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第八話:帝都の影

 半年で、何が変わったか。


 マリンは朝の支度をしながら、時々そう考える。答えはいつも同じで、変わったものと変わらないものが半々だった。


 変わったもの——廊下の長さは体で覚えた。朝食の時間帯にどの貴族がどの席に座るか分かるようになった。レオンが執務から戻る時の足音で、今日の政務が重かったかどうか判断できる。イゾルデ様の助言の意味が、言われた瞬間ではなく数日後に分かるようになった。


 変わらないもの——ヴェルダン派閥の視線は今も冷たい。石造りの天井は今も高い。夜になると帝都の風は竜の国より冷える。


「マリン様」


 ミレーユが扉を開けた。


「今朝の公務の確認をよろしいでしょうか?」

「ええ、どうぞ」


 ミレーユが書類を広げる。午前に陳情の受付、午後に慈善施設の視察。慈善施設はイゾルデ様が長年支援してきた場所で、マリンが引き継ぐ形で今月から関わり始めていた。


「視察の同行者ですが……」とミレーユは続けた。「クロノス様とリベル様の件、そろそろご判断をいただく必要があります」


 マリンは手を止めた。


「2人から何か?」

「はい。昨夜、クロノス様より。帰国の期限について、シズク王妃からそろそろ打診があるはずだと」


 半年、と最初に言ったのはシズクだった。長くても半年、それ以上は2人の本来の仕事に支障が出る。マリンも分かっていた。分かっていたが——。


「今日、返事をします」とマリンは言った。「午前の陳情が終わってから」


「かしこまりました」


 ミレーユが一礼して、お茶の準備に下がった。



 ◇◆◇◆◇



 陳情の受付は、長広間の一角で行われた。


 マリンの役割は主に聞くことだった。帝国の慣習では皇妃が直接陳情を受けるのは異例だとイゾルデから聞いていた。それでも続けているのは、イゾルデ自身が20年かけて作った前例があるからだ。


 3件目の陳情が終わり、次の陳情人が案内されるまでの短い間に、ミレーユがお茶を持ってくるはずだった。


 来なかった。


 マリンは気づかないふりをした。気づかないふりをしながら、扉の方を見た。廊下でミレーユが何かをしている気配がある。声はない。動きがある。


 4件目の陳情人が入ってきた。マリンは視線を正面に戻した。


 陳情が終わり、部屋が一時的に空になった。ミレーユが戻ってきた。お茶はなかった。


「少々お待ちください」とだけ言って、また下がった。


 その目が、普段と違った。感情を表に出さない人間の、それでも隠しきれない緊張の色だった。


 マリンは何も聞かなかった。


 次のお茶が来たのは、それから15分後だった。別の茶器で、別の茶葉だった。マリンはそれを一口飲んで、何も言わなかった。


 陳情の受付が全て終わり、広間から人が引いた後で、ミレーユが静かに扉を閉めた。


「申し訳ございません、お時間を取らせました」

「お茶が変わっていたわ」

「……お気づきでしたか」

「ミレーユが遅れる理由はそれくらいしか思い当たらなくて」


 ミレーユはわずかに目を伏せた。それから、いつもの実務的な声で言った。


「最初にお持ちする予定だったお茶に、異物が混入していました。廊下での受け渡しの際に給仕が見慣れない粉を入れるところを、リベル様が確認されていました。合図を受けて茶器をすり替えました。混入物はクロノス様が保管されています」

「その給仕は?」

「別室で拘束中です。リベル様が」


 マリンは答えなかった。


「誰の指示か、分かりそう?」

「クロノス様が今夜動かれるはずです」


「そう」とマリンは言った。「ミレーユ」


「はい」

「ありがとう」


 ミレーユは一瞬だけ、わずかに表情が動いた。それからすぐに戻った。


「お役目ですので」



 ◇◆◇◆◇



 夜になってから、クロノスが戻ってきた。


 マリンの自室に、音もなく。リベルはすでに部屋の隅に座っていて、クロノスが入ってくると「お帰り」と短く言った。クロノスは頷いた。


 4人で声を落として向き合った。


 クロノスの報告は短く、密度があった。


 給仕を動かしたのは、ヴェルダン派閥の中でも強硬派の貴族2名。どちらも通商連合との繋がりがある。今夜の内偵で、2名が交わした書簡を回収した。マリンへの毒殺を明示的に示す内容ではないが、「問題の解消」という文言と金銭の授受が記録されている。


