葬儀にするために」


 黒花が、地下空間で静かに揺れていた。


 勇者カイゼルは、もう剣を握れない。


 声を上げることもできない。


 だが、その死はまだ終わっていない。


 俺は記録石を布で包み、父の記録簿と共に背負った。


 死者が残した証言は、これで一つ増えた。


 そして王国の嘘は、少しずつ形を失い始めていた。


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