「これは使える?」とマリンはクロノスに聞いた。


「……十分だ」

「……でも公にするつもりはないわ」


 クロノスが目を細めた。


「ではどうする?」


「2人に会う。書簡を持って」マリンは少し考えてから続けた。「帝都の南区に、食糧が届きにくい地区がある。イゾルデ様から聞いた。そこへの定期供出を、2人の名前でやってもらう。慈善の実績として公に記録する」


 沈黙があった。


「罰しないの?」とリベルが聞いた。珍しく、真剣な声だった。

「罰したら終わりだから」とマリンは言った。「終わらせない方が使える」


 ミレーユが静かに口を開いた。「書簡の存在を知っているのは私たちだけです。2人はその事実を抱えたまま、マリン様の庇護の下で慈善を続けることになる。攻撃してきた相手が、いつの間にか味方の形をしている」


「竜のやり方、ですね」とリベルが言った。

「帝国のやり方でもある」とマリンは言った。「イゾルデ様から教わったわ」





 翌日、マリンは2名の貴族を別々に呼んだ。


 書簡は見せなかった。ただ、東部商会の取引記録と、南区の食糧事情の資料と、白紙の供出誓約書を並べた。2人とも、白紙の誓約書の意味を理解するまで時間はかからなかった。


 署名が終わった後で、マリンは微笑んだ。


「帝都の民のために、ご協力いただけて光栄です」


 2人が退室した後、ミレーユが書類を片付けながら静かに言った。


「さすがでございます、マリン様」


「さすがじゃないよ」とマリンは言った。「ミレーユが段取りしてくれたから。クロノスとリベルが動いてくれたから。私はただ、署名させただけ」


「それができることが、さすがなのです」

「ミレーユこそ、お茶が遅くなった理由を私に一言も言わずに対処したじゃない。あの場で私が動揺したら全部崩れてたわ」


 ミレーユがわずかに目を伏せた。


「リリア様に言わせれば、及第点にも満たないかと」

「リリアさんの基準が高すぎるんだと思う……」


 マリンは窓の外を見た。南区の方角は、帝都の中でも灯りが少ない。来月から、そこに食糧が届く。2人の貴族の名前で。


「ねえ、ミレーユ」

「はい」

「あの2人、ちゃんと続けると思う?」


「続けざるを得ない状況にしてございます」とミレーユは言った。それから少しだけ間を置いて続けた。「ただ——慣れれば、悪くないと思い始める方も出てくるかと。人は、自分の名前で誰かが助かる経験を、案外嫌いにはなれないものですので」


 マリンはそれを聞いて、少し笑った。


「それ、イゾルデ様に聞いた話と同じだ」

「皇妃様は賢明な方ですから」


 夕方、クロノスが自室に来た。リベルも一緒だった。


「シズクから通信が来た」とクロノスは言った。「帰国の件」


「うん」

「どうする?」


 マリンは少し考えた。今朝の茶器のことを考えた。ミレーユの目のことを考えた。2名の貴族の、署名する手が震えていたことを考えた。


「2人で決めて」とマリンは言った。「私が引き留めるのは違うから」


 クロノスが黙った。リベルがクロノスを見た。クロノスはしばらく何も言わなかった。


「……もう少しいる」

「クロノス」


「今日みたいなことが、また起きる可能性がある」クロノスは窓の外を見たまま言った。「それだけだ」


 リベルが小さく笑った。「私も残る。まだ南区の厨房に顔出してないし」


 マリンは2人を見た。


「ありがとう。2人とも」


 クロノスは答えなかった。でも、影に消える前に、ほんのわずかだけ足を止めた。それがクロノスなりの返事だと、マリンには分かった。


 部屋に1人残って、マリンは通信の筆を取った。


 シズク、今日ちょっと事件があった。でも大丈夫。2人はもう少しいてくれることになったよ。詳しくは明日話す——あと、南区に食糧が届くことになった。


 筆の先が光るのを待ちながら、マリンは思った。


 半年で変わったもの。帝都で、少しだけ自分の居場所ができた気がする。


 まだ少しだけど。


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